女装履歴 ~体は女の子、でもぼくにとっては女の子でいることは女装だった。

銀色小鳩

1話完結 女装履歴

「まり……? どうしちゃったの?いったい!」

 改札を出たとき、3人の同級生はびっくりしたように固まってわたしを見ていた。彼女たちのなかに昔わたしを悩ませたちっちゃいあの子が今もいる。

「久しぶり」

 なつかしい顔ぶれ。といっても、この前会ったのはちょうど半年前、わたしの結婚のお祝いに集まったときだ。

「なに? なんかおかしい?」

 わたしが首をかしげると、彼女らは声をあげた。

「まりがスカート履いてる!!」

 星野まり。30歳。既婚。

 まったく気づいていなかった。自分が、高校から30歳のいままで、彼女らの前でスカートを履くことがなかったなんて。



 駅の人いきれの中、ホームの影にかくれて。

「わたしが男だったらよかったのに」

 彼女はそう言って、額にキスをした。モデル並みに身長の高い立野さんは、お化粧のにおいがする。

「私、男だったら、あなたに結婚申し込んでいたと思う」

「…………」

 違和感に襲われ、聞き返す。

「立野さんが、男なんだ? ぼくじゃなくて……」

 大学生のころ、自分のことを、ぼくと呼んでいた。

 わたし……あたし、うち、自分、俺。どれもピンと来なかった。

 守ってあげたいと言われるたびに感じる違和感。まりチャン。女友達に呼ばれても、かっこいいお兄さんに呼ばれても、違和感はまったく抜けなかった。女の子あつかいはいつもぼくを不安にさせた。

 自分を男だと思ったことは一度もない。

 高校で初めて女の子を好きになったときも、自分のことを男だとは思っていなかった。でも、女なのか。よくわからない。

 そんなぼくを、立野さんは、かわいいと言った。

 どこどこのアイドルは憎たらしかった! あなたのほうが断然かわいい、あの人かわいいと思う? わたしは思わない。あなたがかわいい。

 大勢の社会人に囲まれて何故か泣きだしてしまったとき、立野さんはぼくを膝に抱いた。よしよし、怖かったね、あなたが怖がるのは当然だと思うよ。そう言って髪を撫でた。

 立野さん自身が少女のように脆かった。人間の怖さを、社会の醜さを知っていた。人の醜さを知らないよりも、知ったうえでそうならないほうが尊い。そういって、厳しく白い冷たい指でいつも遠くを指し示していた。

 女になろうとしたり男になろうとしたり、なにかの職業人になろうとしたり、そんなふうにはできないぼくに、聞いてきた。

「なにになりたいの? なにがしたいの?」

 ぼくは仮面をかぶる楽しさにまだ気づいていなかった。ぜんぶ、脱いでしまいたかった。人間だという意識すらも脱いでしまいたかった。

「あなたには、今ある場所に滑り込むような生き方をして欲しくないの。自分で、世界を作りあげてほしい」

 彼女の長いさらさらとしたストレートヘアは、色っぽくて白い肌とよくあっていた。タイトスカートからのぞく太腿がやわらかそうで、彼女のことを男だと思ったことは一度もない。

「わたしは、男でいるほうが都合がいいと思うの。男ってあまり女性から行くと、引いちゃうでしょ。でも、いつもわたしは自分から。だから、わたしは男のほうが生きやすい」

「ぼくも自分が男だったら、立野さんに……」

 彼女は唇に、軽いキスをした。



 手の甲にキスをして、手首の内側にキスをして、肘の裏側にキスをして。

 小さな部屋の中で、立野さんの目が、急に怯えるみたいにぼくを見る。

「いや? 嫌い?」

「そうじゃなくて……」

「あのね」

 静かに、彼女はぼくに囁く。

「いま、そのまま答えて。いやならいやで、構わないから」

 コレハナンダロウ。

「立野さんは、ぼくをどう思ってるの」

「わからない。かわいい」

 指先を吸って、頬ずりをして。立野さんはぼくをぎゅうっと抱きしめた。

 かわいい。かわいい。ああ、もう、なんでこんなに可愛いの。

 立野さんはその言葉を繰り返した。

「立野さん、か……わいい、って言うの、ちょっと」

「いやなの?」

「なんだか、変で」

「…………」

 彼女は少し黙った。

「いいよ。変でも。そんな顔してても。ああ、もう、かわいい。言うのはやめない」

 立野さんの指が頬を撫でる。赤ちゃんの髪でも洗うみたいに首の後ろを撫でる。

「服は……」

「いいよ。別に、エッチな事がしたいわけじゃないから」

 コレハナンダロウ。

 立野さんはぼくの髪にそっと口付けた。

「私をどう思ってるの?」

「た、立野さんだと思ってる……」

 ばかなことしか言えないぼくに、彼女は満足そうに微笑んだ。

 これはいや? どんな感じ?

 これは?

 服の上から。快感を与える為じゃない触れ方で、身体中に口付けられて、ぼくはうれしいと答えた。初めてキスをされた時と同じように。

 身体は熱を持つことはなく、高まることもなく、どんどん静かになっていく。ただ触れられた場所だけが痺れている。頭のなかで、巨大なハテナマークが居座っている。立野さんは何度も名前を呼んでいた。ぼくはもう、何かを表現することができなかった。

 どんどん自分を脱いでいくみたいだ。脱皮して、脱皮して、脱皮して、白くなる。自分が滑り落ちていってしまいそうで、ひっかかりがほしくて、ぼくは立野さんの手を握る。もう何も残らない。ぼくは白い海に身体を投げ出していた。

 立野さんはまだかわいいと言い続けていた。身体は――そのための器官には触れられていない身体は、熱をもつこともなく、ただくすぐったいだけだ。彼女は口付けたことで満足していた。

 ぼくは、言葉にすがりたくなる。何もない状態では言葉を発せない。

 ……どこからどこまでが自分なのだろう。ぼくは……わたしは、なんだろう。

「ねぇ、あの……キスしか、してないけど。イっちゃったとか、そういうわけじゃないもんね?」

 ぼくはうなづいた。

「いま、どんな気持ち?」

「まっしろ。こわいぐらい……」

 彼女はまた唇に触れるだけのキスをした。



 自分がこんなに長く生きるとは思わなかった。

 いつしか男性に恋をした。好きな男性のまえで、ぼくは初恋の彼女の幻影を追った。可愛くなりたかった。美しくなりたかった。ぼくにとっての「女の子」は初恋のカタチをしていた。化けることがこんなに楽しいとは思わなかった。

 女性を好きになり、男性を好きになり、女性を好きになり、そのつど愛する対象の前で変わった。洋服も、眉の描き方も、しゃべりかたも、ぼくなのかわたしなのかも。

 どういう基準でどう変わるのか、自分で予想できない。好きな相手の好きなタイプに変わるわけではない。コントロールしようとしてできるわけでもない。ただ、そうなってしまう。相手のことを考えると、感覚が変わってしまうのだ。変わった精神に合わせて、違和感のないように姿が変わるだけだ。

 月日は流れた。

 女装の味をしめて、それからは自分をぼくと呼ばなくなった。

 もう何回も桜が咲いて、散ってしまい、また咲いて、わたしは結婚した。

 彼が女でも、好きになっただろう。

 彼のことは男でも女でも、結婚したいと思っただろう。そういうふうに思うのは初めてだ。多分これは恋ではない、別のものだ。

 初めて、男でも女でも関係なしに人を好きだと思った。初めて、人格のすべてを尊敬した。なぜだろう。きっと、彼がどちらの性別でもわたしは彼を選んだ。

 でも彼もそうだとは思わない。

 好きになった人がたまたま同性だっただけ――その人が男でも女でも恋してた、そんな世界はわたしにはいままで幻想だったのだから。

 はじめて男の子に恋をしたとき、彼の野生的な伸びるばねのような感性にわたしは焦がれた。彼の男らしさが、少年らしさが、わたしを魅了した。彼が女だったら、恋しただろうか。力強い魂の躍動感が、男性の彼が、わたしは好きだった。

 スカートをはくようになったわたしは、久しぶりに会ったこの、目の前のちっちゃい可愛い彼女を見ていた。

 このちっちゃい彼女が男だったら、わたしは彼女に恋しただろうか。仕草も笑顔も性別も、すべてひっくるめて焦がれていた。

 女の子の彼女を愛していた。スポーツ選手との結婚を夢見ていた、黒目がちの潤んだ瞳を。そのままの彼女を、髪を、声を。

 高校のとき自分をなんと呼んでいたかの記憶はない。わたしの目はわたしではなく彼女に注がれ、鏡よりも彼女をみていた。女装の記憶も男装の記憶もなにもない。彼女の記憶しかない。

 突然、立野さんの白い指を思い出す。まっすぐだった白い指を。押し付けることのない、ただ触れるだけの唇を。

 結婚する直前になって立野さんは電話をかけてきた。

「ずっと何だろうって考え続けてきたの」

「なにを?」

「あなたとは恋愛だったと思う。私は星野さんとは恋をしていたと思う。あれは恋だった」

 いまさらになって、違和感がなくなる。

 かわいい。あなたがかわいい。

 どんなにぼくのほうで違和感があっても――彼女はそのまま見ていた。自分をぼくと言うぼくを。ズボンをはいて、髪をのばして、体は女の子のぼくを。違和感のあるままのぼくを。

 人を愛するたびに姿をかえるぼくに言った。また違う星野さんが見られる。あなたは誰かと付き合うたびに良くなる。

 高校の彼女の唇の色に桜が咲き、それが散って、

 バイト先の彼の周りに桜が咲き、それが散って、

 サークルの憧れの彼への応援で桜が咲き、それが散って、

 ぼくの周りで何度も桜は色づき、それが散って、

 大学の立野さんのとき、はじめてぼくはまっさらだった。受け入れてくれる人の前で自分をぼくと呼んだとき、はじめてぼくはまっさらだった。

 キスをしなくなってから、彼女が泣いた理由をぼくは知らない。引き止めてもらいたかった。彼女はわかっていて、引き止めなかった。ぼくは自分の気持ちが恋愛だったのか確証がもてず、彼女もそれは言わなかった。

 曖昧な気持ちを、曖昧なままで表現することを、彼女はそのままいつでも、当たり前のように受け止めてくれた。

 一生をともにしようとまで思ったひとの前で、わたしは何回変化するだろう。

 女装履歴あり。

 あの日の彼女の、白い、蝶の羽のように軽い触れるだけのキスは、いまもわたしをまっさらなぼくに変える。

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女装履歴 ~体は女の子、でもぼくにとっては女の子でいることは女装だった。 銀色小鳩 @ginnirokobato

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