第47話「家族」

 プリチャード中佐たちが戦艦『エジンコート』に掛かりきりになっているその時、マリア・ヴィクスは一枚の封筒を受け取っていた。配達途中でそうなったらしい幾つかの汚れは仕方ないとして、きっちりとした折り目のついた良い手触りの紙に、滲みの無い綺麗な文字が並んでいる。それはヴィクスの夫からのものであり、本来ならば喜ばしいものであるはずだった。だが、この封筒は少しばかり妙だった。

 送りもとの住所がロンドンにある雇用先の新聞社のものだったのである。ドイツ空軍の都市部への爆撃は熾烈を極めており、ロンドンなどはその真っ只中にあった。

 それならばと、スカパ・フローに程近い一軒家に住み、仕事などはそこでこなせばいいと話し合ったばかりだった。

 もしや爆撃で死んだのだろうかと、ヴィクスは暫し封筒を手に持ったまま動けなかったが、すぐに落ち着きを取り戻して部屋へと戻った。

 ペーパーナイフで封を切り、中身の便箋を広げた。便箋は二枚あり、片方に夫の筆跡を確認したヴィクスは胸を撫で下ろした。

 中身を熟読したヴィクスは、その文章を何度も読み返した。

 何度も読み返して、その文章の意味と経緯を考えた後、困惑したような表情になって、いつものように感情を押し殺そうとして、彼女には珍しいことにそれに失敗したようだった。彼女は一人でその感情の荒波をなんとか制御しようとしたが、それが無理だと分かると従卒を呼んで、今すぐにアガサを、軍医長を呼んで来てくれと頼んだ。

 息も絶え絶えになりながら全力疾走で従卒がプリチャード中佐の次に気心の触れた軍医長のアガサ・ナオミ大尉を呼び出し、彼女が部屋に入る頃には、ヴィクスはぼんやりとジブラルタルの空を眺めていた。


「艦長、なにがあったんです?」

「アガサ、私はどうすればいいんだろう」

「………ええと、艦長。失礼します」


 いきなりファーストネームで呼ばれて面食らったが、ナオミ大尉は念のため鍵をかけてからヴィクスの前にある手紙を手に取った。

 手紙の内容は艦長の夫からのものであって、勤務地であるロンドンにいるが健在であること、ロンドン空襲は酷く、このような卑劣な手段に訴えた敵国に対する憤りは、チェンバレンを望んできた国民であっても逃れられぬものである事、などが書かれている。

 この手紙のなにが問題で艦長が虚脱状態になったのだろうかと、ナオミ大尉が最後の三行を黙読した。

 ああ、その三行だった。どうして、たったの三行しか触れなかったのだと言いたくなるようなものが、そこにあった。たったの三行、この三行だ。


「艦長……あー、いや、マリア」

「うん。アガサ、これは……どうすればいいんだろう?」

「これは書き方が悪いですね、まず、どうすればいいかは……うーん、……どうするんですか、マリア」


 がりがりと頭を掻きながらナオミ大尉が手紙を返せば、ヴィクスはそれを受け取って今度は海と港を見てぼんやりとし始めた。

 これは駄目だ、とナオミ大尉はすぐに分かった。こういう状態に陥った場合、会話の主導権など無視してぼんやりし続けるのだ。

 アガサ・ナオミ大尉は本人が望まずとも、どういうわけか刺激的な体験にめぐり合う性質であったし、どういう状況にあっても不敵に振る舞い、実際に彼女の状況への対処能力というのは並みの男性軍医のそれを超えて、優秀な実績を収めているのだが、今回のこれはその対処能力をもってしても判断に困るものであった。

 三行に書かれていたのは、戦災孤児の受け入れと、もしよければその孤児を養子としての引き取りたいという旨を、ヴィクスに相談するものだった。

 なぜ三行、なぜたったの三行に、どうしてたかが三行にまとめてしまったのだと、ナオミ大尉は手紙の送り手に怒鳴りつけたかった。いや、実を言うとアガサ・ナオミはこの手紙の送り主に会ったことがある。会ったことがあるから悪意が無いのは分かる。分かるが、次に会ったらぶん殴ってやると思った。

 あの作家然とした優男は、ヴィクスが子供を欲していないとでも思ったのだろうか。だとしたらお笑いだ。

 マリア・ヴィクスは愚かではない。彼女は己の命を賭けても、もはや子供を産めないということを理解しているから、それを言わないだけなのだ。

 それとも、それを知っているからこそ、孤児を引き取ろうとしているのだろうかと、ナオミ大尉は判断に困った。あの優男だからありえそうな話だった。あの男は無駄に心配を掛けまいとして、余計にヴィクスを心配させるのだ。

 だが、なにも言わずにいるわけにもいかなかった。


「子供ですよ。女の子です」


 ナオミ大尉が短くそう言うと、ヴィクスは困惑したような表情で、


「ああ、そうだアガサ。子供なんだ。子供なんだよ」


 と、答えた。

 困惑というよりも、嬉しさが二割、迷いが二割、そして戦災孤児を自分の子供のように思い始めている自己嫌悪が六割だろうか。

 ナオミ大尉は決心せざるをえなかった。

 ここに座っているのは、艦長というよりは、女性としてよりも軍人として生きてきてしまったヴィクスという女性なのだ。

 ここで背中を押さなければ、きっとなにも進まないのが眼に見えている。


「受けるのがいいでしょう。どこもかしこも、疎開や配給で苦しいんです。道端に捨て置くわけにもいきません。子供は未来を作る宝なんですから」

「そ、そうか。受けてもいいんだろうか……私に、その資格があるんだろうか?」

「なにを言ってるんですか。資格なんか我々人類に何一つありはしませんよ。あるのは権利だけです。そして、大事なのはなにをするかです。なにを教え、どこへ導き、そして寄り添えるか。それが大事なことですよ。艦長として、マリア、あなたは立派にその役目を務めているじゃないですか。今更、子供一人なんだってんですか。あなたはもう、千人以上のおませなガキどもの上に立ってるんですよ?」


 はげますつもりでナオミ大尉は言った。

 まあ、無責任もいいところだな、と本人は思ったが、そうしなければヴィクスが子供という夢を、一生諦めてしまいそうだった。

 それだけは、嫌だった。もちろん、独身のナオミであっても子供を育てるという苦労は知ってはいたが、苦労に見合う光があるのだ。

 それを、艦長が手放し、スカパのような陰鬱な人生を死ぬまで送るなど、看過できない。

 

「気楽に、サインしちゃいましょう。後の事は、その後に考えればいいんです。あなたはそれが出来る人間じゃないですか、マリア・ヴィクス」


 微笑みながらナオミ大尉は言った。

 ヴィクスはやはり、困ったような表情をしていたが、やがて手を動かしてペンを取り、二枚目の便箋を何度も読み直した後、少し歪んだ文字で署名した。

 これでなにもかもが決まったわけではないが、ヴィクスはなにかをやり遂げたように、深々と息を吸って、吐いた。

 できるのであれば、神よ、この不運な女性のあと三十年くらいは、どうか幸せにしてやってくれと、ナオミ大尉は静かに祈った。


 戦争が、いつ終わるかも分からない、1941年初めのことだった。

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