猫とギヤマン*金糸雀と詐欺師

 千枝ちえは焦っていた。淑女が走るなんてはしたないとは重々承知しているが、今だけは手段を選べない。

 主と婚約者を店から先に送り出し、買い物が包まれるのを待つまでは良かった。問題は彼女らを追いかけてる途中に起きた。

 主のたまきに持たせている守りが千枝に異変を伝える。対となるように仕立てた腕の飾り紐が何もない場所で切れて落ちた。

 一瞬で顔色を変えた千枝は落ち合う予定の場所に急いだ。木々があふれる公園の一角に西洋風の時計台がある。その場所を目指して、両手に抱えた風呂敷にわずらわしさを感じつつ駆ける。環の荷物だから投げ捨てるわけにはいかない。

 あの婚約者は何をしている。何が藤堂とうどう家の跡取りだ。やはり自分が環のそばにいればよかった。

 どうしようもない気持ちが千枝の思考を絡めとる。

 人通りの少ない近道ばかり選んでいるので、構わずに垣根を越えた。御仕着せのスカートが空気をはらんでひるがえる。あらゆる背景が形をなす前に通りすぎていった。

 息の上がったまま、勢いを殺さずに公園にかけ込む。守りの居場所を感じ取って、息つく暇もなく足をそちらに向けた。

 遠目に環が見える。傍らに立つ男と共に笑っている。

 ほっと息を吐き出した千枝は身なりを簡単に整えて二人に歩みよった。


「お嬢様、ご無事でしたか」

「心配かけてごめんなさい。この子がいたずらするものだから」


 環が困った顔で胸元に入れていたハンカチーフを取り出す。広げられた中には千枝の渡した飾り紐が仕舞われていた。萩を素案にしたギヤマンを通したもので、千切られたように紐が広がっている。

 壊れた守りを受け取った千枝は環の膝にのる三色の毛玉を見下ろした。でっぷりとした体躯ながら、環の太ももの上に収まっている。

 桃色の生地に咲く白や紅の薔薇。真珠色の帯に若草色の帯紐と蝶の帯留めが映える。肩にはレースのショールをかけ、今の時期に丁度いい装いだ。


「その猫はどうされたのですか?」

「歩いてたら、たまたま懐かれたの」


 主の答えにたまたまではないでしょう、という言葉を千枝は飲み込んだ。


「この猫、尻尾が二つありますね」

「おかしな子と思ったら、猫又だったのね。長生きさんなのかしら」


 環が耳の後ろをかくと三毛猫は気持ち良さそうに声を上げた。


「尻尾が短いから解りづらいですね」


 千枝は平然とほらを吹く直幸なおゆきを虫を見るような目で眺めた。彼に環を任せるのは間違えだったと再確認する。


「もしものことがあったらどうして下さるつもりだったのですか」

「あまりにも環さんが猫を愛でるものですから」


 千枝のつっけどんな言い方にも直幸は上面の厚い笑顔で返す。


「その三毛猫、雄ですね。とても珍しいので吉兆の印とも言われてますよ」


 その言葉を聞いた千枝はすぐさま近くの椅子へ風呂敷を置いた。問答無用で三毛猫を環から取り上げる。


「やましいことがないことは承知しておりますが、雄猫をお嬢様の膝にのさばらせるわけにはいきません」


 千枝は見上げてくる環を嗜めた。気にしなくていいのに、と環は唇を尖らせる。

 持ち上げた猫をどうしたものかと千枝が考えていると、横から手がのびてきた。手の元が誰かとわかり、思考が遅れる。


「これは僕が一旦預かりましょう」


 いつもの胡散臭い笑顔で直幸が言った。

 立ちたがった環はくすくすと声を抑えながら笑っている。

 直幸の体の前にぶらさがるように抱えられた三毛猫。後ろ足の間に綿を固めたような尻尾がある。妖気さえなければ見逃してしまいそうなほどの立派な綿毛だ。あの中に二本の尾があるとは思えないような綺麗な丸。

 つい尻尾に集中していたようだ。少し離れた上方から、ふ、と息がもれる。

 訝しげに顔を上げた千枝に直幸は目を細めた。片手で猫を抱いて、空いた手を千枝の頭にのばす。


「どこを歩いて来ましたか」


 その言葉と直幸の手のひらに乗る桜の花弁。

 環も直幸の手のひらを覗きこみ、首をひねている。

 千枝は気まずげに目線を外した。

 店から、今いる公園までそう遠くない距離だ。その道に桜は生えていない。桜の花弁を頭につけるのは、余程風の強い日か、違う道を通ったかの二択だ。

 千枝は何も言わず、二人に背を向けた。置いていた風呂敷の上に壊れた守りをのせる。環と直幸の談笑を背中で聞きながら細く息を吐いた。


 まさか、人様の庭を乗り越えて走り抜けたなんて言えるはずがない。


 なぐさめるように春のやわらかい日差しがギヤマンをきらめかせた。


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