仄暗い汲取式の底から

脳幹 まこと

仄暗い汲取式の底から


 人の薬指についている輪を見て、猛烈に吐き気を催した。

 辛うじて手頃な道端にドロドロになった牛丼を吐き捨て、俺はコンビニにいって、液状の精神安定剤を3、4本買った。喉越し爽やか辛口9%のそれは、俺に途方も無い期待と不安を与えてくれる。宙に浮いて、ぶち撒けたい欲求に駆られてくれる。

 家につくと、部屋の灯りをつけて、声をかける。シンとしている。死んでいるようだ。冷え切った関係、冷たくなってる。


「ベティイー、ベティイー、俺にはお前しかいないんだ。見せておくれ、可愛いお顔を」


 俺はボールプールをかき分けるように、レジ袋やかびたシャツや、虫が居付く三日前のミートソースパスタをどかして、最愛のやつを探す。

 かくれんぼが得意のようだ。彼女を見つけるのに三十分かかった。隠れるのがどんどんと上手になっている。成長するのは望ましいことだ。まさか、シンクの中で油まみれの皿と戯れているとは思わなんだ。

 ギルティーでキュアキュアな、小さな女児、または大きな男児向けのソフビ人形、それがベティイーだった。

 俺はそれの体じゅうをひとしきり撫で回し、舐め回す。そろそろ洗濯しないと、流石に臭ってきたか。しかし、生物というのは臭うものだから、大して困らないのかもしれない。

 俺は胡座をかいて、それからマスをかいた。それをベティイーにかけた。彼女の注意書きにも特に書いてなかったし、問題はないだろう。ベティイーの顔が心なしかこわばって見えた。

 そんなベティイーを竿に寄りかからせて、精神安定剤を開ける。プシュッという心地の良い音がして泡が吹き出す。


「ベティイー、お前の細い薬指にはまる輪はあるものだろうか。もしあったら、契約の証につけてやりたいな……」


 周りのペットボトルにはこげ茶や濃黄色、赤褐色の液体が入っている。億劫さを感じてしてみたが、一度やると存外に癖になる。抜け出そうと思ったが、抜け出す特別な理由もないので、続けている。

 テレビをつけると、ハハハという笑い声が聞こえる。耳障りと思い消そうとするが、そういえば随分前から音が出なくなっていたのだったことを思い出す。

 精神安定剤を摂取する。精神が安定する。期待がやってくる。そう、俺はベティイーと結婚するのだ。それが人生設計になっているのだ。恋愛に歳は関係ないらしいのだ。四十代でも良いのだ。ベティイーは見た目、小学生か中学生のように見えるのだが、まあ、良いのだ。恋愛には全てが許されるのだ。

 そして、その内、精神が安定する。すなわち、期待の分の帳尻合わせとして不安がやってくる。

 俺は何をやっているのだろう……



 物心ついたときから、俺は汲取式の底にいた。

 真っ暗で臭く、何よりも不衛生だった。汚れが全身を取り囲み、へその緒を通じて胎児だった俺の体内に入る。

 俺は狭く苦しい中で、ウンウンと公園にいる爺さんみたいに頭を振り回し、唸るしかなかった。避けられるわけもなく、顔面にゆっくりと便が塗りたくられた。外に出た俺はとびきり泣いた。強い喜びとより強い悲しみによって、泣かされた。

 喜び。糞みたいな色した黒い腹の中から抜け出たこと。悲しみ。汲取式の中に生まれ落ちたこと。

 貧乏、いじめ、浪人、リストラ。別に嫌ってわけじゃなかった。ただ摩耗し、麻痺し、何も感じなくなっていくだけだったのだから。

 糞尿仲間は幾つかいたが、彼らは本格的に駄目になるか、駄目から解放された途端、自分のことを忘れて俺のことを駄目だと諌めたりした。踏ん張ったところで出るのは糞だけだろうに。

 ひとしきりの悲しみは、両親が死んだことで消えたように思われた。俺はアルバイトをしながら就職へと動き出そうとした。それが確か二年前だったか。

 ほんの僅かの灯りを求めてさまよい歩いていたはずだ。それが古い公衆トイレにあるチカチカしてるボロの蛍光灯であっても、それは希望だったはずだ。

 あの仄暗い汲取式の底からコバエのように這い上がってきたのではないのか。

 もう、これ以上の不幸は訪れないのではなかったのか。


 一人前の幸せなんて贅沢なものを手に入れてはいけない、と母親は口癖のように伝えていた。

 第二、第三がやってきた。

 要するに親のツケというやつだ。葬儀場で、俺の知らない人達が「すまんねえ」と謝りながら、むしり取っていく様が今となっては面白エピソードだ。語る機会はもうないが。

 俺はケタケタと笑い、もぬけの殻から、ベティイーと一緒に飛び立った。もはや「人」という漢字は裂けるチーズのように、大切な一本の芯を二つに裂いている様子にしか受け取れなくなった。

 ゲラゲラと声がする。テレビの声が大きいな。ベティイー、リモコンで遊ぶんじゃない、それは玩具じゃないんだ。いい子にしていてくれ。

 精神安定剤の3本目が喉元を過ぎた頃から、横隔膜不可逆痙攣ジャックリが始まった。

 うぎぎっ、あくどい痙攣め、まだ俺から奪おうというのか。

 中学の担任は俺によだれかけを付けた。みんなが笑った。俺は何がなんだか分からず、同じように笑っていた。

 高校の担任は反面教師として俺を引き合いに出した。みんなが笑った。俺はみんなの為に教師を努めた。

 職場における俺は、余興だった。みんなが笑うために、俺に色々なことをさせる。俺は笑った。あまりにもおかしくて。

 ヒックヒック、脈打つようにしゃっくる。俺には再起の道がある。すべてを失ってもなお、明るい精神安定への道がある。一旦、清算しようというわけだ。罪の清算、詰みのご破産、お母さん。


「ベティイー、お前のせいだ、お前が悪いんだ、悪い、悪い、悪い、お前のような臭いやつがいるせいで、俺はまだあの汲取式の、中から出られないんだ」


 身なりを清潔にすることが、まず面接においては重要視される。

 俺はアイスピックでベティイーを突き刺した。

 その時、ベティイーの中から子供の頃に見た女児向けアニメのオープニングが流れ出した。母親の鼻歌も聞こえた。父親は新聞を読んでいる。もう二人ともいない。幼い俺はその時、番組をベティイーと一緒に眺めていた。もう彼女もいない。俺がペンチで彼女を捻り切ったから。

 俺は汲取式の底にいた。ヒックヒックと止まらない痙攣発作。俺は泡を吹く。しばらくすれば虫達がこぞってやってきて、写真を撮るだろう。

 ベティイーの首が「ハハハ」と笑った。


〜完〜

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仄暗い汲取式の底から 脳幹 まこと @ReviveSoul

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ