四
「で、一度は他人のものと知って
「そういうわけじゃ……」
千夜が自殺未遂を図った翌日、冬野はことが重大だと、新之介に相談していた。
千夜に何がしかの想いを抱いているとまでは打ち明けていないのに、やはり新之介に隠すことはできなかったようである。
「助けてあげたいのは事実、なのでしょう?」
やけにかしこまった言い方なのに、新之介はどこか微笑ましく、または
「私にもどうすることはできない……ここは、自身番に行くのがいいだろう」
新之介の助言をもとに、二人は下谷町を管轄している自身番へと足を運んだ。
自身番は町奉行所と連帯された、町の警備を行っている番所である。
管轄下にある界隈の、おおよその住人については詳しいことを知っているかもしれないと、または千夜のことを知らずとも、何か動いてくれるかもしれないという淡い期待を二人は込めていた。
番太は若い旗本が押しかけてきて戸惑っていたが、侍相手だけあって親切に接してくれた。
「随分と
颯爽と、番屋に男が入ってきた。
黒の巻羽織に、帯には十手が見え隠れしていて、その男が同心だと一目でわかった。
三十歳そこそこぐらいの若い同心の口元は笑っているが、冬野と新之介を見定める目つきは鋭い。
「こちとら侍相手の厄介事は引き受けてねぇんだ」
同心は町奉行所の支配下にあって、武家地と寺社地に関しては管轄外である。
常日頃、町人たちから相談事を持ち込まれたり、厄介を抱えたりする番所であるが、侍が来たとなって同心は言ってみせた。
だが、冬野たちもそれがわからないほど無知ではない。
同心も備えられた感からか、事情があるのだとわかっているようで、軽口を叩いた程度だった。
「それが……お千夜さんのことをお尋ねなすったんで」
番太の言葉に、同心は笑みを引っ込めた。
荒木音十郎は、北町奉行所に勤める定町廻り同心である。
市中見廻りのついででよければ千夜のことを話すと言われ、冬野たちは迷いもせずに、音十郎の早足についていくことを決めた。
音十郎の後ろには、小者が口を挟まずに従っている。
「畏まらなくて結構です」
「そりゃぁ助かる。話のわかる坊ちゃんたちでよかった」
はじめから音十郎の態度は畏まってはいなかったが、二人は特に気にしていなかった。
ただし、坊ちゃん呼びは何ともむずがゆい感じである。
「お千夜は、大店の一人娘だったんだ」
前置きもなしに、音十郎は語りだした。
冬野が思わずえっと聞き返したのは、どうして大店の一人娘が妾になっているのかと、疑問に思ったからである。
千夜の実家は、日本橋にある塗物問屋だと、音十郎は先を続けた。
「五年前に両親が死んで、叔父夫婦とその息子が店に入ったんだ」
つまり亡き千夜の父に代わって、叔父が店の切り盛りをし始めたのだろうと、冬野は想像する。
「まさか、お千夜さんのことが邪魔になって……」
一人娘ということは、いずれは婿をとって家付きになるはずだったのだろう。
叔父の心情としては、姪に店に居座られるよりも、息子に跡を継がせたいという気持ちが芽生えたのではないかと、あくまでこれは冬野の想像であった。
「邪魔には思ってたかもしれねぇな。
でも、表面上は虐めるようなことはしなかったし、いずれはお千夜に婿をとらせて、その婿を店の主人にすることを約束していたらしい」
「叔父の息子とお千夜さんが一緒になれば、まとまると思いますが」
と、新之介が聞いた。
「歳が離れてるからそうはならなかったんだろうよ。千夜の方が六つも上だ」
「では、何故……やはり途中で気が変わったのですか?」
現に、千夜は妾として生きている。
千夜のことが邪魔になったからといって、大店の娘を妾に収まらせるだろうかと、新之介は聞いたあとで思い至った。
「いや、お千夜は酒問屋の若旦那に見初められて、嫁入り話が舞い込んだんだ。
叔父からしても体よくお千夜を追い出せるし、お千夜にしても嫌ではなかった」
跡取りとは言わずとも、実家の店を支えて生きていく道が決まっていた千夜にとって、嫁入り話は未練があったのかもしれない。
けれど、嫁入り話を嫌がらなかったということは、相手に好意を抱けるような、少なからず悪い話ではなかったに違いないのだ。
だからこそ、千夜の現状が理解できなかった。
「あとは婚礼の日取りをってときに、千夜はある男に目をつけられた」
「まさか、その男が……」
今、千夜を囲っている主人なのかという冬野の問いに、音十郎は肯定した。
「男はお前たちと同じ、旗本の子息だ」
「いくら旗本の子息だからといって、婚礼も決まっていたのに妾にすることを許したのですか?」
やや不快な調子で、新之介が言った。
冬野にしても、新之介の言ったことが事実ならと、嫌悪を隠せない。
「流石に決まった人がいると言って断ったらしいな。
そしたら向こうが、若旦那がくれる結納金よりもはずんだ金をやると引き下がらなかった」
「それでも、お千夜さんが嫌がるはずだ」
冬野は憤慨する勢いだった。
「ああ。お千夜は頑なに
中々話が進まず、業を煮やした主税は、千夜を手籠めにした」
冬野も新之介も、口を閉ざしてしまう。
ここまで
かける言葉さえも、思い浮かばない。
「お千夜が首を括る前に、妾にならなければ店を潰すと脅して、お千夜は泣く泣く妾に収まった」
「それでは……死ぬよりも辛いではないか……!」
ついに怒鳴りこんだ冬野を、擦れ違う通行人がぎょっとして見る。
音十郎はずっと冷静であった。
「店を守るためには死ぬことができない。元はと言えば、父親の店だ」
店も叔父も見捨てることはできる。
でもそうしないのは、父母の思い出が
千夜が死を試みて、けれどできなかった理由が、ようやくわかった。
まさに生き地獄を千夜は味わっている。
雪の日に、傘をささずに立ちすくんでいたのは、身体を痛めつけたかったからか、それとも、体調を悪くすれば無理に抱かれることはないと思っていたからか。
「何とかならないのですか?」
新之介も必死になって、音十郎に尋ねた。
「相手が旗本だと、俺は手出しができねぇ。
それに、そこいらの町人が囲っていたとしても、裁く理由がない」
千夜が殺された、または殺されかけたとなれば、同心は動くことができる。
事件性がなければ同心は動くことができず、また、事件性があったとしても、旗本相手にはどうすることもできなかった。
音十郎が千夜の事情に詳しかったのは、動けないなりに、気にかけていた証左である。
「しかし、死にたがっているというのは引っかかるな……」
「ふと死にたくなることは、お千夜さんならたくさんあるでしょう……」
「まあ、そうだな……」
途中から黙り込んでしまった冬野と新之介は、音十郎と別れた。
「あんな明け透けに話してしまって、よろしかったんで?」
今まで黙々とついて来ていた小者が、二人が去ったのを見て口を開いた。
「俺が教えなくてもわかることだ。
囲い者と知って、それでも助ける気があるとは、旗本の坊ちゃんにしちゃあ気骨があると思わねぇか?」
千夜の事情を知ってなお、二人は千夜を助ける意思を諦めていなかった。
特に冬野からは、並々ならぬ思いを感じられる。
「世間知らずだからじゃねぇですか?」
「さあな……少し、調べ直してみるか」
千夜が死を望むことは不自然ではない。
だが、未遂まで行ったのは、音十郎が知っている限りでは初めてである。
小さな引っかかりも見逃さないのが、同心の基礎だった。
数日後、雪も雨も降っていない晴天の下で、冬野と千夜はかの神社で再会した。
梅は満開である。
「この前は返しそびれてしまって……
ずっと返そうと思って、ここに何回も来ていたんです」
いつの日かに差し出してくれた傘と羽織を、千夜はやっと冬野に返すことが叶った。
返しそびれたというのは、実は千夜の嘘で、冬野を探す口実が欲しかっただけである。
「私も、何度もここに来ては、貴女に会えるのを待っていました」
先日の
千夜の事情を知っているのに、冬野には千夜が、あどけない少女にしか見えなかった。
冬野は道場の帰りには神社に立ち寄っていると、おおよその時刻も千夜に告げて、口実は約束に変わった。
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