皿洗い

Jack Torrance

〈皿洗い始めました〉

ジョージア州チャタム郡サバンナ。


その地を流れるサバンナ川。


サウスカロライナ州とジョージア州を跨ぐ全長335マイルの川である。


そのサバンナ川を見渡せるちょっと高台の沿道にある理髪店。


〈バーバー ホプキンス〉と店の看板が建物の扉の情報に掲げられていた。


店の前には赤、白、青のレジメンタル ストライプの円柱形のバーバーポールがクルクルと回っている。


〈バーバー ホプキンス〉と店の扉にプリントされている上に〈皿洗い始めました〉という貼り紙が貼られてあった。


サム ホプキンスは安物の葉巻を燻らせながらジョージアが生んだ偉大なソウルシンガー、オーティス レディングの『オーティス ブルー』をターンテーブルに載せて客が引けた一時を心行くまで満喫していた。


サムはもうじき七十になろうとしていた。


すっかり禿げ上がったごま塩の頭頂部を摩りながら、これから未来の理髪店は斬新で奇抜なサービスを提供していかねえと生き残っていけめえなと真剣に考えていた。


何が10ドルカット、髭剃り、洗髪無しだってえんだ。


カットだけなら母ちゃんにでもしてもらえってえんだ。


そこで始めたのが皿洗いである。


スティーヴ ジョブズやマーク ザッカーバーグでもこんな斬新で奇抜なアイデアは思い付かんめえ。


サムは新たな野望に心を弾ませほくそ笑んでいた。


カランコロン


店の扉に付けている鈴の音が鳴った。


サムは客が来やがったなと最後にもう一服葉巻をふかし揉み消した。


そして、威勢よく言った。


「らっしゃい」


入り口の扉に目をやると、そこにはストラップを掛けたギターを担いでいる河童が立っていた。


背丈とあどけない表情から河童の歳の頃は十四か十五くらいにサムには見えた。


「親父さん、前の貼り紙見たんだけど…皿洗い出来んの?」


サムはべらんめえ口調で言った。


「あたぼうよ、あんちゃん。おめえさん、どっから来た?」


「サバンナ川」


「そっか、まあ、座ってくれや」


サムが理容椅子の背凭れをパンと掌で打って河童を誘導した。


河童がソファーの上にギターを立て掛けて水掻きが付いた足をペタペタと鳴らせながら歩いて理容椅子にピョンと飛び乗って座った。


河童が歩いた跡に水滴が滴った跡が付いている。


首周りにクロスを巻いてサムが河童に尋ねた。


「おめえさん、ところで皿に何載せて食った?」


河童が食べた物の味を思い出しうっとりとした表情になって答えた。


「デミグラスハンバーグ」


「通りでな。皿がベッタベッタに汚れてやがらあ。でも、それにしちゃあ豪勢だな。さぞ、うめかっただろ」


「ああ、親父さん、美味かったよ」


「おめえさん、ぜってえに川で皿を食器洗い用洗剤で洗っちゃなんねえぞ。川を汚しちまう。地球にやさしくだ。分ったな」


サムがシャンプーハットを河童に嵌めた。


そして、スポンジに食器洗い用洗剤を数滴垂らして河童の皿を洗った。


キュッキュッと小気味良い音を立てて皿の油汚れを落としていく。


河童が瞼を目一杯閉じて言った。


「親父さん、目に入らないように頼むよ。おいら、目を潰したくないからさ」


サムが孫に言い聞かせるようにやさしく諭す。


「おめえさん、しんぺえすんなって。何の為にシャンプーハットをしてる。目に入らねえようにする為だ。そうじゃねかったらシャンプーハットを作ってる会社は疾っくの昔に潰れてらあ。よし、おめえさん、洗髪台の方に体を屈めてくんな」


河童が腰を丸めて言われた通りに洗髪台に頭を入れた。


河童が体を屈めると首の後ろのクロスに皿を拭くタオルを挟む。


サムが手際よくシャワーで皿の洗剤を流していく。


程好い温度の湯が皿にかかり油汚れを流して気持ちよくなる河童。


シャンプーハットを外して首に挟んでいたタオルで先ずは河童の顔に付いた水滴を拭き取りタオルを頭頂部に移して皿を拭き上げていく。


河童がえも言われぬ恍惚の表情を浮かべている。


「ほい、一丁上がりだ。おめえさん、良い男になっちまったじゃねえかい」


サムが皿を掌でキュッキュッと撫でて言った。


「そうかい、親父さん。恥ずかしいなあ」


河童が頬を紅く染めた。


サムが皿にエビアンのミネラルウォーターを数滴垂らしながら言った。


「おめえさんの皿もひび割れや端が欠けてるとこもあっから買い換えの時期かも知んねえな。テファニーなんてのはどうだ?」


河童がサムの言い間違いとも受けとられかねない訛りを指摘した。


「親父さん、ティファニーだよ。それよりも、おいらくらいの年頃だったらシルバーアクセなんかがかっこいいって思っちゃうんだよ。銀食器に買い換えるってのはどうだい、親父さん」


「そらー、おめえさん、おねえちゃん達からはちやほやされっかも知んねえけどシルバーは酸化しちまうからすぐにくすんじまう。ピカピカにしとくのはてえへんだぞ。悪い事は言わねえ。テファニーにしとけって。そしたら毎朝テファニーで朝食をだ。おめえさんも銀幕スターの仲間入りだ」


サムが河童のクロスを外してやった。


「ところで、おめえさん。父ちゃんや母ちゃんはどうした?わしもおめえさんのような客に来てもらった方が商売になるんで有り難いんじゃけどな。だから、おめえさんが来てくれるのは嬉しいんだけども、大体おめえさんくらいの子じゃったら両親が洗ってくれるんじゃねえのかい。公園とか人んちのガレージとかでよ」


河童から先程までの明るさが消えて消沈した表情になった。


「おいらの父ちゃんと母ちゃんは、この前の大雨で川が増水した時に流されちゃったよ」


サムが持っていたクロスを床に落とし驚愕した。


「か、河童の川流れと言う奴じゃな。わしも聞いてはおったが実際に起こるとは夢にも思わなんだ」


サムが落としたクロスを拾い河童の肩をポンと叩いた。


「おめえさんも災難じゃったな。さっきアイスキャンデー屋のあんちゃんが売りに来やがったんだ。おめえさん、ちょいとそこのソファーで座って待ってろ。今、持って来てやっかんな」


河童がピョンと理容椅子から飛び降りると水掻きの付いた足でペタペタと歩いてソファーに座った。


サムが冷凍庫からチョコミント味のアイスキャンディーを持って来て河童に渡した。


「ありがとう、親父さん」


河童がアイスキャンディーの包装紙を剥がしてペロペロと嘗めた。


「ところで、おめえさん達、河童は確か日本の妖怪じゃのに何故わしらの国にもおるんじゃ」


河童がアイスキャンディーをペロリと丸呑みしてサムに喋り出した。


「実はね、おいらのおじいちゃんがブラインド“レモン”ジェファーソンみたいな放浪のギター弾きでね。渡り鳥のように放浪した末に渡米したんだ。おじいちゃんは日本の政治にも辟易していたらしんだ。汚職に塗れ収賄で私服を肥やし己に都合のいい法律は改正せずに特権階級意識だけは一人前っていう半人前の寄せ集めでトップを決めるのだって派閥の論理で決まっちゃうんだよ。そんな日本におじいちゃんは嫌気が差したんだよ。その点、アメリカは共和党と民主党の二大政党で大統領選も国民の一票が大きく左右されるっていうのがおじいちゃんは気に入ったんだと思うよ。政権交代も定期的に行われて一党独裁って訳じゃないのもいいと思うんだ。おいら達、河童に選挙権が無いのは不満だけどね」


サムが河童の一言一言に耳を傾けていた。


「おめえさん、わしら黒人の歴史も迫害の歴史じゃ。奴隷として連れて来られて人以下の扱いを受けて嬲られ甚振られ鞭打たれ家畜のようにこき使われて挙句の果には虫けらのように殺されたもんまでおる。それでも、わしらの親父やおふくろ達は辛酸を舐めさせられながらも闘って闘って闘って黒人の権利を勝ち取ったんじゃ。それでも、まだ根強い差別が残っておるのが悲しい現実なんじゃけどもな。ブッカー.T.ワシントンも言っておる。『成功とは、人生において得た地位によって測るのではなく、成功するために打ち勝った障害によって測るべきことを、私は学んだのである』とな。おめえさん達、河童ももっと公に自分らの権利を主張せななんめえ」


河童はサムの教訓を染み染み聞き入った。


「うん、おいら頑張るよ。それでおじいちゃんはサバンナ川に住んでたおばあちゃんと結婚したんだよ。だから、おいらは日系三世になるんだよ」


「そうか、アメリカにも河童は住んでおったんじゃな。そりゃ、知らなんだ」


「おばあちゃんが言ってたけど、これはエリア51とも密接に関係してるらしくて国家の機密情報扱いらしいから親父さん絶対に口外しちゃ駄目だよ」


「そ、そうじゃったんだな。よし、わしは口にチャックじゃ。ぜってえに人には話さん」


河童が続けた。


「それに日本の企業にはコンプライアンスとか高らかに唱っているけど、オイラ達、河童の肖像権を何の断りも無く無断で侵害して不当に利益を上げている企業が多いんだよ。回転すしチェーン店とかえびせんを作ってるメーカーとか。酒造メーカーまで使っているんだよ。オイラ達の肖像を。無断で商標登録しておいら達、河童には一銭たりとも入んないんだよ。インセンティヴ的なのが発生しないなんて親父さん、この世はどうかしてるよ」


サムは河童に同情した。


「人間てのは、てめえ達に都合のいいように何でもすっからな。それにしても、おめえさん、利発な河童じゃな。学校でも成績は良いじゃろう?」


河童がにこりと笑った。


「おいら、来年、飛び級でハーバードに行くんだ。何でも、おいらのIQはクエンティン タランティーノ並みに高いそうなんだ。親父さん、今日は親父さんと話せておいらとても楽しかったよ。お代は幾らだい?」


河童は首からぶら下げているがま口をパカッと開いた。


河童がきちんと折り畳まれている紙幣と小銭を数えた。


32ドル69セントあった。


サムが河童に尋ねた。


「おめえさん、その金はどうした?」


河童はギターを指差した。


「昨日の晩に酒場で流して稼いだんだよ」


サムが感心した。


「ほおー、おめえさん、そんなに上手えのかい、ギターが!」


河童がまた頬を紅く染めた。


サムはギターのネックを掴んで河童に渡して言った。


「金は要らんから一曲聴かせておくれ」


河童はほんとに?という顔をして問い返した。


「親父さん、お代はいいの?おいらは、またギターを流せばお金をくれる人がいるからちゃんと請求してくれていいんだよ」


サムは河童を窘めた。


「おめえさん、ハーバードに行くんなら金は大事に使え。それよりも、わしはおめえさんのギターが聴きたいんじゃよ」


河童が分かったよ親父さんといった真剣な表情になりがま口にお金を仕舞うとギターを膝に乗せて弦を爪弾いた。


ミシシッピ“ジョン”ハートの“ルイス コリンズ”を絶妙なフィンガーピッキングで奏で始めた。


コードを押さえる指の間の水掻きが不思議なビブラートを生み出し得も言われぬ軽快な音色を響かせた。


うっとりと目を閉じて聴いているサム。


河童が“ルイス コリンズ”を弾き終えるとサムが染み染みと言った。


「驚いたもんだ。おめえさん、良い腕してんなあ。いやー、冥土の土産に良いもん聴かせてもらったなあ」


河童がサムの嬉しそうな顔を見て嬉しくなった。


「親父さん、冥土の土産なんて言わずにまだまだ頑張っておくれよ。おいらも親父さんに喜んでもらえるような河童になるからさ」


「そうじゃな。あんがとよ。おめえさん、わしももう一踏ん張りすっからよ。おめえさんも頑張ってくんな」


「それじゃあ、親父さん、ありがとう。元気でいておくれよ」


「ああ、あんがとさん。おめえさんも達者でな」


サムが名残惜しそうに河童の肩をポンと叩いた。


河童はストラップを肩に掛けピヨンとソファーから飛び上がるとペタペタと足音をさせて店の入り口に向かった。


サムは河童の小さな背中を見送った。


カランコロン


扉の鈴の音が鳴り河童が振り返った。


「それじゃあ、親父さん、元気でね」


「ああ、おめえさんも」


サムはまたターンテーブルの上のオーティスのレコードに針を落として安物の葉巻を燻らせた。


翌朝


サムは自宅から店に出向きポストの新聞を取ろうとポストを開けた。


新聞と一緒に河童が首からぶら下げていたがま口が入っていた。


あの河童のあんちゃん、憎い事してくれんなあ。


サムは店に入りがま口を開いた。


124ドル76セントと折り畳まれた手紙が入っていた。


サムは手紙を膝の上で丁寧に開いて読んだ。


「ホプキンスの親父さんへ


昨日はありがとう


親父さんはおいらが会った人間の中でも温かみがあって人を慮る良い人だったよ


これ、昨日の夜に流しで稼いだんだ


ちょっと早いけどおいらからのクリスマスプレゼントだよ


親父さん、いつまでも元気でいてね


河童のジミー」


サムの心はじんわりと温かくなった。


あんがとさん、ジミーのあんちゃん。


達者で頑張ってくれよ。


その後


ジミーが現れたあの日以来、皿洗いに来る河童は現れなかった。


ジミーのあんちゃん。


あれは幻か夢じゃったんじゃな。


サムはがま口をポケットから取り出してにやりと笑った。


入り口の扉に貼っている〈皿洗い始めました〉って貼り紙は引っ剥がさなきゃなんめえな。


これからは〈虎狩始めました〉ってライフル持って構えてたら新しい顧客を開拓出来っかも知んねえな。


今度は本物のサバンナでの勝負じゃな。


理髪店の単調な仕事とはおさらばしてスリルと背中合わせの手に汗握る男のロマンを追い求めるんじゃ。


サムは次世代の構想に着手すべきかと胸を弾ませて安物の葉巻をふかそうと葉巻に手を伸ばした時だった。


カランコロン


入り口の扉の鈴の音が鳴った。


客が来やがったな。


サムは視線を入り口の扉に移した。


そこには着物を着た女が立っていた。


サムはよく女を見ると右手の中指が欠損していて身体に折檻の跡があるのを確認してぎょっとした。


女が口を開いた。


「私は二丁目の角を曲がった所にある皿屋敷から参りました日系アメリカ人のキク アオヤマと申します。皿屋敷と呼ばれているのは私の義理の父が音楽プロデューサーでしてグラミーで表彰されたいという願望からレコードのモニュメントを屋根と庭に飾っているので皿屋敷と近隣住人の方から呼称されているんです。キクと言う名前から友人からはお菊さんと呼ばれています。あっ、この右手の中指と身体の傷跡は気になさらないでください。義父から虐待を受けているんです。前の貼り紙の〈皿洗い始めました〉という文言を見て家宝の皿を洗っていただきたいと思いまして…」


そう言うとお菊さんは風呂敷に包んでいる木箱を取り出して中の皿の枚数を数え始めた。


「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚………あれ?一枚足りない」


お菊さんは何かを思い出そうと思案に暮れた。


サムがその皿を見て口を開いた。


「おめえさん、お菊さんと言ったっけ?その皿と同じもんを河童のジミーって言うあんちゃんが頭に乗っけてたぞ」


お菊さんがはっと思い出した。


「そうでしたわ、義父からの虐待が酷いものでして最近、記憶障害に悩まされているんですの。大分前にうちの屋敷で皿を洗っていた可愛らしい河童の子の頭のお皿が余りにもみすぼらしかったので一枚取換えて差し上げたんでしたわ」

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皿洗い Jack Torrance @John-D

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