7. 満月だけが
目を覚ますとすっかり日が沈んでいた。どうして自分が訓練場の地面で寝ているのか思い出すのに十秒。玄田軍団のストレス発散に付き合わされた事実に思わず顔をしかめる。
「痛っ……あいつら……もう少し手加減しろよ」
起き上がるだけで全身に痛みが走った。元の世界でも殴られたりはしたが、ここまで暴力的な扱いを受けたのは初めてだ。おそらく教師や親といった抑止力が存在しないこの世界で、隆人達のリミッターが外れたのだろう。颯空にとってはいい迷惑であった。
なんとか体を起こし、壁を背もたれにして空を見上げる。そこには手が届きそうに大きな満月が、颯空の事を静かに見下ろしていた。
「……この世界にも月はあるんだな」
自分が知っているものよりも少しだけ赤みがかった月。この世界でもあれを月と呼ぶのかはわからなかったが、そんな事はどうでもよかった。ただ、異世界といっても自分達の知る世界とまるっきり違うわけではない事に、何となくホッとした。
この汚い体では城に戻りづらいので、訓練場の隅っこにある井戸までよろよろと歩いていく。井戸から水を掬い出し、水をかぶろうとしたところで颯空の手がぴたりと止まった。今の気候は春先くらい。そんな夜に屋外でかぶる冷水はさぞや冷たかろう。
「ん」
中々決心が固まらず桶を持ったまま躊躇していると、颯空の後ろからタオルを持った手が伸びてきた。反射的に振り返った颯空は、そこにいる無表情な顔を見て大きく目を見開いた。
「すず……!?」
颯空の口から無意識に名前が零れ落ちる。
「ん」
すずが持っているタオルをぐいぐいと押し付けてくる。少しだけ迷ったが、颯空はため息をつきつつ、それを受け取った。
「三年ぶりか? 面と向かって会話すんのは」
「…………」
タオルで体を拭きながら颯空が言うと、すずが表情をわずかに曇らせる。それは本当にささやかな変化で、付き合いの長い颯空だからこそわかった。
「そんな顔すんな」
「……避けてた」
「否定はしねぇよ。もうお前らとつるむつもりはなかったからな」
「…………」
突き放すような物言いに、すずがそっと顔を伏せる。どうして颯空がそんな態度をとるのか、すずは知っていた。知っていたからこそ、颯空にかけるべき言葉が見つからない。
「澪がまいってる」
「あ?」
「ボクと同じ。颯空にどうやって話しかければいいのかわからない」
「…………」
「それに加えて、こんな知らない世界でクラスをまとめなきゃいけない。……澪の負担は計り知れない」
すずが何かを期待するようなまなざしを向けた。だが、返ってきたのは空虚な苦笑いだけ。
「俺にできることなんて何もない」
「そんなことない。普通に話をするだけで澪は喜ぶ」
「今の俺とあいつじゃ立場が違うだろ? 何を考えているのかわからない根暗な男が、皆の憧れの的である生徒会長様になんて近づくだけでおこがましい」
仮に同じ言葉をかけたとしても、自分と四王天翔では周りの感じ方が変わってくるだろう。それがわかっているからこそ、うかつに颯空が澪に話しかけることはない。
「そもそも、今更何を話せばいいのかわからねぇしな。……もう昔とは何もかもが違うんだよ」
颯空が遠い目をする。あの頃は何を話せばいいのかとかそんな煩わしいことを考えずに話ができたっていうのに。月日の流れというのは本当に恐ろしい。
尤も、月日の流れだけが原因ではないのだが。
「確かに颯空も澪も変わってしまった。……変わらないのはボクと凪だけ」
幼馴染の名前を出されて、颯空の心がチクリと痛む。
「……澪が辛そうなら、あいつが何とかするだろ」
「凪はいつも澪の気持ちを最優先させる。だから、澪が無理をしてでも頑張ると決めたら静観する」
「澪が限界に達するまで、か」
「そういう事」
昔からそうだった。大切に思うあまり、澪の進む道を邪魔したくない。
天を仰ぎながらゆっくりと息を吐きだす。満月は相も変わらず、何も言わずに静かにたたずんでいた。
「……悪いな、すず。返事はノーだ。俺が澪にしてやれることなんてない」
すずに顔を向けることなく、独り言のように颯空が言った。
「人殺しの俺に出来ることなんて何一つとしてねぇんだよ」
「っ!? あ、あれは颯空のせいじゃ……!!」
颯空の横顔を見たすずが思わず言葉に詰まる。その寂しさと切なさが入り混じった顔を見たら、すずは何も言うことができなくなってしまった。
お二人の間に沈黙が流れる。かけるべき言葉を必死に探しているすずから顔をそむけた颯空が静かにその沈黙を破った。
「もう俺に関わるな。前にそう言ったよな? 過去の幻想を追い求めても、互いに辛いだけだ」
「……幻想なんかじゃ」
「幻想だよ。あの楽しかった時代は幻なんだ……俺のせいで幻になっちまった」
ギリッと颯空が奥歯をかみしめる。その表情には憎しみすらにじみ出ていた。その憎悪の対象がわかってしまうすずは、悲しげな表情で颯空を見つめる。
「……あまり自分を責めないで」
「サンキューな、すず。お前の不器用な優しさにはいつも救われていたよ。……でも、それもこれっきりだ」
そう言うと颯空はすずを見ることなく城に向かって歩いて行った。その背中をすずがじっと見つめる。
「
感情が読み取れない顔から零れ出る悲痛に満ち満ちた言葉。それを聞いていたのは、悠然と空を散歩しているあの大きな満月だけだった。
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