第48話「噂」


 報せがマリア・ヴィクスに届いたのは、そのような時期であった。

 カナダのノバスコシア州ハリファックスより、イギリスのリバプールへ向かうHX106船団のことだった。これはオランダやノルウェーの船も含む、四一隻にも及ぶ護衛船団であった。

 護衛として船団に参加した船舶は、王立カナダ海軍フラワー級コルベット『コリンウッド』及び戦艦『ラミリーズ』である。

 フラワー級コルベットは捕鯨船『サザン・プライド』をベースに設計された対潜捕鯨船というべき船で、なにより安く建造できる船だった。一軸推進で主機は三段膨張式レシプロ蒸気機関で、最大でも十六ノット程度が精々だったが、なによりも安価で数を揃えることが出来た。

 船体構造は軍用ではなく商船構造で、軍艦においては避けられる木材も多用され、英国だけでなくカナダでも建造されていたのだった。

 彼女はとことこと一日だけ船団に付き添い、そのあとは戦艦「ラミリーズ」がのそりと足並みを合わせながら、護衛することになっていた。

 そこに、ドイツ海軍の重巡洋艦が現れたというのだ。

 とはいえ、ヴィクスはこれを信じなかった。現れたのは、あの艦であると、不思議と確信していた。戦艦『エジンコート』が出会い、二度も顔を合わせておきながら、互いに互いを殺し切れていないという、因縁のあるあの艦。


 ―――巡洋戦艦『シャルンホルスト』と『グナイゼナウ』


 最初にあの巡洋戦艦と合間見えたとき、補助巡洋艦『ラワルピンディ』も誤認していた。間違いないという確信がヴィクスにはあった。理由はヴィクス自身にも分からないが。

 しかし、この二隻は老いぼれの『ラミリーズ』を前に静かに水平線の向こうに消えていったのだった。

 戦艦『エジンコート』も設計したテニスン・ダインコートの手による『リヴェンジ級戦艦』は、旧式ではあるが十四インチ砲を備えた超弩級戦艦である。前級の『クイーン・エリザベス級戦艦』よりも小型で、安価で、手頃な戦艦として設計された経緯はあるが、それでも火力は保持していたのだ。

 老女が無言の圧力で新鋭のドイツ娘を追い払った後、船団護衛のために派遣された小型艦たちがわらわらと集まってきた。

 中にはフラワー級コルベットや、平甲板型の駆逐艦などもいた。

 駆逐艦『バーナム』などはアメリカ合衆国と英国において締結された『駆逐艦・基地協定』でユニオン・ジャックを仰ぐことになった老い耄れ駆逐艦の一隻であった。


 しかし、犠牲がなかったわけではなかった。

 船団から遅れていた二隻のタンカー『セレア』と『アーサー・F・コーウィン』が、Uボートによって撃沈されていた。

 排水量8074トンの『セレア』はディーゼル燃料を、そして10516トンの『アーサー・F・コーウィン』は、14400トンのガソリンを輸送中だった。二つのタンカーの合計で百名ほどが死んだ。

 ヴィクスはそのことに対して、さして心を動かすことはなかった。

 大西洋だけでなく、この世界の海原のどこか、世界の片隅でさえ、今や安全な海などはありえない。忌々しい灰色狼ども、Uボートのその牙に掛かって死んでいった船乗りの数は、今までも膨大なものであったし、きっとこれからも増え続けるのだ。


 一方で、郵便などを通じてイギリス本土の様子も浮かび上がってきていた。

 軍関係施設だけでなく、市街地への爆撃さえ深刻化しているのは周知の事実であったが、臣民達の士気は失われていなかった。

 開戦前、精神科医たちが懸念した爆撃による心的外傷への懸念とは裏腹に、臣民達は爆撃をまるで天候の一つのように扱った。ビールが配給されるわけでもないのに、パブへ繰り出す者たちの数は増え、クリケットの試合も行われていた。

 完全にロンドンは戦時体制へ移行していたにもかかわらず、モラルの崩壊は起らず、市民達は戦時下の日常を過ごしている。

 ロンドンより奥まったところにあったコヴェントリーなどは、壊滅的被害を蒙っていたし、他にも多くの家々などが破壊されたにも関わらずだ。

 とはいえ、無傷ではない。

 ロンドンの人口の四分の一以上が、昨年の時点で疎開や避難などで街を離れていた。それらは大抵、南ウェールズやグロスターへ流入したが、避難できない者達から政府は反感を買っていた。

 ある者の手紙には明るく前向きな臣民達の様子が書き綴られているが、それも一面に過ぎなかった。

 別のある者は満足な避難所がなく、不便で不潔で息苦しい地下鉄のホームにすし詰めになって避難したことなどが書かれている。

 また、そのような環境に曝されながらも、眠らねばならず、朝になれば瓦礫の除去や掘り出しなどをしなければならない、と。

 さらには、ユダヤ人が闇市を牛耳っており、不当に価格を高騰させているという噂まであった。

 こうした様々な噂は、スカパ・フローからこのジブラルタルに派遣され、一年近く地中海で任務にあたっていた戦艦『エジンコート』にとって大きな意味を持っていた。これらの噂に対して適切に対処しなければならないということは、経験上ヴィクスはよく理解しており、対策も講じた。

 ライオネル・カーン大尉が率いる海兵隊はいつだって、どんな時であってもヴィクスの味方だった。艦内治安の維持という面において、臣民海軍ほど経験豊富な軍はなかったであろう。

 戦間期において軍隊という存在は、いつだって金食い虫でしかなく、度々予算が削られてきた。それが士官、ないしは水兵への給料にまで及んだとき、不満というのは容易く爆発するのだ。

 爆発した不平不満は時としてストライキに繋がり、最悪の場合、暴力に出力され負傷者や死者を出す。戦艦『エジンコート』は幸いにして、大爆発に見舞われた事はなかった。


 そうならぬようにヴィクスが制御していたとも言うし、カーン大尉の海兵隊の存在も無視できなかった。海兵隊は暴力的鎮圧よりも話し合いを望み、なによりも艦上で無為に血が流れるのをもっとも嫌っていた。だがなによりも、ヴィクスが制御し切れぬところではヴィンセント中将が処理していた。

 戦間期、戦艦『エジンコート』がインド洋へ向かい、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドといった植民地訪問をする計画を却下したのは中将だった。

 出来ることと、出来ぬことの違いは曖昧だ。その違いに、水兵たちは敏感なのだ。

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