飲中八仙歌

 真備から玄昉との会話を聞いた真成は、彼らの話に大いに納得した。この頃体調が優れないのは、どうやら夢に出てくる瘴気のせいらしい。

「ああ、本当に有り難い。私なんぞのために、貴君らが気を配ってくれるとは」

「礼などいらぬ。貴君には是非とも、無事に国へ帰って欲しいのだ」

 真成は感謝の意を示して微笑んだが、直後に激しく咳き込んだ。その様子があまりに苦しそうで、真備はそっと彼に近づく。見たところ、彼は少し痩せてしまったようだ。明るい褐色の瞳も、どこか虚ろを向いている。

「くれぐれも、無理をするな。失せてしまっては、元も子もない」

「分かっている。だが、私は……」

 彼は眠れない夜を代償に、必死に学問に明け暮れた。それが自分の存在意義であるかのように、一心不乱に書物を読み漁った。

「……私は、負けてはおられぬのだ。悪夢なんぞに、負けてはおられぬ」

 同船の阿倍仲麻呂に、そして友人の吉備真備に、決して引けを取るわけにはいかない。彼の内に秘めた思いは、日に日に大きくなっていくばかりだった。


 それから三年も過ぎると、阿倍仲麻呂は玄宗帝の側近となっていた。職務の合間を縫って、久方ぶりに二人の前にやって来た彼は、身なりこそは違うものの、昔とは何ら変わらぬ様子だった。

「貴君は今や左補闕さほけつか。全く、素晴らしいことだ」

「なに、貴君らの話も聞いている。立派に学問を果たしたそうではないか」

 真備の賛辞に答えた仲麻呂は、都の重役であるにも関わらず、特に気取った素振りもない。待ち合わせに長安の食事処を指定するところも、気心の知れた友人といった風だ。

「ほれ、貴君も遠慮するでない。この料理は、病によく効くそうだ」

 食卓に載った大量の料理を指差して、彼は戸惑う真成に食事を勧める。唐では食事療法が流行しており、この店も薬味の扱いに長けているらしかった。

「しかし……、貴君の悪夢とやらは、一体どうすれば消え去るのか。私も多くの詩人に話を聞いてみたが、貴君のような夢を見た者は一人もおらぬと」

 仲麻呂はそうつぶやくと、真成の顔を一瞥した。彼は気丈に振る舞ってはいるが、唐に来たときと比べると、十分にやつれている。夢の中の瘴気が、現実にまで姿を現しているようだ。

「どうか、私なんぞのことは、気に留めないでくれ。これ以上、貴君らの骨を折るわけにはいかぬ」

「そうは言ってもだな……。我々も、貴君のことが心配なのだ。ともに国へ帰ることが、我々の望みなのだから」

 真備の言葉に、仲麻呂も小さく頷く。彼らにとって真成は、遣唐使である以上に実の仲間だった。

「その言葉だけで、最早十分だ。高貴な僧でも追い払えぬほどの悪夢なら、私が毅然と対峙するまでだ」

 真成はそれだけ言うと、琥珀色の薬酒を一気に呷いだ。悪夢さえも呑み込んでしまうほど、その動作は鮮明だった。

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