神社で会えないとなると、今度は神社周辺の上野の町を用もないのにうろうろとして、冬野はいつかの女を探していた。

いよいよ新之介に怪しまれて尋ねられたが、寺社参りをしていると言えば、急に信心深くなったのは、妙ちきりんな宗教にはまってしまったのではないかと、これは冗談めいて言われた。


それ以上はつっこまれなかったので内心安堵あんどしているが、冴えているところのある友人に、果たしてどこまで誤魔化せるのだろうかと、冷や冷やしている。

一度会っただけの女に執着しているなど、恥ずかしくて、口が裂けても言えなかった。


今日も特に収穫を得られず上野を後にしようとしたとき、鼻腔びこうを掠めたのは、梅花の匂いだった。

ふと立ち止まって見上げれば、広小路に立ち並ぶ料亭の脇にも後ろにも、梅花が咲きほころんでいる。


自宅の庭にある梅の木はもう咲いているのだろうかと、何となく思ってみた。

花に興味がない冬野でも目を奪われる情緒が、梅にはあった。


あきらめ大半で、神社に立ち寄ってから帰ろうと、再び歩を進める。


「あっ……!」


およそ六間先にある料亭から出てきたばかりの女は、紛れもなく、稲荷神社で会った女だった。

梅よりも魅入ってしまった存在は、尋ね人の横顔である。


やっと、会える。


込み上げる気持ちを隠しきれずに、表情は緩んでしまう。

しかし走りかけた刹那、その足は止まった。


顔の筋肉がしぼんでゆく感覚がしたのは、目の前の光景が受け入れがたかったからだ。


料亭から出てきたのは、女だけではなかった。

すぐ後から姿を現した男は、女に親し気に話しかけている。

そのまま二人は連れ立って、呆然と立ち尽くす冬野の視界から消えていった。






おかしいとは思っていた。

どんな風の吹き回しなのか、料亭に連れて行ってくれると言われたときには、素直に喜ぶことは決してできなかった。


だけど千夜に拒否権はないので、彼に連れられて料亭に行ったのは、つい先日のことである。

相変わらず乱暴な抱き方しかできない彼に好意を抱くことは皆無で、ただの気まぐれだったと感じることに努め始めたころに、千夜の家には彼の他、見知らぬ男たち数名が訪れた。


たった一人の嫌いな人に抱かれているのなら、我慢できる。


泣き叫んでも、抵抗しても、すべては虚しく意味がない。


やはり彼が自分に向ける感情は、愛という重々しいものではなくて、ひどく軽薄で汚いものだと、千夜は悲壮の中でさとった。


数えることもおぞましい苦しみが過ぎて、千夜はやっと起き上がる。

外は雨が降っていた。






まさか本降りになるとは思わず、勧められた通りにしばらく家の中にいさせてもらえばよかったと、最近はやたら後悔してばかりの冬野は、上野を歩いていた。

上野の、さらに北に位置する坂本村には以前、高村家に仕えていた使用人が隠棲していているのだが、病に罹ったと聞いて見舞いに行った帰りであった。


ちょうど軒並み連ねる上野の寺を過ぎたところで、雨足が強くなった。


茶店にでも入って雨宿りをしようかとも考えたが、通り雨でもなさそうな空模様を見て、このまま帰宅しようと決める。

広小路ではなく、家屋が密集する中道を通って、雨を避けながら歩くことにした。


下谷町を抜けると忍川が横切る。その忍川に架かっているのは、ゆるぎ橋だ。

雨の日の、川の流れは不穏で、風が強くないだけましだった。


顔や手の露出している肌は氷のように冷たい。

早く家に帰って、火鉢で暖まりたい……と思考を巡らせていると、視界に不自然な人影が映った。


よくよく見ると、女が一人、橋の欄干に手をついている。

身を乗り出すようなそぶりを見せときには、冬野は傘を手放して走っていた。


「やめなさい!!」


女は冬野の声に気づいていないようで、さらに身を乗り出す。

間に合えと念じながら駆け寄った冬野の手が、もう少しで女に触れられるところまで来たところで、女は急に身を引っ込めた。


拍子抜けして、冬野はゆっくりと女に近づく。

女は全身を雨に濡らしながら、その場にくずおれた。


「貴女は……!」


橋から身を乗り出そうとした女は、冬野が探していた女だった。

女は神社で会ったときよりもみじめな恰好で、近くで見るまではその女だとはわからなかった。


「……!どうして……」


女も冬野を認識して、そして何故ここに冬野がいるのだと、女の目は語っている。


同じように雨に濡れて無様な恰好になった冬野は、女の目線まで屈んだ。

女の大きい瞳から涙が溢れ出したのを、雨交じりの中でも見えた。


涙の理由が、もし自分の姿を見て安心して流したものだとしたらと、おこがましくも期待する。

否、絶望ではなく安らぎの涙ならばよいと、冬野は願った。


ーー助けて……


言葉にならない切実な思いが込められた女の眼差しが、痛々しいほどに、伝わってきた。


抱きしめたときに、これが愛しいという感情だと知った。


冬野の差す傘が無意味なほどにすっかり雨に濡れてしまった二人は、下谷町にある女の家までたどり着いた。

黒板塀に見越しの松があるその家が妾宅だと、冬野は一目でわかった。

では、主人は先日見かけた、女と料亭から出てきた男だろうか。

主人が誰にしろ、女が他人のものだということが確定して、動揺を抑えるのに必死になる。


「女中は、置いていないのか?」


家の中はもぬけの殻である。

妾宅には一人や二人、女中がいると踏んで冬野は聞いた。


「いえ……私だけです」


女中がいなかったからこそ、自殺未遂もできたというわけだ。


今は落ち着いているが、女は自殺を試みた。

無事に家まで送り届けたはよいが、自分が帰ってしまった後で同じことがあったらと、冬野は家を後にすることができなかった。


「ご案じくださいますな。……もう、死のうなんて思いませんから」


先ほどまで死にたがっていた女の言葉を、おいそれとは信用できない。

何も言えない冬野が見た女の顔は真剣だった。


「私には、死ねない理由があるのです」


川に飛び込もうとした女は、確かに身を投げ出すことを自身の意思でやめていた。


死にたい。だけど、故があって女は死という選択ができないでいる。

女が味わっているのはどれほどの、そして如何様な苦しみなのだろうか。


「何か、私に力になれることは?」


女は少しだけ意外そうな顔をして、視線を下に落とした。


「いつでも、私を頼ってください。私は、貴女の味方です」


ついに女は助けを求めることを口にしなかった。

橋の上で抱きしめたときにすがってきた手が嘘のように。


冬野は名残惜しく、女の家を後にすることにした。


「あの……お名前を」


「高村冬野です。どうか、冬野と」


「千夜、です」


か細い声でつむがれた名前を、冬野は胸に刻み込んだ。

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