第2話 限界突破師匠

 ハルはメタルラックに並べられた虫をまじまじと見ていた。その視線の先には大きなクワガタ──パラワンオオヒラタクワガタが入ったケースがあった。


 フィリピンのパラワン島に生息しているこのクワガタは世界最大のヒラタクワガタと呼ばれている。大きいものでは体長10センチ以上もあり、細長い体つきとスリムな大顎が特徴である。


 このパラワンのラベルには107ミリと書かれている。つまり10センチ越えの大型個体である。ラベルには他にも産地や累代るいだいの情報が印字されているが、ハルにはなんのことかさっぱり分からない。


 しかし、唯一分かったのはその値段の凄さである。ラベルにはアラビア数字で35000円と印字されていた。ハルは目を丸くして値段のところを見ていた。そして横にあるもう一つのケースの方に顔を向けたとき、彼女の視界にナツキが入った。


「あれ?能勢さん?ナツキちゃんもここに来てたんだ~」


 ナツキは呆気に取られ5秒間程何も喋れなかった。


「あ…ああ、ちょっとここで買うものがあったから…」


「そうなんだ~ てことは、能勢さんってお家でクワガタを飼ってるんだ!」


「ま、まあね…」


「すごーい!」


 ハルは興味津々な顔でずいっとナツキの近くに寄ってきた。


 ──ちっ…近い…


 ナツキは少し戸惑い、そして頬を赤らめた。


「まあ…立ち話もなんだし、向こうのフリースペースで話そうか。ここ通路狭いしさ。」


 たどたどしい口調でそう言うと、ナツキはハルをレジの横にあるフリースペースへと連れていった。そこには普通の長机が1台と6脚のパイプ椅子が並べてあった。


 ここはレジの横に空いていたスペースを有効活用するために店主の勝が設置した来店客向けのフリースペースである。よく客達が座って話をしたり、飲食をしたりしている。今では客同士の情報交換の場になっている。


 二人が椅子に座ると勝が話しかけてきた。


「あれ、もしかしてお嬢ちゃんってナツキちゃんの友達?」


「はい!今日から木黒きくろ高校に転校しました桑方ハルといいます!!」


「そうかそうか!俺はここの店主の川西 勝っていうんだ。よろしくな!!」


「よろしくお願いします!」


 二人の元気な声が店の中全体に響き渡った。ナツキは今日初めて会ったのに、もう友達として見てくれていることに少し照れていた。


「それでナツキちゃん、ゼリーはいいのかい?」


「あ、そうだった。ごめんなさい、お会計お願いします」


 そう言うとナツキはレジへと向かい、ゼリーの会計を済ませて再び椅子に座った。


「ここのお店はすごいね~。見たことないクワガタやカブトがいっぱいいるんだもの!」


「だろう!なんたって川西クワガタセンターだからな!!」


 二人の会話に何気なく勝も加わってきた。


「桑方さんって虫大丈夫なんだね」


 落ち着いた声でナツキが尋ねてきた。


「うん!動物はみんな大好きだよ~」


 相変わらずの元気な声でハルが答えると、ナツキはさっきまでハルがいたコーナーの方を見た。


「さっきまで桑方さんが見てたのって107ミリのパラワン?」


「能勢さんすごいね~あの大きなクワガタのこと分かるんだ~」


「まあ、小学1年のときからクワガタ飼ってるからね。あのとき、多分値段見て驚いてたでしょ?」


「うん、すっごい値段するんだね~ あのクワガタ」


「そりゃあ107ミリの大型血統のパラワンだからな!」


「大型血統?」


 ハルは首を傾げながら聞いてきた。


「簡単に言うと、体の大きな子どもが生まれやすい家系ってこと」


「へえ~そうなんだ~」


「ハルちゃん、あのパラワン買うかい?今なら安くしておくよ」


「いっ…いえ!私、詳しい飼い方がよく分からないので…」


 勝の冗談めいた話にハルはすごく戸惑いながら答えた。


「桑方さんってクワガタやカブトって飼ったことあるの?」


「えっと…確か小学2年生の夏にカブトムシを飼ったくらいかな?だけどあまり上手に飼えなかったからすぐ死なせちゃった…」


「そっか…」


「だけどね、この店のクワガタやカブトを見ていたらとてもカッコいいって思ったし、私の家でも飼いたいって思ったの!」


「桑方さんの家って虫を飼っても大丈夫なの?」


「うん!お父さんもお母さんも動物は全部好きだから虫も大丈夫だよ!!家で熱帯魚も飼ってるし」


 そう答えるとハルは少し照れた表情でナツキに尋ねてきた。


「それでね… もしよかったら、私にいろいろ教えてくれると嬉しいな… クワガタやカブトのこと…」


 ナツキは頬を赤らめて少し困惑した。ハルが照れている姿を見て、今までの人生の中で感じたことのない気持ちになっているからだ。


「ま…まあ、私でよければ…別にいいけど…」


「ホント!?ありがとう!能勢さん!!」


 そう言いながらハルはナツキにずいっと寄り、彼女の左手を両手でぎゅっと握って喜んだ。ナツキの頬はさらに赤くなり、凄く焦った。もう彼女の心のキャパシティは限界だ。


「わ、わかった!分かったから一旦落ち着け!」


 そして忘れてはいけないのは、今この空間にいるのはナツキとハルの二人だけではないということだ。


「いやあ、仲が良いことは素晴らしい!」


 勝は大きな声で嬉しそうにそう言うと、ナツキはさらに照れた。


「 おじさんまで…」


 もはや今の彼女には、いつもの落ち着きやクールさがどこかへ消えてしまった。


 しばらくすると全員落ち着きを取り戻し、いつも通りの状態へと戻っていった。この場に他の客がいなかったのが唯一の救いだ。


「てことは、今日から能勢さんは私の師匠ってことだね!師匠、よろしくお願いします!!」


「師匠だなんて… 普通に能勢でいいよ…」


 そう言うとナツキは店内の壁にかけられた時計に視線を移した。時計の針は午後5時半を指していた。


「もうこんな時間か… ごめんなさい、おじさん。長居しちゃった」


「いいや、大丈夫だとも!そのためのフリースペースだからな!」


「そろそろ帰らなくっちゃね~」


 二人は一緒に店の外に出た。勝も店の外に出て二人を見送ろうとした。


「二人とも気をつけて帰れよ!」


「おじさん、今日はありがとう。桑方さんもまた明日ね」


「うん!また明日ね、能勢さん!!」


 ハルは笑顔で手を振りながら帰っていった。


 ハルと別れてから20分後、ナツキは家に着いた。鍵を開けて入ると家の中の電気は全て点いておらず薄暗い。おまけに誰もいない。彼女の両親は共働きで、夜の7時までは誰もいないのだ。ナツキは玄関の電気を点けてから、そのまま階段を上がり自分の部屋へと向かった。


 部屋のドアを開け、電気を点ける。すると目に入ってきたのは大きな4段のメタルラック3台とそれらの上に並べられている大小様々なサイズのケースやボトルの数々であった。その光景はさながらさっきまでいたショップの縮小版のようであった。


 ナツキはベットへと向かい、持っていた鞄を投げるようにベッドの上に置いた。枕元には深夜アニメ「ゴシック・ワルキューレ」──通称「ゴスワル」のキャラクターフィギュアが3つ飾られており、壁には「ゴスワル」のタペストリーが2つ掛けられている。実はこう見えて彼女はイベントに毎回参加するほどの生粋のアニメオタクでもあるのだ。


 ナツキはブレザーのジャケットを脱いでベットに置いた後、勉強机の椅子に座った。そして机の横に置いてある成虫管理用のメタルラックからクワガタが入ったケースを手に取る。そのケースには体長100ミリのパラワンオオヒラタが入っていた。


「…師匠か…案外良いかもしれないな…」


 そう呟くとナツキはくすっと笑い、威嚇しているパラワンをじっと眺めていた。

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