翁先生がそう仰るなら。

坂田ノ大郎女

第1話 背広

 一体いつから、私は「私」になったのだろう。

 窓の外を流れては消えていく景色を眺めながら、呼子ミナミは考える。


 まるで私は、「私」という型の中にぎゅうぎゅう押し込められて出来たモノみたいだ。


 そんな呼子の脳裏に浮かんだのは、透明なゼリー状の物体が、クッキーの型の中に流し込まれては湧き水のように溢れ出す映像だった。


「ゼリーはクッキーじゃないのに」


 言葉は声となって口から漏れた。


 電車内の幾人かはそれを聞き取り、呼子を見た。

 しかし、呼子の視界には、そんな人等のことは映っていなかった。


 ただ、流れては消えていく、車窓の景色だけを見ていた。……



 *



 アナウンスと共に電車を降りると、風の冷たい匂いが鼻の奥に沁みた。

 4月と言えども、北方の地は冴え冴えとしていた。

 市町村こそ違えど、18年間をこの地で過ごしてきた呼子には、この冴え渡る匂いこそが春の証だった。

 前日の雨で、駅前の道には水たまりができていた。

 不安定な雨の匂い、それもまた春だった。


 バス停でバスを待つ。

 列の中には目的地が同じであろう、似合わないスーツを着た人等がまばらに見えた。が、呼子の関心事ではない。

 呼子は、バス停のベンチで眩しそうに目を細めながら朝日に向かう、カエルを見ていた。


(小さいカエル。 緑の背広が良く似合う)


 呼子は昔から、生き物が好きだった。人間に興味を示さない代わりに、動植物への関心は人一倍ある。


 やがて、定刻にバスがやってきた。列はぞろぞろと軍の行進のように進み始めたが、呼子だけは、カエルを見て立ち止まっていた。

 そんな呼子を、堆積物よろしく列は避け、ひとつの川の流れになった。

 流れから外れた呼子を残して、バスは風を切り走り出した。

 暫時は身じろぎ一つせず、カエルと自分の世界に没入していた呼子も、静まり返った外部の世界に気が付いた。


「入学式……遅刻だ」






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