第3話 茅の輪くぐり

「パパ! こっち来て!」


 菊池さんが大学を卒業して一年すると、自分は結婚を申し込んだ。彼女の両親に反対されることもなく結婚し、次の年には元気な男児が生まれた。


「勇太。あまり走ると」


 そう言ったそばから勇太は前のめりに転んでしまう。下は芝生だが、痛かったのだろう。泣き出してしまった。


「大丈夫か、勇太。ああ、膝擦りむいちゃったな。洗いに行こう」


 勇太を抱き上げて、水道の方へと向かう。この日は家族で大きな公園にピクニックに来ていた。車で一時間ほど走らせた介があって、芝生も気持ちよく広がっている。子供のための遊具も豊富に置かれていた。


「痛いか」「痛い」


 靴と靴下を脱がせて水道で足を洗う。正直、これほど自分が子供の世話をするようになるとは思わなかった。疲れても家に帰ったら、まずは勇太を抱え上げる。それが自分にとっても癒しの瞬間になっていた。


「千世。絆創膏ないか。勇太が膝を擦りむいたんだ」


 勇太を抱えて、レジャーシートを広げた場所に戻ってくる。菊池さんは千世と名前で呼ぶようになっていた。


「あちゃー。持って来てないや。でも、うん。これぐらい平気、平気!」


 そう言って勇太の怪我している膝を叩くから驚きだ。結婚する前から性格は変わっていないが、以前よりも豪快さが増した気がする。


 その後、千世が作ってくれたサンドイッチを食べ、また勇太と遊びに飛び出す。アスレチックで運動したり、草地の坂道をソリで滑り降りたりした。あっという間に時間は過ぎ、夜五時前には帰る準備を始める。まだ遊ぶとぐずる勇太を車のチャイルドシートに押し込み、帰路についた。


 行きは一時間で着いた公園。しかし、帰宅ラッシュの時間と重なったせいか、中々進まない。それにしても、渋滞が酷い気がする。


「ああ。この先の神社でお祭りがあるみたい。それで交通規制があるって」


 千世がスマートフォンで調べてくれた。


「そうか。いまからじゃ回り道も出来ないな」


「ねぇ、せっかくだから寄っていかない? ほら、このまま帰っても着く頃には七時を過ぎるし。お夕飯も用意できていなしさ」


「どうする、勇太。お祭り行くか?」


 自分は振り返って、後部座席を覗き込んだ。


「行くー……」


 声はか細く、完全に睡魔に負けていた。


「まあ、歩いている内に目を覚ますでしょ」


 千世がくすりと笑って言う。この分だと、お祭りを楽しむのは大人たちだけになりそうだ。空いている駐車場を何とか見つけて、歩いて神社に向かう。もちろん、自分が勇太を抱えている。


 勇太は何とか目を開けている状態だ。本人としてもお祭りを楽しみたいのだろう。前に行ったときはまだ一歳ぐらいだったので、全く覚えていないだろう。


 もう少しで神社という所に来たときだ。


「あ。そうだ。私、コンビニ行って勇太の絆創膏買ってくる。先に行っていて」


 千世はもと来た道を戻って行く。


「じゃあ先に行こうか、勇太。もう、見えてきているぞ」


 勇太を少しゆすぶった。すると、勇太は目を開けて神社の方へと目を向けた。


 辺りはもう夜だった。賑わう人々、屋台の熱気、灯籠の幻想的な灯り。それは、日常から少しだけ離れた非日常。勇太の目には尚更、新鮮に映っただろう。眠気が一気に吹き飛んだ様子で、下に降りようと暴れ出した。


「じゃあ、手を繋ごうな」


 小さな手を握り、千世が来るまで夜店を覗き込んでいく。どれも勇太は珍しそうにしていたが、特に金魚すくいの所では子供たちがすくう様子をまじまじと見つめていた。


「金魚さん、欲しい」


「ママがいいって言ったら、いいぞ」


 金魚すくいをすると必ずおまけで一匹ついてくる。生き物を軽々しく飼うことは出来ないだろう。千世もそろそろ来るころだろうか。そう、思ったときだ。


「あ! 茅の輪があるよ!」


 誰かがそう言うのが耳に入った。背後を振り返ると、浴衣の女性たちが奥の方を見て話している。


「茅の輪ってなに?」


「知らないの? えーと、何かくぐるといいことがあるんだよ」


 違う。厄災を払うことや無病息災を願うんだ。


 でも、その願いは神様には届かないけれど――。


 くらりと眩暈がする気がした。当時の事故のことを思い出して、吐き気が襲ってくる。やはり、まだ自分は神様を許してはいない。


 どうしようか。千世に事情を話して帰ろうか。


「お父さん。お父さん」


 金魚すくいのおじさんに肩を叩かれた。


「大丈夫かい」


「あ。は、はい」


「それはいいんだけど、子供がどこか行ってしまったよ。止めたんだけどね」


 目線を下げると、勇太の姿はどこにも見られなかった。


「すみません。教えてくれて、ありがとうございます」


 すぐに探しに走る。


 欲しがっていた綿菓子の屋台。――いない。


 好きなキャラクターの仮面の前。――いない。


「勇太! どこだ、勇太!」


 声を張り上げて探すが、人が多く同じぐらいの年ごろの子供の多い。


「あの、あっちに一人でいる男の子がいましたよ」


 親切な女性が教えてくれる。入り口の鳥居の方を指さしていた。


 ありがとうございますと頭を下げ、すぐに向かう。そこに勇太の着ていた黄色いTシャツと緑の半ズボンの後ろ姿を見つける。見つかってよかった。


 その先からは千世が向かってきている。どうやら、どんな祭の屋台よりも母親の方がいいようだ。しかし、ホッとしたのはつかの間だった。


「勇太!」


 自分は再び叫ぶ。神社の前は車道になっていて、車が走っていたのだ。そこに勇太は歩いていく。向かい側にいる千世も気づき、顔を青ざめさせた。


「勇太! 待つんだ!」


 走る。間に合わない。もう勇太には母親の姿しか見えていない。


「わっ! ああああああ!」


 しかし、勇太が車にひかれることはなかった。その前に神社の砂利に足を取られて転び、泣き出したのだ。


「大丈夫か、勇太」


 自分は駆け寄り助け起こす。そこに千世もやって来た。千世は誰を責めることなく、勇太の頭を優しく撫でた。


「じゃあ、お祭り行こっか」


 勇太が頷き、親子三人で参拝へ向かう。その前に、茅の輪の列に並んでいた。


「茅の輪って言うだね」


 千世は見たことなかったようで、スマートフォンで茅の輪のことを検索している。


「厄災を払い、無病息災を願うか。あ、心の中でこれを唱えるといいって」


 液晶画面を見せてくる文言を自分は心に刻んだ。やがて、順番がやってくる。


「勇太、左回りからだぞ」


 かつて、父母としたときのように手を繋いで三人で回った。回りながら心のなかで唱える。


(祓い給へ、清め給へ、守り給へ、さきわへ給へ。


 ――この子に、勇太に、どうかどんな厄災をも近づけないで下さい)


 そう強く願っていた。神様は自分たちを裏切ったわけではない。きっと父母の願いは届けられた。だから自分だけが酷い事故の中、奇跡的に助かったのだ。


 茅の輪くぐりが終わると三人で本殿へ参拝に行く。


(神様、父さん、母さん。ありがとうございました)


 手を合わせ、自然とお礼を言っている自分がそこにはいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

茅(ち)の輪くぐり 白川ちさと @thisa-s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ