大詰 現代へ帰還するの段


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 その時は突然訪れた。

「正樹君、お待ちかねの、現代へ帰れる時が来たよ」

 上条が何の前触れもなく云った。

 文楽は、大阪朝日座で公演を行っていた。

 その朝日座公演千穐楽の日だった。

「いつですか」

「今から」

「今からですか!」

「そうだ!」

 この二年間、正樹はどっぷりと50年前の時代に浸かっていた。

 最初はスマホ、インターネットもない、コンビニも百円ショップもニトリも無印良品もホームセンターもない時代に不自由したが、すぐに慣れた。

 一番気がかりなのは、本当に再び令和の時代に戻れるかだった。

「それは戻ってみないと分からない」

「と云うと」

「君も僕も、一回目の人生ではやらなかった事やったからなあ」

 上条は、国会議事堂、赤坂迎賓館を始めとする創作浄瑠璃公演の活躍である。

「残念なのは、文楽の敵と、決着つけなかった事です」

 正樹は正直に答えた。

「それは今回では終わらなかった」

「つまり、続きはあるって事ですか」

「もちろん。その時はすぐに呼びに来るから」

 上条は微笑んだ。

「じゃあ広島行きますか」

「広島?きみは何を勘違いしてるんだ。行くのは京都。あの君が創作浄瑠璃を始めた町家だよ」

 正樹は、この時代に転がり込んで来たのは、広島の実家「三玄」の家だった。

「それから大事な事なんだけど、時間設定があってね」

 上条の話では、午後三時までに、あの押し入れに入らないといけないらしい。

「時間過ぎるとどうなるんですか」

「君は一生、令和の時代には戻れない」

 つまり麻紀とは永遠に合えないである。

「京都の町家、すぐに中に入れるんですか」

「それが一番の難関だな」

 照子から貰った義太夫三味線を持って出た。

 現代へ戻ると云う事は、この時代で一緒に語らった人たちとの永遠の別れを意味していた。

 現代へ帰れば、照子、三郎の両親を初め、梅太夫、竹之輔師匠、原田、小町大家さん、藤川トンビ、その他大勢の人がもう亡くなっている事を意味していた。

 街並みもそうだ。

 道頓堀浪花座、中座、角座、朝日座全て消滅している。

 この時代の人にそれを云っても誰も信じてくれないだろう。

「中座がなくなるなんて事ないやろ!」

「ええ加減な事ぬかすな!」

 とどやされるにきまっているから。


 淀屋橋から京阪特急で「京阪三条」へ。

 御池通を西へ。

 京都の街は、東京に比べるとほとんど変わってない。

 街の中を縦横に市電が行き来しているくらいだ。

 御池通から御幸町通りに入る。

 途中、ヴォーリズが設計した「京都御幸町教会」を通りかけた。

 通りに面して、ガラス窓のある掲示板が目に入る。

 今日の言葉が書いてあった。


「過去から現代へ戻って人が消えても、あなたの問題は消えない」


 意味深だった。

 やがて、町家の前に来た。

 気になっていたのが、通りを挟んだ、屋根からミカンの木が突き出している家。

「あっ」と叫んだ。

 ミカンの木が屋根から突き出してなくて、真新しい町家だった。

 しかも、果物屋だった。

「果物屋だったのか」

 大きくため息をついた。

 問題のこれから訪れようとする町家を見る。

 格子戸も奥に広がる細長い庭も全く一緒で、それらが新しいのだ。

 表札を見た。

「東山」と書かれていた。

 門扉から細長い庭の奥に母屋の玄関がある。

 建物と土地の構造と位置関係は、令和の時代と全く同じだった。

 庭に人がいた。

「どうする、正樹くん」

「どうするって」

「何て声掛けするんだ」

「二階の押し入れ見せて下さいと」

「その義太夫三味線を持った青年が云う!」

 上条は大笑いした。

「正直でよろしい」

 まず正樹が声掛けした。

 中年男が正樹の声に気づき近づいて来た。

「何の用ですか」

 じろっと正樹の義太夫三味線に目をやる。

「僕、約五十年後ここに住む人間なんです」

「はあ?」

 東山は、変な事を口走る青年だと思ったに違いない。

「僕たち、京都の学生で、ゼミで(消えゆく町家)を専攻してまして、少し中を見せて頂けないかと」

 上条は、慌てて訂正した。

「どこの大学?」

「同志社大学です」

 咄嗟に上条は対応した。

「で、ゼミの先生の名前は」

「矢澤教授です」

「嘘つけ!同志社にそんな教授いないだろう!」

「嘘じゃないです」

「じゃあ、校歌歌って見ろよ」

 これには正樹も上条もお手上げだった。

「新手の強盗か?警察呼ぶぞ!」

 庭の真ん中にある小さな小屋から、洗濯物持って若い女の人が出て来た。

 よく見ると、小さな小屋の中には、二層式洗濯機が見えた。

 この時代、まだ全自動洗濯機はない。

 その洗濯機の横には、今の洗剤の10倍はある大型洗剤の箱がでんと座る。

「お父さんどうしたの」

「明子、こいつら強盗や」

「いえ、強盗じゃないです」

「じゃあ何だ!」

「正直に云います。文楽研修生を卒業して、今、文楽の見習いです」

「文楽だとお!出て行け!」

 東山は「文楽」に過剰に反応した。

「警察に電話して来る!」

 東山はくるっと、踵を返して中に入って行く。

 お尻のポケットから床本がちらっと見えた。

「逃げよう!」

「ちょっと待って下さい!」


 数分後、正樹らは女性と向かい合っていた。

 場所は「mole」の看板が出ている喫茶店だった。

 令和の時代はビルの一角だったが、この時代は町家を改装したものだった。

「私、東山の娘の明子です」

「ええええっ明子さん!」

 正樹は叫んだ。

「どうした!正樹」

 正樹は小声で囁く。

「50年後の大家さんです。こんなに綺麗だったんですか!」

「はあっ何ですか」

 明子は怪訝な顔をした。

 明子の隣りには今取り込んだばかりの洗濯ものが置いてある。

「若い時から洗濯好きなんですね」

「若い時から?からって何ですか」

 明子の不審な目つきは、増すばかりだ。

「すみません正直に云います。多分、信じて貰えない話ですけど」

 二人は、今までの経過を話した。

「信じて貰えませんね」

「半分だけ信じます」

「半分?」

「文楽の関係者だと云う事。そしたら、私もお話します」

 明子の話にびっくりしたのは正樹、上条だった。

 その話とは・・・

 東山は、文楽の人間国宝福竹梅太夫の息子で、東山幸司と云う。

 塗師をしている。

 父、梅太夫の仕事を継がなかったのである。

「だから、あんなに(文楽)に反応したんだ」

「でも本当は文楽好きなんです」

「わかります。お尻のポケットに床本見えてました」

「よくわかりましたね」

「明子さんはそのお手伝いしてるんですか」

「私は、京都芸大に通いながら、父の仕事手伝ってます」

「お父さんは、何の仕事されてるんですか」

「塗師です。祖父の梅太夫は稼業つがなくて、文楽の道に入ったんです。父は、逆に文楽を継がずに祖先の塗師を継ぎました」

「ちなみに何代目なんですか」

「二十八代目です」

「二十八代!」

 改めて京都の歴史の凄さを思い知った。

 明子がまず町家に入る。

 すぐに出て来た。

「お父さん、今出かけているみたい。いないから今の内」

「よし行こう!」

 正樹は、靴を脱ごうとした。

「いや履いたままの方がいい」

 上条がアドバイスした。

「何で」

「もし向こうの世界で外に放り出されたら駄目だろう」

「わかりました」

 二階へ上がる。

 押し入れの前に立つ。

「上条さんお元気で」

 正樹は握手した。

「明子さん、また逢いましょう」

「また?」

「ええ。50年後です」

「私、お婆ちゃんよね」

「ええ。あっすみません」

「これ、もし50年後私に会ったらこの種の花を見せて下さい」

 明子はポケットから種を出した。

「何の花の種ですか」

「さあ何でしょう。お楽しみに」

「わかりました。話の種に貰っておきます」

 身体は一七歳だが、頭は66歳なので親父ギャグをかました。

 明子は反応しなかった。

 上条は肘で突く。

「急ごう!」

 上条が時計を見ていた。

 残り時間が10分を切っていた。

「じゃあ、戻ります」

 正樹は、押し入れを開ける。

 壁をスライドしようとすると首根っこ掴まれた。

(あれっ、もう戻った?じゃあ麻紀が首を?)

 ゆっくりと振り返る。

「お前、ほんまに家宅侵入で警察突き出すぞお」

 東山の鬼の形相が目の前にいた。

「ぎゃあああああ!」

 正樹と上条は階段を転げ落ちるように下に降りて飛び出して逃げた。

 御幸町教会の前まで走って来た。

「何で親父さん、押し入れにいたんだ!」

「知りません!」

 二人は息を整えた。

「正樹君、時間が迫ってる。戻ろう。ここにいても問題は解決しない!」

「はい」

 明子が走って来た。

「何で父さん、押し入れにいたの!」

 明子も分からないらしい。

 再び元の町家へ急ぐ。

 途中で正樹の足がピタリと止まる。

「おい、どうした」

「髪飾り!」

 見覚えのある髪飾りが目に入る。

 椿の花の形をしたものだ。

 正樹が指さした先には、一人の小学生の女の子がこちらに向かって歩いて来た。

「だからどうしたんだ!」

 正樹は、女の子の胸にある名札を確認した。


 京都御所小学校3年椿組

 藤森麻紀


「そうか!だから椿だったんだ!」

 椿組だったんだ!

 麻紀が長年身に着けていた、髪飾りの謎が解けた。

 この事も麻紀にすぐに云いたかった。

 そして妻の旧姓である。

 やはり妻、麻紀とは縁があったんだ。

 50年前から繋がっていたんだ!

「あの女の子、僕の妻です」

「はあ?」

 明子の顔が、一層歪む。

「今はきみの冗談につきあってられない!」

「冗談じゃありません」

「わかった、わかった」

 上条はそう云って、正樹の手を引っ張り強引にもう一度、格子戸の前に立つ。

 玄関戸が開き、東山が再びやって来る。

「娘をたぶらかせやがって、まだおるんか。ほんまに警察呼ぶぞ!」

「警察呼ぶ前に、わしを呼ばんかい!」

 一同がその声の方向を見た。

 通り挟んだ「ミカンの家」こと、果物屋から梅太夫が果物を持って出て来た。

「親父!」

 東山が叫んだ。

「お爺さん!」

 続いて明子がつぶやく。

「まあ話は、部屋で聞こう!」

 梅太夫は、先に石畳の小径を歩き出した。

「師匠、何でここわかったんですか」

「頭取の原田に聞いた」

 上条は、出て行く時、原田に云った。

 しかし、この時点でまさか、その町家が親子断絶している、梅太夫の息子の家だとは知らなかったはずだ。

「何であんさんらがここにいる事がわかったかって?」

 梅太夫がにやりとした。

「そうです」

「お前のお父さん、三郎探偵に仕事頼んでたんや」

「そうだったんですか!」

 三郎の探偵稼業は、本物のような気がした。


 一階の和室に座る。

「正樹くんが、50年後ここで創作浄瑠璃町家ライブを始めるとはなあ」

「信じてはるんですか、親父さんは」

 東山は呆れかえった。

「ああ、正樹の義太夫三味線一編聴いてみい。そしたらわかる」

「わかる?何がわかるんや」

「全てや。正樹やってやれ!」

 正樹は壁に掛かっている柱時計を見た。

 もう残り時間は五分もなかった。

 今、押しのけて、二階に上がり、押し入れに飛び込めば間に合う。

 上条も同じ思いで、盛んに顔を上げて二階を指さした。

 正樹はここで腹を決めた。

「わかりました。創作浄瑠璃をやります!」

 上条は苦虫を食い潰したように顔をしかめた。

 これをやれば絶対に間に合わなくなる。

 でもやろうと思った。

 梅太夫、と息子幸司との和解のためだ。


 創作浄瑠璃「涙(なみだ)汗(あせの)床本(ゆかぼんの)憎悪(にくしみ)消(きえる)雪解(ゆきどけみず) 」

 ♬

 親父のうなり  いやになる

 その声背中   聞き飽きた

 若気の至り   家を出た

 文楽の城    遠くに見ゆ

 己(おのれ)の道を    行く過程(あゆみ)

 ふと聞こえしは 情の極み

 床本手にし   目で追うは

 己と親父    重なるは

 尻ポケット   濡れた床本

 汗か涙か    吐息か

 和解の握手   夢見たぞ

 重なる歳月   憎悪に雪解け

 親父様の手   握りしめ

 雪解け水を   踏みしめる

 行く二人が見る 朝日の光り

 光背まぶし   親父様

 互いの情念   和解する

 明日への道を  歩む二人

 一歩ずつ近づく 文楽の城

 塀壁乗り越え  見物する

 やんや喝采   民の声

 見よう見まねの 大向こう

 さあさあさあと 奮い立つ

 文楽の力    己に宿す

 

 正樹の口から音符が出る。

 背中から光が出る。

 天井に虹がかかり、天女が琵琶、鼓、笛を持って雲に乗ってやって来た。

 突如、部屋の屋根、壁が取り払われて、町家全体が浮遊した。

 目の前の京都御所まで行き、浮かんでいた。

 梅太夫も東山幸司もそんな光景には目もくれず泣いていた。

 涙汗の床本をポケットから取り出した幸司は、そっと梅太夫の膝の上に乗せた。

 今月朝日座で上演していた「一谷嫩(いちのたにふたば)軍記(ぐんき) 熊谷陣屋の段」だった。

 演奏が終わると、再び元の光景に戻った。

 暫く沈黙が続く。

「やっぱり、浄瑠璃っていいですね」

 幸司が最初につぶやく。

「そうやろ。こいつは天才や」

「天才ですね」

「こいつは、人間国宝取るまでずっと文楽の城の中にいてるで」

 梅太夫は断言した。

 本当は23歳で文楽をやめるのだが、ここは正樹は黙っていた。

「先ほどは失礼しました。有難うございました」

 幸司は深々と頭を下げた。

「いえ、とんでもない」

「正樹、そろそろ行く時間やろ」

「ええそうなんですけど」

 正樹は上条を見た。

 戻れる時間を過ぎていたのを説明した。

「あの柱時計ですね。あれ、標準時間より30分早く進んでいるんです」

「本当ですか!」

「じゃあ間に合う!」

 正樹ら一同は二階に上がる。

「ここの押し入れの壁が50年後に行ける道なんか」

「そうです」

「わしも50年後の文楽がどうなってるか見てみたいなあ。大阪日本橋に国立文楽劇場が出来ているんやろ。それも見てみたい」

「ここにいても見れますよ」

「でもだいぶかかるやろ」

「十年後です」

「十年は、一昔、ああ夢だ夢だ」

 芝居気たっぷりと梅太夫はううなる。

 熊谷陣屋の直実の台詞

「十六年は一昔」をもじっていた。

「元気でな」

 梅太夫は泣いていた。

 正樹は一人ずつ握手した。

「向こうの未来でも大輪の花を咲かせて下さい」

 しっかりと目を見据えて明子は云った。

「じゃあお元気で」

 幸司は云い切った。

 50年後、幸司は梅太夫と共に、泉下に眠っている。

 これが最後の別れでもあった。

「さあ早よ行け」

 梅太夫がゆっくりと背中を押した。

「じゃあ正樹、又逢おう!」

 上条は力強く背中を押した。

 ゆっくりと押し入れを閉める。

 向こうの壁をスライドした。

 うっすらと下り階段が見えた。

「よしっ!」

 意を決して正樹は転げ落ちた。


 夏の昼過ぎ。

 浄瑠璃町家ライブが、今宵も行われた。

 参会者たちは、集まって来る。

 玄関口に大きなひまわりの大輪が咲いていた。

「いやあ、大きなひまわり」

 口々に参会者たちはつぶやき、スマホに撮っていた。

 それを通りに面した格子戸から玄関口までの石畳の途中にある洗濯機から洗濯物を取り出す、一人の老婆が聞いてほほ笑んでいた。

 参会者が、ほぼ出そろった時だった。

 正樹は玄関口を出て、老婆に近づく。

「今日は」と声掛けした。

「大きなひまわり咲きましたなあ」

「はい。昔ある綺麗な女性から貰ったものなんです」

「へえ、綺麗なおなごはん。その人今どうしてはるんどすか」

「そうですねえ」

 正樹はここで言葉を区切り老婆が持つ洗濯物に目をやる。

「多分、命の洗濯していると思います」

「まあ上手い事云いはる」

 老婆は微笑む。

 玄関口の戸が開き、麻紀が顔を出した。

「皆さんお揃いになられました。師匠そろそろです」

「わかった。今日は一緒にどうですか」

「いいんですか、私みたいな老婆でも」

「いいんですよ、東山明子さん」

 と正樹は微笑んで云った。


 浄瑠璃町家ライブが始まる。

「今日は、特別に私がつい最近体験したお話をしたいと思います」

 いつもと違う展開に参会者は少し戸惑った。

「東山さん」

「はい」

「先に種明かしは駄目ですよ」

「あんた、やっぱりあの時におった人やったんや」

 正樹はこっくりとうなづいた。

「種明かして何?」

 麻紀に話をせがまれる。

「さあどこから話そうかなあ」

 矢澤竹也(正樹)は、腕組みしてほほ笑んだ。

 今宵も浄瑠璃町家ライブが始まる幸せを噛みしめて。


     ( 文楽の城・出発篇 終わり )

     ( 文楽の城・放浪歌舞伎篇につづく )

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