地獄を否定していたら鬼たちに鬼に改造された話(巻之三「鬼谷に落て鬼となる きこくにおちておにとなる」)
家は富み栄えて不足というものがなかったので、孫太郎は耕作や商売などの常人の生業は気にもかけず、ただ儒学を好んで、わずかにその片端を読んだだけで、儒学にまさるものごとはないと考え、学に通じない人をみてはものの数とも思わず、読み書きのできる人をみても、自分にはおよばないだろうと軽くみて慢心していた。
あまつさえ、仏法をそしり、
「人は死ねば、
美食に飽き、小袖を着て、妻子と豊かに安楽に暮らすのが仏だ。
粗食で腹が満たされず、麻衣
人の家の門前に立って、声高に物を乞うて、残飯を喰って汚いとも思わず、石を枕に草に臥せて、雪が降っても
罪を犯して牢獄にいれられ、縄にかかり、首をはねられ、身を責められ、骨を砕かれ、あるいは水責め・火あぶり・
これ以外にあとは何もない。
目に見えない来世のこと、真実でもない幽霊のこと、僧・法師・
このように云い罵り、たまたま諌める人がいると、
当時のひとびとは、彼を
あるとき、孫太郎は所用があってただ一人
河原をひろく見渡せば、人間の白骨がそこかしこに散らばり、水の流れはものさびしい。日も暮れ果てて四方の山々は雲に覆われ、立ち寄れそうな宿もない。
どうしようかと途方に暮れていたところ、北の山際に少し茂った松林をみとめた。
そこにわけいり、樹の根をよりどころにして、少し休んでいると、
左右をみれば人間の死骸が七つ八つ、西枕だったり南に頭を向けたりで転がっている。
ものさびしく吹きつける風にまぎれて小雨も降ってきて、
ト、倒れ臥していた死骸が、いっせいにむくりと起き上がり、孫太郎めがけてよろめき近づいてきた。
おそろしさはかぎりなく、松の木にのぼって逃れると、
「今宵のうちにこやつを獲ってしまおう」
といいあっている。
そのあいだに雨は降りやんで夜空は晴れて、秋の月が冴えてかがやき出した。
そこへ突如ひとりの
肌は青く、角をはやして口は大きく、髪を乱し、両手で尸をつかむや、首を引き抜き、手足をもいで、瓜をかじるように喰いはじめた。
そして、飽くまで喰らうと、孫太郎のいる松の根を枕にし、地に響く高いびきで寝始めた。
「この夜叉が眠りからさめたら、きっと
そう考えて、孫太郎はしずかに木から降りると、急ぎ足で走ってにげた。
夜叉はこれに気づいて目をさまし、すぐに追いかけてきた。
孫太郎は逃げるうち、山のふもとの古寺にたどりついた。
「たすけたまえ、我を救いたまえ」
孫太郎はそう祈ってから背後に回れば、仏像の背中に人が入れる穴があるのを発見した。そこから中に入り、仏像の腹の中にこっそり隠れた。
後を追ってきた夜叉も堂内に駆け入ってきて、あちこち探していたが、仏像の腹の中にいるとは思わなかったのだろう、諦めて去っていった。
ほっとしたのも束の間、孫太郎を内蔵した仏像が足拍子を踏みはじめ、腹を叩きだした。
「夜叉はこの人間を求めてとりにがし、我はもとめずしておのずと得たり。今夜のおやつにしよう」
と鼻唄まじり、からからと笑い、堂から出て歩いていく。
が、道先にあった石につまずき、はたと倒れて、仏像の手足は砕けてしまった。
「己を喰おうとして、災禍をその身にこうむるとは、人を助ける仏として結構なことだな」
孫太郎は穴から出ると仏像をののしった。
堂より東に進めば、野の中に灯火が輝き、人が多く座しているのがみえた。
これに力を得て走って近づけば、首のないもの、手のないもの、片足のないものといった異形どもが、みな赤裸で並んで座っているではないか。
孫太郎は肝を消して、そのなかを走って通り過ぎようとしたが、
「我らの酒宴に、興醒めするようなことは許せぬ。捕らえて酒の肴にしてやろう」
異形ども一同は立ち上がって追いかけてきた。
孫太郎は山際にそって走って逃げれば川にいきつき、流されつつもなんとか渡りきって、河原を駆け上がれば、異形どもはくやしそうに対岸にいる。
足にまかせてさらに歩くが、異形どもの大声でののしる声がなおも聞こえ、身の毛もよだち、生きた心地もしない。
月はすでに西にかたむき、暗雲がたちこめている。
半里ばかり進んだところで、草の茂った山間にいきかかったが、石につまずいて穴に落ちてしまった。
「なんと深い穴だ。百丈はあろうか」
孫太郎はそう思いながら落ちていった。
ようやっと穴の底につけば、
明かりを頼りに周囲をみめぐれば、そこは鬼が集まり住んでいる場所であった。
赤い髪に両角が火のように燃えている鬼、あるいは青い毛を生やして翼のある鬼、または鳥の
彼らは孫太郎をみて、口々に云った。
「これはこの国の障りとなる者ぞ」
「取り逃がすな!」
「捕縛せよ」
孫太郎は
鬼の大王は憤激して、
「汝は人間にあってみだりに舌先三寸を動かし、唇をめくり、『
汝は書典を常に勉強しているはずである。
中庸にいわく、鬼神の徳それ盛んなるかなと。
論語にいわく、鬼神を敬してこれを遠ざくと。
そのほか
ただ『
そして
鬼の王はさらに、
「こやつの身の丈を高くしてやれ」
と指示すれば、鬼どもが集まってきて、孫太郎の首から手足まで引き伸ばし、にわかに身長が三丈ほどの、竹の竿のようになってしまった。
鬼どもはこれをみてどっと笑う。
押したてて歩かされた孫太郎は、竹竿のようなひょろながい身体であるから、ふらついてばったり倒れた。
「こやつの身の丈を短くしてやれ」
鬼の王がまた指示すれば、鬼どもは孫太郎を団子のようにこねて丸めて、平たくのばしたので、足を横に広げた格好で背丈が短くなった。
またも突きたて歩かされるが、まごまごとして蟹のようである。
鬼どもは手を打って大いに笑いあった。
ここで年老いた鬼が出てきて、
「汝は常に鬼神をないものと云いふらし、ものの道理をやぶらんとした。これがゆえに、今すがたかたちを長くひきのばされたり、短くつぶされたり、さまざまになぶられもてあそばれ、大いに屈辱を味わうこととなった。まことに不憫であるから罰をゆるめてやろう」
孫太郎の手をとり、ぶうんと振り回せば、元の姿に戻った。
「さればこれより人間界へ帰すべし」
老鬼がそう云ったが、ほかの鬼どもは、
「ただこの者を帰してもおもしろくない。はなむけに何かあたえてやろう」
と云いだして、鬼どもおのおの、
「我は
双角を孫太郎の額につけてやる鬼もいれば、
「我は風にうそぶく嘴をあたえてやろう」
鉄の嘴を孫太郎の唇に押しつけ、
「我は
「我は
青い
鬼どもに送り出され、孫太郎は穴から出て、家に帰ろうとまた歩き出した。
今津川原にさしかかり、川面に映った己の姿をみれば、雲路を分ける双角が額から突き出て、風にうそぶく嘴はとがり、朱に乱れた髪は逆立って燃え上がるよう、碧に光る眼は
熊川の自邸へ帰り、家に入れば、妻も
「これこれのことがあって、このような姿と成り果てたが、己の心は今までと変わるところはない」
孫太郎は涙を流し、これまでのことをみなに語った。
妻はこの有様をなかなか直視するのも難しく、嘆かわしく悲しいと、彼の頭の上から
幼いこどもたちは彼を恐れて、泣いて逃げ出した。
近隣のひとびとは見物に集まっては、手を打って好奇のまなざしをむけた。
孫太郎も物憂く思い、戸を閉じきって人にも会わず、ものも食わずにひきこもり、悩乱して患いつくと、遂に世を去った。
その後、蜂谷の家では、時折もとの姿の孫太郎が幻のようにあらわれ、邸の周囲を歩きまわるのが目撃されたが、彼のために仏事をいとなむと、二度とあらわれなくなったとのことだ。
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