月が綺麗

浅瀬

一、



 夜も明けきらぬうちに起き、隣で眠る人を起こさぬようにベッドを降りる。


 背中を向けて眠るミツキは、風邪っぽいのか空咳をしてから仰向けになった。


 ベッドに戻って、私は布団を彼女の首までかけてやる。酒くさい。

 メイクも落とさずにまた人の布団にもぐりこんできたんだな。


 布団を払いのけようとするミツキの手をつかんで、私は唇をかんだ。

 そっと布団の中にしまう。


 それから人差し指で、まつ毛に触れた。

 起きないのをいいことに、頬に指をすべらせる。指の側面でそうっと撫で下ろすと、自分の心臓を撫でているみたいにぞくりとした感覚が走った。


 私は指を離して、浴室に向かった。


 浴室の洗面台で顔を洗って、コップに二本並ぶ歯ブラシのオレンジを手にとる。

 ミツキのピンクの歯ブラシは、真ん中が押し潰されてへこみ、外側の部分は跳ねていた。


 歯磨きの時に歯ブラシを噛みつぶすのが、彼女のクセだった。


「歯磨きって無心になるからやだ」


 いつだったかそう言っていたことがある。


「やなこと思い出すからさ」


 そのとき洗濯機を回していたわたしは、浴室の鏡ごしに、ミツキの歯ブラシを口に含んだまま歯を食いしばる表情を見て、彼女の仕事の過酷さを思った。


 うがいを済ませてコップをすすぐと、私はキッチンの戸棚から買い置きの歯ブラシを出してきた。


 包装を破り捨てて浴室に戻り、真新しいピンクの歯ブラシをコップにさしておく。


 ……ミツキが楽になったらいいな。



 いつもつらそうな顔をしているから、私が思うことは馬鹿みたいにそれだけだった。


 私はパン屋の早朝バイトで、ミツキは夜職のおねーさんで。

 最初は駅前で酔いつぶれていたミツキをしょうがなく介抱しただけだったのに、年が近かったせいなのかタイプが全く逆だからなのか、ミツキはここと私を気に入って、気づいたらシェアして暮らしている。


 でも野良猫みたいに、きっといつかふらっといなくなるんだ。


 何となくそんな予感もしていた。

 私の母親がやっぱり夜職で、十三の時にぱったり帰らなくなってそれきりだったから。

 私はミツキに母と似た匂いを感じとっていた。というか、だからこそ酔いつぶれた素性の知れないミツキを拾ったんだろうなと思う。



 家を出る時に、玄関で脱ぎ捨てられていたピンヒールの靴を揃えて、ドアを開ける。


 どうしてかいつも、眠るミツキが私の家にいるんだ、と思うと、鍵を閉めるときに泣きたくなる。


 きっと私が夕方に帰ると、ミツキはもうメイクしている時間で、無邪気に綺麗な顔をくしゃっとさせて笑いながら、下ネタとか昨夜の客の話とか、私の聞きたくないことを教えてくれるんだろう。


 そして私は取り繕った笑顔の下で、何でか切り刻まれて勝手にずきずき痛んでいる。


 月がぽっかり浮かんだ紺青の空の下を行く。

 

 自転車を走らせながら、眠るミツキの薬指に見慣れないリングを見つけたのを思い出し、結んでいたはずの口から、嗚咽みたいなため息がもれた。

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月が綺麗 浅瀬 @umiwominiiku

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