あたたかな朝に

“この場所”がのどこに存在するのか、実は僕にもよくわかっていない。ただ常は温度の感覚がなく、さざ波のような音が遠くに聞こえる静かな広場――そんな感じだ。


 自分の姿は確認できない。身体を覆っていた紺碧の鱗や長い角、そして空を自由に泳ぐための翼はもはや懐かしい記憶の中だ。残念ではないけれど、少し寂しいとは思う。


 僕は眠らない。彼――この身体の持ち主であるセイル・ホワードが眠ってしまっても、その気になれば僕の両眼は朝日が顔を出すまで夜空を見続けることもできる。退屈なのであまりやらないけどね。そういうわけで安全な野営地を確保できた夜は、僕も宿主と共に目を閉じることにしている。


『……』


 しばらくすると、意識の端に少しだけ温かさが差す。それが彼の目覚めの合図だ。今日の野営地は、比較的安全な森と野原の境界。明けはじめたばかりの空にはまだ、砂粒のような星々が薄く張りついている。健全な若者が目を開けるには少々早い時間だ。


「おはよう。セイル」

(……ああ)


 そっけない返事が、少しの反響を伴って僕へと届く。彼が僕との会話を成立させるためには、実際に声に出さなければならない。姿なき友人と会話することが人前でどんなに奇異に映るかは散々説明したのだけど、彼は気にしていないようだった。


「まだ起き出すには早いんじゃないかい? 次の町へはゆっくり進んでも昼前には着くだろうし、たまには朝寝坊も気持ちいいものだよ」

(そうかもしれないが……)

(ホワード! まだ寝ていたのか、鍛錬の時間だぞッ!)


 寡黙な友人が答えを寄越すよりも早く、きびきびとしたよく通る声が割り込んできた。宿主がのそりと身体を傾けると、僕の視界も回る。自分の意志で視界は自由に動かせるけど、基本的には彼の見ているものを僕も見るようにしている。


(テオギス殿、おはようございます! 早朝からお騒がせし、申し訳ありません。ホワードを借ります)

「うん。おはよう、リン」


 礼儀正しく会釈する金髪頭の若者を見、僕はにっこりと笑んだ。もちろん自慢の長い口もないし、声も直接は届かないのだけど。それでも若き王国騎士は活気に溢れた精悍な顔を上げると、少し咎めるように目を細めて僕の友を見る。


(鍛錬前に身体を温めておけと言ったではないか。怪我に繋がるぞ)

(竜人にそんなものは必要ない。それに、今日は鍛錬はしない)

(なッ、何だと!? 何故だ)

(朝寝坊したい。賢者もそうしたほうがいいと言っている)

(う……。まあ、テオギス殿がそう仰るなら、貴様にも休息が必要なのかもしれんが)


 樹の根元にごろりと横になった友を見、リクスンは太い眉を悔しそうに寄せた。僕がくすくす笑いながらその様子を見ていると、暖炉の火に薪をくべたように少しだけまた周りが温かくなった――友はこのやりとりを悪くは思っていないのだ。


 やがて一人で鍛錬に向かう騎士と入れ替わるようにして、次の若者が顔を出す。こちらは鈴を転がしたような明るい声だ。


(おはよう、お兄ちゃん! テオさんも)


 おやおや、先ほどの休養宣言はなんだったのか。かわいい妹の顔を見た瞬間、宿主は大きな身体を軽々と起こした。僕もひとり、この届かない場所から朝の挨拶を律儀に返しておく。


(朝メシか。エルシー)

(そんなわけないでしょ。あたしも今起きたとこ)


 ふあ、と出かかった可憐なあくびを上品に噛み殺し、若葉色の髪を持つ少女はきょろきょろとあたりを見回した。


(と、ところで……こっちにリンさん来てなかった? お兄ちゃんと鍛錬するって昨日言ってたんだけど)

(断った。今はひとりで剣を振っているだろう)

(ええーっ! せっかく軽食持ってきたのに……。何も食べないで朝からあんなものブンブン振ってたら、お腹減るだけじゃ済まないわよ。まったくもう)


 よく見れば、彼女は後ろ手に小さなバスケットを抱えている。突如ぐううう、と宿主の腹の虫――王都広場の大鐘が打つものより大きな声を出す――が鳴き叫び、僕の意識体を揺さぶった。視界の中に、ぬっと逞しい木こりの腕が現れる。


(オレが食う)

(だ、だめっ!)

(何でだ)

(だって……これでミントベリージャムのサンド、最後だし。また材料が手に入るまで、作ってあげられないんだもの)


 頬を赤く染めてぼそぼそとこぼした少女を見つめたまま、彼女の兄である男の視界がコテンと傾いた。鈍感な親友に、僕は思わず小声になってささやく。


「セイル。そのサンドは確か、リンの好物だよ」

(……。だからって、なんでオレが食うのはダメなんだ)


 不満げに返ってきたその言葉に、僕はとうに消失したはずの肩をすくめた。その間にエルシーはバスケットを守りながらじりじりと後退し、いつもより早口になって別れの挨拶を飛ばす。


(じゃあえっと、あたし朝食の準備があるから! 鍛錬行かないならお兄ちゃん、他のみんなを起こしてきてよ)


 そう言い残し、妹は風のように野原を駆け降りていく。しばらく腹の虫を鳴かせるままに呆然としていた宿主だったけれど、ようやく重い腰をあげて言った。


(なんだ、アイツ……)

「難しい年頃なのさ、兄君」

(オレはサンドの具材にこだわったことはないぞ。腹に入れば皆一緒だ)

「君はいつまでもそのままでいてね」


 僕が笑いを堪えながらなんとか返すと、木こりは蒼い髪をくしゃりと掻いて歩き出した。


(ほぇ、もう朝っすかぁ? まだ寝てたいっす……)

(んんーっ、アタタ、肩凝ったわぁ)


 少し離れたところで、大きな切り株のそばに転がっていたタルトトと師匠せんせいに声をかける。


(おはようございやす、旦那。賢者さまも)

(おはよ、セイちゃん。テオギス)


 二人ともゴキゴキと肩を鳴らしつつ、少し隈の残る目をこすりながら遅めの挨拶をしてくれた。無言でうなずくだけの宿主の反応にも慣れたもので、二人とも大きなあくびをしている。


 オレンジ色のくせ毛の下で、獣人の黒い鼻がひくひくと動いた。


(んん、良い匂いがするっす。今日はきっと、昨日のシチューのアレンジっすね。あっし、くるみパンつけて食べようっと)

(それ良いねえ。何も敷かずに寝ちゃったから、身体あっためたいわぁ)

(おい。この芋虫はフィールーンか?)


 さっそく野原を下ろうとしていた細長い背を呼び止める。友の太い指は、切り株に突っ伏して丸くなっている毛布の塊を指していた。端っこから、見覚えのある黒髪が何束かはみ出している。


(あー、うん。ギリギリまで寝かしておいてあげて。昨晩はかなり気合が入っちゃってたから)

(ずーっとカリカリ何か書いてましたもんねえ。あっし、夢の中にまでその音が追ってきて……参りやしたぜ)


 尻尾を抱きしめて言うタルトトにうなずき、セイルは切り株の横に腰を降ろした。このやりとりの間も我らが王女はピクリとも動かず、まさしく芋虫よろしく毛布に包まれたまま眠っている。


(ああそうだ、テオギス)


 野原へ一直線に駆けて行った商人についていこうとした元師匠――アーガントリウスがこちらに振り返る。ヒト姿をしてはいるけど、実は僕と同じ竜族だ。しかもこの麗しい見目に反してかなりのじじ……ご高齢でもある。


(フィルは起きたらすぐに“マゴットモメットの法則”について質問してくると思うけど、答えないでいいからね)

「へえ? どうしてだろう」


 僕の疑問をそのまま親友が橋渡ししてくれると、かつての魔法の師は苦笑して言った。


(そりゃ、“学びすぎ”だからよ。しばらくは遊びのターン。魔法使いの心は、ただの黴くさい書架じゃない。いつも風を通しておかないとね)


 気障ったらしいその物言いはとても懐かしい。過去には僕も、この気分屋の大魔法使いの元で多くのことを学んでいた。のちに妻となる、美しい白竜と共に。


「ずいぶん優しい育て方をするじゃないか。あんなにスパルタ教育だった彼がねえ……時代の流れを感じるよ。あ、今のは伝えなくていいからね」


 律儀に伝言しようとしてくれていた友が、不思議そうに口を閉じるのを感じる。その間に師匠はひらひらと手を振り、優美なローブの裾をはためかせて行ってしまった。


(うう……ん)


 もぞもぞと毛布の塊が動き、眠気を存分に含んだ声が漏れる。切り株の上には羊皮紙やペンが散乱していた。その熱心な記述を見、僕は同じ魔法使いとして彼女の努力に敬意を送る。なるほど、あれほど魔法が上達するわけだ。毎日の旅路だって誰もがくたくたになるほど大変なのに、彼女は夜も学び続けている。


(起きたか。フィールーン)

(せ……いる、さん)


 絡みあった黒い前髪の下から、一足早い青空が覗く。美しい風信子石ジルコンを思わせる瞳は、今は亡き母君から継いだものだ。ようやく焦点があったらしく、王女フィールーンはがばっと身を起こして辺りを見回す。


(あ……あれ? もう朝っ!?)

(そうだ)

(私、昨夜は先生やタルトトさんと一緒に勉強していて……お二人が寝てしまったので、せめて月が頂点に届くまで続けようと思って……あれ?)

「ふふ。ずいぶんと駆け足で行ってしまったんだね。昨晩の月は」


 もちろん、こんな冗談を返す友ではない。彼は常の寡黙さで、寝癖を必死に押さえている彼女を見ているだけだった。ついでにまた僕の住処に温かな熱がもたらされたけれど、これは伝える必要はないかな?


(すっ、すみません。すぐに片付けて……あっいいえ、朝食の支度を手伝ったほうが良いでしょうか)

(焦るな。寝れるだけ寝ておけと、お前の師匠が言っていた)

(そんなこと――ああっそうだ! 私、テオ様に教えていただきたいことが)

(“マルットモルットのなんとか”のことなら、今は学ぶなと)


 一瞬きょとんとした王女だったけれど、いつもの聡明さで友の意図を読み取ってくれたらしい。照れたようにインクのついた頬を掻いて呟いた。


(そう、ですね……。私、急ぎすぎているかもしれません。早く先生や、テオ様に追いつきたくて――あっ)

(今度は何だ)

(私、朝のご挨拶をしていませんでした)


 王女はぴんと背を伸ばし、跳ねた黒髪の中で花のように微笑んだ。


(おはようございます、セイルさん。それにテオ様。今日も安全で、素敵な旅になりますように)





“この場所”には美味しそうな朝食の香りも、清浄な朝の空気も届きはしない。


(あーっ、旦那! あっしが確保してたパイ、とったでやんすね!?)

(オレじゃない。この香辛料はテオの好物だ)

(すんごい言い訳だねえ。てかアイツ、味分かんの?)

(知らん。だが、食うと喜ぶ……気がする)

(そ、そうなんすか!? じゃあ、あげるっす! 賢者様に貸しを作っとくのは悪かねぇんで。へへっ)


 それでも友と――友たちと共に、僕はまだ生きている。


(リンさん、良かったらどうぞ。ミントベリーのサンド)

(おお! 俺の好物ではないか。あまり数は無いようだが、良いのか?)

(じ、ジャム、それで最後だから……)

(何!? では是非とも姫様に召し上がって頂かねば――)

(あなたが食べればいいじゃない! 好物なんでしょ!? じゃないともう一生作ってあげないから!!)

(どういう理屈なのだ!?)


 彼らの横に座っているわけではないけれど、たしかにそばにいる。どこかの書物で、“死は凍えをもたらすばかり”という記述を見かけたけど、あれはたぶん著者の想像だったのだろう。


(わ、私ももうひとつ、ミツマタニンジンのピクルスを頂いて良いですか!?)

(どうした。今朝はいつにも増して食うな。フィールーン)

(私じゃないです。ルナの好物だったので……喜んでくれるかなって)


 だって――こんなにも、“この場所”は温かいのだから。今は王女の中で深く眠っている妻も、きっとそのうち目を覚ますだろう。彼女は寒がりだったしね。


 だから今は、この朝を楽しもう。



(うまいか。テオギス)

「もちろん最高にね。親友よ」





–あたたかな朝に 完–


ドラ嘘2周年な近況ノート(イラストつき):https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330650058360189

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