第45話 娑輪馗廻からは逃げられない

 とうとう食べた、食べてしまった、としばらくの間、百舌鳥もずは呆然としていた。うまかったのは確かだが、それがどんな味かは言い表せない。

 弟を食べた時とはまるで違うのはもちろん、これまで生きて飲み食いしてきた何とも似ていないし、二股に裂けた舌が感じるものとも違う。


 ただ無我夢中で食べ尽くし、不思議な満足感と巨大な喪失感が、百舌鳥の胸に大きく穿うがたれていた。これ以上ないほどに満たされているのに、今までになく飢える。

 美味くて、うまくて、さびしくて、苦しくて、痛くて、何も分からない。

 喰えば喰うほど腹が減ってしまうような、そんな残酷なごちそうだった。


「もずもず! 髪がぜんぶ真っ白だよ!」


 少女の声に、ようやく百舌鳥は我に返った。自分はどれだけ呆然としていたのか、すっかり時間感覚が馬鹿になってしまっている。

 かやは百舌鳥の懐に飛びこむと、その胸に耳を寄せた。


「ここにおとうちゃんも、おかあちゃんも、ドードーも、みんないるんだね」

「ああ……。正確には、そこに繋がる扉が、な」

「もずもずは、みんなのお墓なんだ」


 うまいこと言いやがって。百舌鳥は拳を作って、少女の頭にこつんと当てた。


「死んだ人に会いに行きたいなら、お墓参りしたらいいよ。ってドードーも言ってたんだ。もずもずがいれば、いつでもみんなに会えるね」

「……もう二週間もすれば夏休みが終わる。その後お前はどうするんや、茅」


 何を今さら、ときょとんとした顔で少女はこちらを見上げた。


「戦うよ。学校も行くし、剣の修行もするし、それでもずもずと霊餌たまえ狩りをして、娑輪しゃりん馗廻きえと戦う方法を探すよ」

「ああ……こいつらが作った霊餌と神餌かみえは、まだ山ほどおるしな」


 そうしてようやく、二人は辺りを見回した。平伏する白装束の集団が、石畳を、洞窟の地面を、壁面に設置された通路を埋め尽くしている。

 その中から一人、白髪をみずらに結った老婆がおずおずと顔を上げた。


聖者しょうじゃさま……霊餌を狩る、娑輪馗廻と戦う、とおっしゃられましたか?」

「ああ、言うたな」

「なぜ?」


 なぜもくそもあるか。


「俺が聖者になろうが神餌になろうが霊餌になろうが、関係あるかい! 俺はおんどりゃら娑輪馗廻を喰い滅ぼし尽くす! それだけや!」


 雷にでも撃たれたようにのけぞる老婆は、まるで舞台上のコメディアンのようだった。驚きは周囲の信者にも伝播し、どよめきが広がる。


「おお……おぉぉお、なんと、なんと恐ろしいことを! なぜ帰依なされていないのです!? 御殪ころしを観世音かんぞんさまのお導きがなかったのですか!?」

「は? そんなもん知らん」


 戦国時代に、寄帰来よらぎむらのものが天啓を受けたという存在。娑輪馗廻が崇める神については、そういえばよく知らない。


「喰うたら神の声が聞こえるとでも言うんけ?」

「その通りでございます。歴代の聖者さまはみなそうでした。いえ、聖者の資格を持った時から、本来は御声が聞こえるはずなのですが……こんな……」


 老婆も信者もひどく狼狽していた。

 しかし、信者たちが邪魔をしなかった理由が分かった。彼らにとっては首がすげ変わるだけで、自分たちが崇める神の代理人が存在することに、変わりは無いのだ。

 それが思い違いだということになれば、厄介だ。百舌鳥は茅を守るように近くへ抱き寄せた。茅も紫陽花鏡を構えて、油断なく周囲を見回す。


御食みけが足りないのではないか」

羽咋はくい道眞どうまがそもそも俗流の神餌だったのだから、多生の間違いはあろう」

「聖者さま! どうぞ我らもお召し上げください!」


 白い狩衣と烏帽子姿の男たちが数名現れ、百舌鳥の前――じりじりと後ずさっていたため、そこはもう岸辺だ。水に脚をつける百舌鳥と茅の前に土下座する。


「は? お前らを食えってか?」


 冗談抜かせと言う前に、百舌鳥はちりっと熱いものにこすられたような違和を覚えた。こいつら、何かがおかしい。狂信者の様子が変なのは当然だが、それとも違う。


(……ああ、そうか)


 百舌鳥は伏し拝む狩衣の三人に向かって手をかざした。ずっと以前から知っていたかのように、力の使い方に戸惑いはない。

 三人は、青く燃え上がった。


「ひぃぃいぃいぃいぃいぃぃっ!」

「ぎゃあああぁあぁああぁっっ!」

「ううぅぅわぁあ! っああああっ!」


 この三人は神餌だ。だから、簡単に百舌鳥には葬れてしまう。

 聖者は御殪ころしを観世音かんぞんの代理人であり、その力の顕現として死者を蘇らせる邪法・娑輪馗廻を執り行うことが出来る。死者をよみがえらせられるなら、その逆もしかり。


 百舌鳥は片手で空をなぎ払った。どうやらここに詰めていた信者たちのうち、三割ほどが神餌だったらしい。そこかしこから、火柱と悲鳴が上がる。

 まるで、青い彼岸花が咲き狂ったようだ。炎の色に照らされて、色が抜けた百舌鳥の白髪は人ならざる超越者のように彼を見せていた。


「なんという……何ということだ!」

「御殪観世音さまに帰依されないとは!」

だ! かむやらいを!」


 ごぽり、と湖の底から、何か巨大なものが浮上してくる気配がする。湖面が大きく波を立て、二人と一匹の体を押し流そうとしてきた。


「リリンコ!」


 真っ先に溺れそうになった猫を助けようとして、茅は小島への道から外れてしまう。猫を抱えて立ち泳ぎするが、波に呑まれて沈んでしまった。


「茅!」


 聖者となったものの、百舌鳥はまだ自分に何が出来て、何が出来ないのか把握していない。例えば湖の水を真っ二つにするだとか、そういうことはできるのか?

 出来るかどうかも分からないことを、悠長に試している暇はない。百舌鳥は状況判断し、茅を追って水にもぐる。底が見えない真っ暗闇の中で、少女がもがいていた。


 水圧は、空間がまるごと敵になるとはどういうことか教えてくれる。急流が三半規管をもみくちゃにして、あっという間に上下の感覚がなくなった。

 水面の光が遠ざかった闇の中、百舌鳥は空気を逃さないよう硬く口を閉じる。


 水を飲んではいけないといくら理性で分かっていても、本能は百舌鳥に深呼吸させ、溺死の数歩手前へと追い詰めた。早く茅を探さなくてはいけないというのに。

 肺活量には自信があるが、その百舌鳥でさえ激流に呑まれて翻弄されるばかり。ましてや華奢な少女と猫だけでは。


(あいつらこのまま、俺たちを水葬にする気か……!?)


 かむやらいの意味は知らないが、とにかく自分たちは追放されたらしい。波を起こせる人工湖だったのか、そういう能力者がいるのかは知らないが。

 もがく腕に少女の手が触れ、慌てて抱き寄せる。その拍子に、百舌鳥は酸素の代わりに水を取りこんで、たちまち喉を焼かれた。

 鼻の奥から耳までたっぷり、熱湯のような湖水がどくどくと。かき抱いた少女の無事を祈りながら、何くそともがく。あがく。こんな所で、死んでなるかと。



「げ……えぇ……っ! っうえほっ、ご! おぉっほっ」


 液体の透明が気体の透明に転じると、酸素を求めるあまり咳が止まらず、喉がふいごのようだった。粘膜が破れて、鼻血が出たかもしれない。

 それでも百舌鳥と茅はどうにか、川から上がって砂利だらけの岸辺に座していた。すぐそばでは、リリンコが元気に黒いドリルと化して体を乾かしている。

 一日に二度も冷たい湖に落とされるなど、勘弁して欲しい。しかも二回目は、ほとんど溺れかけていた。そして、道眞はもういない。


「ここ、古宮ふるみやむらみたい」


 茅が取り出したスマホは生きていたらしく、位置情報を確認した。


「どうやら連中から追い出されたようやな……」


 辺りは左右を岩肌に囲まれた渓流だった。上に行く道を探して百舌鳥は立ち上がる。ともかく、暗くなる前に車まで戻らなくては。


「茅、一つ俺と約束せい。これから先、何があっても、われは


 道眞を喰った時から、百舌鳥はそのことを考えていた。茅には決して、聖者への道のりを歩ませてはならないと。少女は素直に「うん」と、さびしげに答えた。


「〝俺に何かあったら、後は頼む〟なんて言ってくれないんだね、もずもずは」

「われが自分で立派な剣士にでもなったら言うちゃるで」

「うそつき」


 茅はあっかんべえするように舌を出した。少しでも戦力になりたくて、少女は百舌鳥から剣術の手ほどきを受けている。が、今はまだ基礎体力を作っている段階だ。

 百舌鳥にとって、自分が庇護対象でしかないことを、茅はよく分かっていた。


霊廻たまえしきやろうと、たま餌食えじきやろうと、こいつは食物連鎖とおんなじで果てしがあらへん。どっかで誰かが喰うのをやめん限り、決して終わらん」

「終わりがない……」


 ふ、と茅は自らの内に沈みこむように、声を落とした。

 かと思えば顔を上げ、せき立てられるように早口で語り始める。


「ねえ、もずもず。霊魂をたくさん食べたもずもずが誰かに食べられたり、ほかにもどんどん食べる人が出てきたりしたら、どうする? 別の聖者に会ったら、その人ももずもずは食べないといけないんでしょ」


 少女の瞳には、暗黒の未来が映っていた。


「世界のあちこちで誰かが食べたり、食べられたりしてる。それって、なんか、すごく怖いことなんじゃないかな。死んだ人と生きてる人の共食いが、永遠に続いてしまうんだったら……娑輪馗廻は、終わらないんじゃないかな。その中で一番の大食いが、新しい神さまになるのかも……」


 茅の体は湖水のせいだけではなく、芯から冷え切っていく。冷たさが脳に白い霜をかけ、目の前に闇が迫る心地にさせた。

 暴走した想像力が少女の頭にずしりと居座り、思考を爆発させる。

 食物連鎖は自然に起きている出来事だ。けれど、娑輪馗廻の存在はその生者と死者版に過ぎず、知らぬ内からずっと続いていたのではなかろうか。


 聖者ははたしてあれ一人だったのだろうか?

 百舌鳥が焼いた神餌ですべてだったのだろうか?

 少なくとも、今も多くの霊餌が全国各地に残っている。


 生者へ憎悪を向ける霊餌たちは、その命と恐怖をすすって肥え太る。そうして力をつけた霊餌を、百舌鳥のような聖者や、あるいは神餌が喰らう。

 百舌鳥が茅に決して食うなと言うのも道理だ。たまたま食べた霊餌がすでに聖者たる資格を満たしているなら、茅もそっち側へ入ってしまう。


 だから、と絶望的なささやきが茅に耳打ちする。


 娑輪馗廻からは逃げられない、と。

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