惚れ薬リトライ

 七条の手によって、惚れ薬が俺に降りかかる。

 甘い香りが鼻腔をつき、俺の身体に緊張が走った。


 重たく閉じたまぶたを、ゆっくりと開いていく。

 七条は、プルプルと震える手で惚れ薬を持ちながら、ぎゅっと顔に力を入れていた。


 そんな彼女を見て、俺の中で何か特別な変化が起こることは──なかった。


 いや、七条のことが普段より可愛く見える気はする。小動物みたいというか。

 しかしそれは、惚れ薬の効果ではない。恋人同然の距離感で、七条と接していたことによる副作用だろう。


 やはり、この惚れ薬は偽物。ただの香水だ。


「……あのさ七条、この惚れ薬やっぱ偽──」


 ポリポリと頬を指で掻きながら、俺はためらい気味に切り出す。しかし、俺の声は途中で途切れた。

 七条が正面から抱きついてきたからだ。倒れ込みそうになるが、すんでのところで堪えた。


「だ……黙ってっ」

「え?」

「……黙りなさい」

「……っ。……」


 彼女の気迫に気圧される。コクコクと首を縦に振るのが精一杯だった。

 そうして、一分近く七条が俺に一方的に抱きつく時間が続く。


 俺は抱き返すことも、何か言うことも、出来ないでいた。


 時計の秒針が進む音だけが、約束通りに流れる室内。甘いフルーツのような香りが、周囲を漂う。

 柔らかい感触が全身を網羅して、俺の精神は破裂しそうだった。


 七条さん……童貞にこれは、刺激が強すぎます……。


 素数を数えて雑念を必死に振り払っていると、七条が俺から離れる。

 右手をうちわ代わりにして、真っ赤になった顔を仰ぎはじめた。


「わ、ワー……ナ、ナンデアタシ、フルカワニダキツイテルワケ……イ、イミワカンナーイ」

「し、七条?」


 もの凄い棒読みだった。

 さすがに、棒読みが過ぎたと思ったのか、彼女は軌道修正を図りはじめた。


「あ、あたしさ……途中から記憶ないのよね……古川何か覚えてる?」

「え……いや、な、なんつーか」

「お、おかしなこともあるものね」

「そ、そうだな……」


 さ、さすがにこれで通すのは無理がないだろうか……。


 今の七条を見るに、『惚れ薬は一定時間で切れる。惚れている間の記憶は失う』という設定を新たに作り出したのだろう(初めから用意していたのかも知れないが)。

 確かにそれならば、かろうじて辻褄は合う……。惚れ薬は、男には効かず、女にだけ効く都合の良い設定をプラスアルファで加えれば、設定に矛盾は生じない。


 俺は胸に手を置くと、七条の目を見据える。


「あのさ七条」

「な、なによ」

「実はさっき、七条に惚れ薬を使ってもらったんだ。俺に向かって」

「へ、へぇあたしが、古川に惚れ薬を使ったの? 俄には信じがたいわね。どうしてあたしが、古川をあたしに惚れさせなきゃいけないのよ」


 挙動不審にキョロキョロ黒目を泳がせる七条。


「それはまぁ、実験みたいな? で、その結果分かったことがある」

「わかったこと?」

「あぁ、この惚れ薬はまごうことなき偽物だ。ただの香水」

「ふーん……ま、当然と言えば当然の結果よね。よかったわね、赤の他人に使って恥をかくみたいな展開にならなくて」


 くりくり前髪をいじりながら、七条は上擦った声をあげる。



 さて諸君、ここからが本題だ。

 七条は、一部の記憶が喪失した都合の良い設定を使っている。彼女の真意を今一度図るため、俺はもう一度行動を起こしたいと思う。



「でさ、七条」

「ん?」

「今からこれ……七条に使うけどいい?」

「…………。は?」


 床に乱雑に置かれた惚れ薬を手に取る。

 発射口を、七条へと向けた。


 彼女はポカンと口を開け、まぶたをパチクリと開閉する。


「い、意味分かんないんですけど! なんでそれをあたしに使うわけ!?」

「いやどうなるのか気になってさ……男には効かないだけで、女には効くかもしれないだろ?」


「あ、あのさぁ」


 七条の頬が斜めにひきつる。


「うん?」

「あ、アンタって頭おかしいの」

「照れるからやめろよ」

「褒めてないんだよ! て、てかもしその惚れ薬が、女には効く代物だったらどうするのよ! 勝手な事しないでよね!」


「じゃあ……今からする俺の質問に、真剣に答えて欲しい。そしたら惚れ薬は使わないから」


 俺はさっきまでのおちゃらけた声のトーンから一転して、真面目な声色で告げる。

 七条は、俺の目を見つめ返すと、そそくさと居住まいを正した。


「し、質問ってなによ」

「し……七条ってさ、その……お、俺のこと──」

「……っ。……!」

「お、俺のことえっと……」


 あ、あれ?

 上手く声が出ない。どんどん尻すぼみに声量が落ちていって、口を開けるのもままならない。


 七条の気持ちを絶好の機会。なのに、俺はあと一歩が踏み出せなかった。


 そもそも、俺が七条の部屋を訪ねた目的は、これだ。七条の胸の内を探ること。


 だが、いざ七条が俺のことをどう思っているのか聞こうとすると歯止めが掛かった。


 その結果、俺が出した結論は、ひどく情けないものだった。


 ──ぷしゅっ


「え? ちょ……このタイミングで!?」

「わ、わりぃ」


 再び、惚れ薬を七条に吹きかける俺だった。

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