勉強してよ、新妻くん

第19話 抜いてあげるよ、新妻くん

 その日から生徒会の仕事は免除となった。その代わり、毎日顔を出すことという約束はすることになったけど、球技会の事後処理はすべて会長が一人でやると言って聞かなかった。もらった時間を最大限に使うため、大きな客用テーブルに教科書と参考書を広げ、下校時間まで全力で勉強に取り組む。


 寮に戻った後も食堂で軽食をもらって部屋に持ち込み、食べながら単語帳や暗記科目のまとめを読みふけった。


 天稜高校の中間考査は主要五教科を対象に行われる。テスト範囲こそ入学から授業で学習した範囲ということになっているが、それゆえに生徒間で点数の差が出るように内容は難関大学の過去問を参考にした難問が用意される。


 それぞれの教科で科目別に各一〇〇点のテストが十三科目行われ、満点一三〇〇点を生徒はむさぼるようにかき集める。


 天稜高校において、テストの点数は血と同じだ。良い点を取れば明るい未来へと続く健康的な体を維持することができ、失えば生きているのが辛くなるほどの絶望を抱えることになる。


 それを無視したとしても、今回の僕は高得点をとらなければならない理由がある。

 放課後、ホームルームもろくに聞かずに教科書を読んでいたら、いつの間にか青山先生はいなくなっていた。キリのいいところまで読み切ったら生徒会館に移動しよう。人が来ないところだから寮の部屋の次に集中しやすい場所だ。


「テストなんてダルいよなぁ。あんなもんただ知ってる問題に当たるかどうかの運ゲーだぜ」


 僕の後ろで横畑くんは僕に聞こえるように独り言をつぶやいた。勉強がしたくない、という仲間が欲しいのだろう。それなら今も教室の後ろで騒いでいる中山さんを捕まえて黙らせてほしいところだ。


 テストというのは減点方式だ。高得点をとるためには失敗しない解答を用意する必要がある。そのために五教科の中でも主要な国数英の三教科は大まかな理解では部分点で点数を失う危険性がある。ただの数点の減点も積み重なれば十しかない席から振り落とされる。


 そのためには単語や公式を単体で覚えるのではなく、流れを見極めて結び付けていく必要がある。どんな用語と用語、公式と解法。その間にどんな関連があるのかを読み解く必要がある。時間はかかるが確実に血肉になる学習方法だ。


 この数千年続く人間の社会で体系化された学問というものが、一つの流れの中にないわけがない。教科書の中だけを読むのは物語のように途切れることなく続いてきた学問のエピローグだけを読んでいるようなものだ。


 少なくとも部分点という概念がある三教科だけは時間がかかっても丁寧に頭の中に入れていかなきゃ。


 集中力が増す。周囲の音が一切聞こえなくなる。時間がスローになったようにゆっくりと流れていく。教科書の文字が僕に語りかけてきて頭の中に文字が刻まれていくような錯覚がする。


「新妻ぁー!」


 高まった集中力が背中の痛みと耳への大音量で一気に吹き飛んだ。声の主は顔を見なくてもわかる。中山さんだ。


「そういや新妻って放課後遊びに行ったりしないの?」


「行くわけないじゃない。生徒会もあるし、そもそも僕は寮生だから」


「もったいなくね? せっかく高校生なんだしさ、今日アタシと遊びにいこーよ」


 僕は答える代わりにわざとらしいほどの大きな溜息をついた。中山さんが勉強に本気じゃないことは最初から分かっていたことだけど、わざわざテストが近づいたタイミングで言わなくてもいいじゃないか。


 しかも彼女は僕が次の中間考査で十位以内に入らなければ会長が解任されるって話も聞いていたはずなのに。


「悪いけど、勉強の時間は一秒も削れないんだ」


 これじゃ邪魔が入って勉強にならない。中途半端なところだったけど、僕は教科書を閉じて帰り支度をすませて席を立った。そのまま教室を出ていこうとすると、服の裾を控えめにつかまれる。


「ごめん、ちょっと無神経だった」


 振り返ると伏し目がちに中山さんが僕を見つめている。


「でも、なんか今の新妻はちょっと危ない気がする。無理してない?」


「僕にとってはいつものことだよ。今までがサボり過ぎだっただけ」


 一日の大半をずっと勉強して過ごすなんて、僕にとっては特別でもないただの日常だ。それをテスト前だからといって必死になっている方がおかしいんだ。それだけ今まで勉強をしていなかったってことなんだから。


 中山さんの手を振り払うように僕は教室を出る。そのまま足早に生徒会室へと向かった。


 メイド服も免除となったおかげで僕は何の憂いもなく勉強に取り組めるはずなんだけど、逆にこの部屋の中でメイド服を着ていないと違和感を覚えるようになってしまった。思考が会長に汚染されている。気をつけないと。


 自分の勉強に手をつけつつ、横目に会長の姿を見る。どうやら球技会のアンケートもまとまったらしく、次の企画を考えているらしい。僕と同じかそれ以上に生徒会の仕事をやっているはずなのにいつ勉強しているんだろう。


「はぁ、自信なくすよ」


 当然と言えば当然か。会長は二年の時点でこの天稜高校でトップクラスの位置にいたんだ。僕とは元々の頭の出来が違う。校長だってそれを知っているからこそ僕を勝負に巻き込んだのだ。二人とも、とは言っているけど、実際のところは僕がどれだけの成績を残せるかにかかっている。


 会長と同じ部屋にいると劣等感にさいなまれる。これなら寮の部屋にこもっていた方がいいかもしれない。あまり集中できないでいると、会長がすっと立ち上がると、僕の座っているソファの隣に腰かける。肩がくっつくくらいに身体を寄せて、僕が解いている問題集に目を落とした。


「どこがわからないの?」


「いや、どこというわけじゃないんですけど」


 まさか会長に見惚れていましたなんて言うわけにもいかない。慌てて問題集に目を落とし、ペン先で次に解くはずの問題を差した。


「これはわかりにくいように偽装されているけど、ただの相加相乗平均の問題だから」


 前に垂れてきた髪を細い指で支えながら、透き通るような声で丁寧な解説が流れてくる。やっぱり僕が副会長でよかったんだろうか。今だって足を引っ張って会長に苦労をさせているだけなのに。


「新妻くん?」


「あ、ごめんなさい。だいたいわかりました」


「やっぱり。ちょっと無理をしてるんじゃない?」


「いえ、そんなことありません。むしろもっとやらないと」


「今の説明、間違ってるの」


 会長はいたずらっぽく笑いながら、ペンを持つ僕の手を包む。顔が赤くなるのを悟られないように慌てて問題を読み直すけど、会長の解説の内容は少しも頭に残っていなかった。


「無理はよくないわ。新妻くんが倒れてまで私は会長の座に残りたいわけじゃないの」


「いえ、無理なんて」


 そうは言ってみたけど、今の状態で言い訳なんて聞いてもらえるはずがなかった。せっかく会長に仕事を変わってもらっておきながらこのザマじゃ。


「そういうときは気分を変えましょう。この勝負は私が受けたものなんだから、新妻くんが気負う必要なんてないんだから」


「……はい」


「ほら、勉強ばかりだと溜まっちゃうでしょう? 私がヌいてあげるから」


 隣に座った会長が僕に体を寄せる。制服の向こう側にある控えめな胸が僕の腕に押しつけられる。なんだか少しだけ体が軽くなる。こうして誰かと体を寄せ合うなんてこと、家族ともやったことはなかったから。


「ありがとうございます」


 僕は手を伸ばしてきていた会長を振り払うように立ち上がる。だからこそもっと頑張って、会長を守るんだ。


「疲れが溜まってると効率が落ちるってことですよね。一緒に息抜きしてくれるならコーヒー入れます」


「あ、いや、そういうことじゃなくて」


「わかってますよ。砂糖は三個、ですよね?」


 いつもはブラックしか飲まないけど、今日は会長にならって甘いコーヒーでも飲んでみようか。もしかしたら新しい味に味覚が刺激されて、いつもと違う脳が働き始めるかもしれない。


 カップを二つ持ってテーブルに戻ってくる。会長はなぜか不満そうな顔で頬をふくらませていた。


「あの、何か気に入らないことでも?」


「知らない。新妻くんには勉強教えてあげない」


 会長はコーヒーを受け取ると、そそくさと自分のデスクに戻ってしまう。その後は全然こっちを見てくれなくなってしまった。気まぐれな会長に振り回されながら、僕はまた学問の海へと漕ぎ出していった。

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