螺旋師
たなかあこ
螺旋師
エンは孤児で、十二歳で螺旋師に弟子入りした。
「弟子になりたいと言ってきた人間は、君がはじめてだ」
孤児院の先生に連れられてアトリエに赴き、開口一番螺旋師にそう言われた時、嘘だろう、とエンは思った。高名な螺旋師のこと、とうに何人も弟子がいて、自分など相手にされないに違いないと尻ごみしていたのだ。
だが螺旋師はこれ以上ないほど快くエンを受け入れた。
「そうかそうか。私にもついに弟子ができたか」
と、鼻歌まじりに独り言を呟くと、早速エンの居場所を即席でしつらえた。テストさえ、されなかった。
螺旋師の仕事を一言で何々の職業と限定するのは難しい。
ある時は建築家、ある時はオブジェ作家、ある時は生物学者、そしてまたある時は理論家の顔を見せる。
共通するのはどの分野に関わるにせよ、必ずその中心を螺旋が占めている、ということだ。
エンは孤児院の図書コーナーで螺旋師を知った。色褪せたピンクの表紙をした、カバーのない本だった。中は図版が多く、文字を覚えたてのエンも、面白く読むことができた。
ありとあらゆる螺旋がそこにあった。
柱、階段、巻き貝、DNA、バベルの塔、螺子、台風、蝸牛。中心に向かって巻いてゆくもの、棒状に伸びてゆくもの、大きなもの、小さなもの、カラフルなもの、繋がって輪になるもの、二重螺旋……。
エンはたちまちこの謎めいた一群の形に魅了された。毎日、暇さえあれば図書コーナーに籠もり、ピンクの表紙を膝に抱え、どこに何の螺旋が載っているか暗記するまで、繰り返し読んだ。食事や寝る時間がきて本を返す必要に迫られると、名残惜しさに限界までぐずぐずした。
ページを閉じる前、必ず最後に眺めるのが、巻末に掲載された著者近影だ。
螺旋師は口髭を生やした痩せた中年男だった。リボンが螺旋状に巻きついたシルクハットを被っていた。たっぷりした黒い口髭は、先が鋭いコイル状に捻られていた。
ややこしい実名は小さく隅の方へ追いやられ、『螺旋師』の肩書きだけが、誇らしげに大きな活字で印刷されていた。
今、実物の螺旋師を前にして、彼が写真と寸分も違わないことに、エンは驚きを隠せない。
髭の形、シルクハット、眼光、まるで時が止まったかのようだ。
写真はモノクロだったが、本物は色がついている。シルクハットのリボンは、ビビットなカッパーイエローだ。
アトリエでは様々な生物を飼っている。常時いるのは蝸牛と巻き貝とスピロヘータ。ヤドカリが巻き貝を背負うこともある。
一度、エンがうっかり触って感染してしまい、スピロヘータを飼わない時期があった。
酷い自責の念にかられたエンは、必死にお願いして、再びアトリエにスピロヘータが棲まうようにしてもらった。
自責の念のせいばかりではない。エンはスピロヘータが好きだった。肉眼で捉えられない世界の表面や隅っこで、精緻な螺旋状の体を震わすように回転させて活発に動く、この小さな生き物が好きだった。
顕微鏡の窓から覗いていると、自分も細長い螺旋の体となって、元気に回転したくなった。
ネコザメの卵も好きだ。
中国の餃子によく似た顔をしたこのサメが産む卵は、およそ自然が作り出したとは考えられない、見事な螺旋形をしている。ちょうど掴みやすい大きさで、真っ黒で、艶々としていて、完全に人工的な金属のドリルを思わせる。
いつもというわけではないが、知人の潜水夫が捕獲するたびに持ってきてくれ、アトリエの出窓に据えた水槽で海草とともに揺られている(ただし、一度も赤ちゃんサメが孵化したことはない)。
「どうして右巻きばかりなんだろう」
昼食のフジッリを食べている時、ふと気付いてエンは呟いた。
アトリエにいる巻き貝も、蝸牛も、ネコザメの卵も、皆右巻きの螺旋を持っているのだ。
そういえば、螺旋師が作る螺旋の造形も、すべて右巻きだ。
「螺旋を持つ地球生物の九割は右巻きだ。左巻きはめったに生まれることがない」
螺旋師は口髭についたケチャップを拭いながら言った。
スピロヘータのように巻いたパスタのフジッリは、エンが弟子入りして最初に作った螺旋形だ。エンがはじめてこれを作り、チーズを絡めて料理にした時、螺旋師は
「ブラボー! エクセレント!」
と、最大級の賞賛を惜しまなかったものだった。
「左巻きは神聖なものなのだ。エン、こっちに来て見てごらん」
螺旋師はデスクのパソコンを立ち上げた。
「これは、シミュレーションだ。相対性理論や宇宙の開き具合を設定して、右巻きの螺旋がどこまで遠くまで伸びてゆけるかを計算してる。見ていてごらん」
螺旋師はシミュレーションを開始するエンターキーを押した。
地球のこの場所を出発点に、黄緑色に輝く右巻きの螺旋が、太陽系を超え、銀河系を超え、事象の地平面を超え、くるくると伸びてゆく。
「戻って来た」
エンは驚いて声をあげた。
「そう。戻って来るのだ」
神妙な顔をして螺旋師が言った。
「明確な理由は不明だが、ユークリッド幾何学的にどこまでも直線に沿って伸びているはずなのに、どういうわけか戻って来る。解析すると、どうも右巻きの螺旋は、どこかで自身と相似形の左巻きの螺旋と出会い、その結果戻って来るようだ」
愛おしそうに、戻って来た螺旋の軌跡をそっと指先でなぞりながら、螺旋師は言った。
「もっとも、左巻きの螺旋でやってみても、同じ結果に落ち着く。だが、地球の螺旋生物のほとんどが右巻きである理由は、未だに一つとしてわかっていない。大いなる謎なのだ」
その夜、エンは深海の底に沈むひとりぼっちの右巻きの巻き貝だった。
大好きな友達の巻き貝は、左巻きだったので、会話ができずにエンのもとを去ってしまったのだ。
他に友達の姿は見当たらず、エンは孤独だった。辺りは真っ暗闇で何もなく、白いマリンスノウばかりが、ちらちらと降っている。
目が覚めると、夢の内容は忘れてしまったが、深海の景色とやり場のない孤独感だけは、いつまでも胸の底にぽっかりと居座っていた。
いつしか、エンは螺旋に恐怖を覚えるようになっていた。
螺旋に触るたび、勝手に心臓が早鐘を打ち、脂汗が噴き出た。あれほど魅了された存在に怖れを抱くなんて、自分で自分が信じられなかった。僕は螺旋師の弟子だ。いつかは螺旋師を継ぐ者だ。つまり螺旋は僕のすべてのはずだ。こともあろうに、その僕が螺旋を怖れてどうする。そう自分に言い聞かせたが、恐怖心は日に日に募っていった。
そしてそれは、スピロヘータに感染した時以上に、激しい自責の念をエンの胸に抱かせた。
「ええい……。駄目だ、駄目だ」
螺旋師もまた、かつて経験したことのないスランプに陥っていた。
冬季万博の記念塔がコンペで当選したのはいいが、そのデザインに自分で納得がいかないのだ。
「螺旋の塔は、もっと、こう、どこまでも伸びてゆかねばならんのだ。こんな中途半端なことでは、いかん」
それは、本当は螺旋師がこれまでもいつもぶつかっていた問題だった。
理想としては果てなく伸びていってほしい螺旋が、現実にはどこかで見切りをつけ、途中で分断せざるを得ないのだ。
この難題を解決するため、両端を繋げた螺旋のオブジェを作ったことも過去にはあった。が、塔では環状にするわけにもいかない。螺旋師は懊悩した。
「巻き貝だって蝸牛だって、限られた長さの螺旋を持っているよ」
とエンが慰めても、無駄なことだった。
螺旋師の不機嫌をよそに、施工は着々と進められた。
塔の完成には期限があり、コンペで一度受理されたデザインを、設計者が気に食わないからといって大きく変更することはできない。主催者の市長も、コンペで審査にあたった先生たちも、塔のデザインにはおおいに満足していた。
「風が吹いてきたね。雪が舞ってる」
落成間近のその日、天気予報は吹雪だった。現場監督の螺旋師は天候をみて、先に大工や関係者たちを帰らせた。
「塔は持ちこたえるだろうか」
刻々と強くなってくる風にエンは不安になった。
予報では吹雪は激しくなる模様で、複数の注意報と警報が出ていた。
塔は細く、高く、お世辞にも耐風構造に優れているとは言えない。
壁一面に砕いた貝殻が敷き詰められて虹色に輝いているが、その分どこか儚げで、いまにもぽっきり折れてしまいそうに見える。
当の螺旋師が少しも心配そうにしていないことが、なおさらエンを落ち着かない気分にさせた。
螺旋師の表情は、塔を信頼して事に構えているというよりは、いっそ壊れてしまえば清々するのに、と言わんばかりだ。
その時、突風が吹き、塔の入口に立っていたエンと螺旋師の体が浮き上がった。
雪混じりの風は、扉から建物の中へ勢い良く吸い込まれ、螺旋の構造に沿ってくるくると巻きながら、天窓の色ガラスを突き破って、そのまま空高く吹き抜けていった。
エンと螺旋師も塔の中を舞い上がった。
抵抗する間もなく、風と同じ軌道に乗った。雪がその軌跡を描いて見せた。
螺旋の白い柱は、塔を抜けてなお、遠くどこまでも続いてゆく。
「先生、行かないで! いや僕も行きます!」
エンは必死に叫んだが、しがみついた途中の梁から手を離すことができなかった。
猛スピードで飛ぶ、結晶した礫の群の先に、体を大の字に広げて宙を回る師匠の姿が見える。
「心配には及ばない。私は戻って来る!」
螺旋師は嬉々として天辺を抜けた。
「ブラボー! エクセレント!」
螺旋師の笑い声が、カラカラと木魂し、渦を描きながら空の彼方へと遠ざかっていった。
螺旋師 たなかあこ @sosokan
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