第8話

 何やらおかしな熱に浮かされたクリスマスは終わり、日付は12月26日を迎えた午後三時、携帯電話の呼び出し音に気付き、僕はベッドから半身を起こして、テーブルに手を伸ばす。

 敢て、着信番号の確認はしなかった。

「はい、もしもし」

「あ、富永さん、ですか?」

 聞き覚えがあるような、無いような、若い女の子の声だった。

「はい、富永ですけど・・・」

「あの・・・わたし、分かります?」

「あ、いや、えっとぉ・・・」

 僕が返答を言いあぐねていると、受話器の向こうの相手が先に口を開く。

「わたし、一昨日おととい、電話した、峰って言います。美香と一緒に居た・・・」

 ああ、そうか、聞き覚えのある声だと思ったのは、そういうことだったのか。

 それでも僕はこちらから声を出す訳でもなく、ただ黙って相手の次の言葉を待った。

「あのぉ、富永さん、今、大丈夫ですか?」

「あ、ああ、いや・・・。うん・・・ええっと・・・、大丈夫・・・だけど・・・」

 ボンヤリとして、何ともあやふやな答えで、僕自身がシャキッとしない自分に嫌気が差す。

 この二日間、殆どベッドの中で過ごした僕は、もうこの先は他人と関わることも喋ることも一生無くて良い、そう頑なに思うくらいに浮世から離脱していた感覚だったし(たった二日で、だ)、自分が消えてなくなれば良い、そんな風にも思っていたし、何なら眠りに落ちて、二度と目覚めなくたって構わない、いや寧ろそうあって欲しいとさえ願っていた。

 しかし、そんなことは許される訳も無く、こうして『峰』と名乗る女の子に、現実世界に引き戻された。

「あんまり大丈夫そうじゃないですよね・・・。でも、美香も・・・、美香も、大丈夫じゃないんです。分かりますよね?言ってること」

 ・・・分かる。

 それは分かるのだけれど、だからって、僕にどうしろと?

 責められて当然だとは思う。

 でも・・・、だけど・・・、僕を責めないでくれ。これ以上は耐えられないんだ・・・。


 僕は携帯電話を耳に押し当てたまま、ひと言も発することが出来ずに、ただ黙ったまま、相手の次の言葉を待っていたのか、それとも相手が諦めて電話を切るのを期待していたのか、それすら分からない・・・。


 いや、僕を貶してくれ、死ぬほど酷い言葉で罵倒してくれ、『最低だ』『酷い男だ』『おまえなんか死んでしまえ』って、そい言って罵られた方が、まだマシだ。


 けれど、そんなに都合よく事が運ぶ筈も無く・・・。


「・・・富永さん?美香、まだあなたのこと、信じてますよ。・・・クリスマスプレゼントにって作った、手編みのマフラー、渡したいって・・・。私からは、これ以上言うことは在りませんけど・・・。聞いてます?」


 聞いてるさ、聞こえているさ・・・。


 信じてるって、僕の何を、何処をさ?


 あんなことをして、美香を泣かしておいて、何故、まだ僕を信じられる?


 ・・・・・・・・・・。


 確かに、結果として、僕は智恵美先輩にフラれた。そういった意味では、何も無かった・・・。

 いや、そんな事じゃないのだ。


 今気付いたのだけれど、何故あの時、そう、智恵美先輩と二人、美香の前を無言で通り過ぎた時、自分自身に嫌悪感を覚えたのか、その理由が、何となく分かってきた気がしていた。


 僕は、美香との関係を続けるのが、怖かった、のだ、と。


 確か、美香と付き合い始めて半年が経とうという頃、僕は美香の身体を求めて、そして、拒否された。

 いや、それがあからさまな拒絶であったかどうかは分からない。けれどその時、いや、その時ではなく、その後、少しずつ、その恐怖は増幅されていったのに違いなかった。


 このままいくと、きっとその内、美香と結ばれることになる。それは、美香にとっての最初の経験相手になる筈だ。

 しかし、を彼女が大事に思っていることが伺える以上、僕は簡単な気持ちで彼女の身体に触れることが、次第に出来なくなってしまった。

 と引き換えに、何だか重たい責任を負わなければならないという、恐怖・・・。

 それまで、そんなことは一度も考えたことが無かった。


 僕の初体験は高校三年生の夏、自分の地元の同級生の女の子だった。

 別に好きな相手だったとか、付き合っていたとかそういうのでもなく、ただ何となく、お互いに嫌いではなく、どちらかというと気が合う者同士、そして、その女の子はとても綺麗な子だった。間違いなく。

 そこに恋愛感情に似たようなものは確かにあったのだが、しかし、恐らく僕だけでなく、相手にもそれ以上の「覚悟」みたいなものは無かったのだと思う。

 大学進学の為に地元を離れ、最初の夏休みに帰省した僕は、彼女が独り暮らしを始めたアパートにも数回訪れたが、その次の長期休暇の冬、僕は帰省しなかったし、その後、何となくその子との連絡は途絶えてしまった。

 春休み、彼女に事前連絡もしないで再び帰省した僕は、帰省直後、最初に会った高校時代の友人に彼女のことを聞かされた。(その友人も、彼女と同じ地元の大学に通っていた)

 彼女は大学のサークルの先輩と付き合い始めたらしい、ということを。

 そのことを聞かされた僕は、確かに哀しく恨めしい気持ちになったことは否めないし、正直、その日の晩はその友人と無茶な飲み方をして、翌日散々に吐きもした。

 それでも、その時思っていたのは、先に聞いておいて良かった、知らずに会いにでも行って恥をかかずに済んだ、そんな風なことだった気がする。


 春休みが終わり、自らの大学に戻った僕は、その半年後、「あの日、あの場所」で、当時まだ高校二年生になったばかりの美香に出会った・・・。



 美香のことは好きだ。

 でも、それはいつまで続く?

 一生?

 有り得るのか?そんなことが・・・?

 僕はまだ学生で、将来のことなんてテンで想像がつかない。就職するのだろうか?多分するのだろう・・・。

 そして、美香と・・・結婚?

 想像がつかない・・・。

 僕が家庭を・・・。

 いやいや、全く現実味がない。

 幾ら好きでも、他人と一つ屋根の下に暮らし、寝食を共にし、朝起きて『おはよう』と言い、仕事に出掛け、『ただいま』と帰り、『お帰りなさい』の言葉を聞く毎日・・・。

 無理に決まっている・・・。


 頭では分かっている。

 別に、自分が彼女の最初の経験相手になったからと言って、必ずしも結婚しなければならない訳ではないし、結婚したとしても、その後離婚だってあり得る。

 しかも、もし仮に僕が結婚を望んだとしても、美香の方がそれを望まないことだって、この先起こるかもしれない・・・。


 起こらないか・・・?彼女の性格上・・・。


 自分が何をしたいのか、どうなりたいのか、いや、それ以上に、今の自分自身が何者なのかさえ分かっていない僕は、本当は美香に苛ついていたのではなく、自分自身に焦りと不安、そして腹立たしさを覚えていたに違いない。


 あの時、そんな自分を薄々感じつつ、そしてそのことが如何にも下品で浅ましいと卑下し、自らに正直に向き合おうとせずに、その責任を他者(美香)に転嫁しようとしている自分に嫌気が差したのだ。



 今なら、まだ間に合う・・・か?

 無かったことに・・・ならないか?


 僕はこれ以上、この『恐怖』と戦う勇気も覚悟も根性も無いし、今ならまだ美香の傷も浅くて済むんじゃないだろうか・・・。


 美香は恐らく僕のことを誤解している。


 本当はこんなにも情けなくて、つまらない、そして情緒不安定の大馬鹿者なのだ、僕は。


 美香はそんな僕を知らずに、買いかぶり過ぎだ・・・。


 ごめん・・・騙すつもりは無かったんだよ・・・。


 今からでも頑張ればいいじゃない・・・多分美香はそう言ってくれるに違いない・・・。


 でも、ダメなんだ・・・。僕が耐えられない・・・。



 そして、もうひとつ。

 もうひとつの恐怖・・・。


 それは、僕の向こう見ずでバカな行動は、いつか必ず美香を巻き込んで、美香が酷い目に合うかもしれない、ってことだった。

 確かにクロ、クマの警察沙汰以降、特に僕が狙われるようなことは無かったが、いつも何処かでビクついている僕が居た。

 奴らはシンナーでラリっていたとはいえ、実際に美香と僕が一緒に居るところを見ている訳で、然も彼女の自宅近くでの出来事だった。

 他人前では「そんなことはどうってことはない」と、強がって見せはしても、内実、美香と一緒に表を歩くことにはかなりの戸惑いがあった。

 独りで出歩く分には全く躊躇も迷いも無かったのは確かだが、こと、美香のことになると、『万が一』という文字が脳裏を過るのだ。


 しかし、それにしたって、本当は怪しい・・・。


 美香のこと思って・・・、本当にそうだっただろうか・・・。


 もし、美香のことを守り切れなかったら・・・。それは、美香のことが大切だからというよりは、僕自らの保身の為ではなかったか?

 もし僕のせいで美香に何らかの被害が及んだ場合、僕は美香を見捨てて逃げ出すんじゃないか・・・。


 そんな自分への侮蔑と、本当は自分の行動に責任も取れない未熟な自分への忸怩じくじたる思い・・・。



「富永さん?大丈夫ですか?」

 再度「大丈夫か?」と問い質す『峰』と名乗る美香の女友達の声で我に返った。

 頭の中、胃の裏側辺りが如何にも重ったるいヘドロのようなもので満たされている感覚と、耳と脇、それから膝の裏側に何とも嫌な熱感を帯びているのが分かる。

 一度は我に返ったものの、その先の峰の声は、ただ僕の頭の中で、『音』として反射を繰り返すばかりで、何一つ内容は理解していなかったと思う。

 そして、その『音』を聴きながら、ふと思い出したことがあった。


 美香の誕生日は、1月7日だった・・・、と。



「峰・・・さん・・・」

 僕は峰の言葉は何も聞いてはいなかったが、峰に問い掛ける。

「はい、何でしょう?」

「ひとつ、お願いしたいことが有るんだけれど・・・、良いかな?」

「何でしょう?」

 峰の声は若干の訝しがる様子を孕んだものだったが、僕は構わず続けた。

「美香に、伝えて欲しいこと、そう、伝言を頼まれてくれないかな?」

 僕の問い掛けに、峰は何かを躊躇っているようで、返答はない。そのまま僕は伝言の内容を話すことにした。

「『1月7日』、『あの日のあの場所で』って、伝えて貰いたいんだけど・・・?」

 電話の向こうの峰が、どんな様子で僕の言葉を聞いていたかは、実際には分からないことなのだが、何となく、彼女には僕の心の内が見透かされているような気がしてならず、僕はそれ以上の言葉は言い澱んでしまった。

「分かりました、伝えます。・・・でも、これって、私が言うのもなんですけど、富永さんが自分で言った方が良くないですか?・・・いえ、美香に伝えるのが嫌とか、そういうことではないんです・・・」

 言われてみればその通りだ。そんなことは自分で言うべきことであって、それを他人に頼むなんて、全く馬鹿げている。

 それくらい僕は情けない男なのだ。

 映画やドラマみたいに、主人公が窮地に陥って、連絡手段も無く、已む無く誰かに伝言を頼むのとは訳が違う。

 自ら蒔いた種にも拘わらず、未だに誰かに頼ろうとしている自分が恥ずかしく惨めになるのだけれど、一度吐いた言葉を飲み込むことも出来ない僕は、本当にどうしようもなくバカなのだ。


 峰という女の子には、僕の情けなくて、どうしようもない姿は見透かされているだろう。

 ならば、彼女が美香に僕の伝言を伝えると同時に、「あんなダメな男、止めといた方が良い」、そう付け加えるかもしれない。

 それならそれで構わない。


 それでも、僕は一つだけ、決めたことがある。

 『あの日のあの場所』へ、僕は必ず、行くのだ。

 例え、美香が現れなくても・・・。



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