【てのひら短編】旅客小話

朝羽

(一話完結)

一、質問屋



「眠っておられるのですね?」

 唐突にそんな質問を投げかけられ、はっと目を覚ました。

 自分が今どこにいるのかわからず、少女は慌てて周囲を確認した。窓の外は相変わらずの田園風景が続いていたが、さきほどまで誰も座っていなかった向かいの席に紳士がひとり腰を下ろしているほかは、周囲に客がいなくなっている。通路を挟んで逆側に居た親子連れもだ。いったいどれだけの間眠っていたのだろうと不安に思っていると、それを察したらしい紳士が今しがた通過した駅の名前を告げた。

 よかった、それほど時間は経っていない。安堵してカバンを抱え、居住まいを正すと、

「ご旅行ですか、お嬢さん?」

 紳士が改めて話しかけてきた。

 こげ茶色の帽子を目深に被っているため、歳や容貌はよくわからない。ただ帽子の下からのぞく口元にかすかな皺があり、若い男ではないと思われた。声質から察しても、老人と呼ぶには少し失礼にあたる年齢といったところだろう。

 帽子と同じ色の三つ揃えのスーツはぱりっとして清潔で、仕立ての良さが素人目にもわかる。めだった持ちものと言えば正面の床についたオーク製のステッキぐらいだが、全体的にどことなく品格が感じられた。

「は、はい。そうです」

 戸惑いながら少女は答える。

席は空いているのに、なぜこの人はわざわざわたしの向かいに来たのだろうと訝しく思ったのだ。そんな少女の疑問が伝わったのか、

「わたしは《質問屋》なんです」

 と唐突に紳士は言った。

「質問屋?」

「はい。《質問屋》は質問することが仕事なのです。おっと、失礼。わたしが質問に答えることは禁止されているんでした」

「……はあ」

 なんだかよくわからない。

 不思議に思って眉をひそめると、《質問屋》は帽子の下でにこりと柔和な笑みを浮かべた。

「お代は必要ありませんよ。そのことを心配しておられるのでしたら。わたしの問いに対するあなたの答えが代価ですからね。……でははじめましょう」

 何を、と少女が問うのを制し、《質問屋》はさっそく質問をはじめた。

「あなたは列車に乗っておられますね?」

「はい」

「お一人ですか?」

「はい」

「快適ですか?」

「ええ」

「どこかへ向かわれる途中?」

「そうです」

「ご旅行ですか?」

「違います」

「では何しに?」

「叔母の家に遊びに」

「あなたは女性ですか?」

「はい」

「ということは男性ではない?」

「……ええ」

「叔母さんも女性ですね?」

「もちろん」

「退屈しておられる?」

「い、いいえ?」

 淡々と質問が投げかけられ、そのたびに少女は律儀に答えつづける。そのうちに、また両のまぶたが重さを増してきた。

「……わたしたちは一体どこから生まれ、最終的にはどこへ辿りつくんでしょう?」

「……、……」

 思考の歯車が正常に回転しなくなっている。おいでと招きよせる睡魔の誘いに、もはや抵抗は無理だとあきらめかけたその瞬間、《質問屋》は唇に微笑を浮かべ、こう訊ねた。

「よく眠れそうですか?」

「…………」

 はい、と答えようとした。だが急激に眠りの沼に引きずり込まれ、あとは返事にならなかった。



二、夢喰い屋



 ガタン、という大きな振動に身体が跳ね、少女はその反動で目を覚ました。うすぼんやりと瞳を開くと、正面の座席に《質問屋》紳士の姿はそこになく、かわりに白と黒の大きな生きものがのっそりと座っていた。

「お目覚めですか、お嬢さん」

 と細い目元をさらに細めてその乗客は言った。

 はじめイノシシかサイかと少女は思った。先へ行くほど緩やかに丸まった長い鼻はどこか象を思わせる。シマウマ、あるいはパンダと同じく白と黒にはっきり分かれた体毛。尾は牛に似て細いが、先端だけが筆のように膨らんでいた。小熊ほどもある大きな体格を縮こまらせ、狭い座椅子にむりやり押しこんでいる様子はどこかコミカルで愛らしかった。

「お嬢さん。わたくしはあなたに謝らねばならんのです」

 と、その乗客が唐突に言った。少女はわけがわからず「え?」と小さく訊き返す。

「わたくし、実はこういう者でして」

 と、その乗客は名刺を差し出した。名刺には、

『夢喰い屋、獏バク』

 と記されている。少女は首を傾げた。

「バクバクさん?」

「いえ。獏、バクです」

 即座に不機嫌な声で訂正された。微妙にイントネーションが違うらしい。ごめんなさい、と間髪入れずに謝罪すると獏氏は鷹揚に肯いた。

「夢って、空想するときの夢ですか?」

 いいえ、と獏氏は首をふる。「眠るときに見る夢です」

「夢を食べる?」

「ええ」

 それでですね、と獏氏はばつが悪そうな仕草で居住まいを正した。

「わたくし、あなたがご覧になっていた夢があまりに珍しく美味しそうだったものですから、あの、……つい、少しだけ頂戴しまったのです」

 少女は驚いて訊ねた。

「わたしの夢を、ですか?」

「はい。いつもでしたらお客様にちゃんと了承をおとりして、夢を呼び寄せたうえでいただくのですが、あまりに空腹だったものですから我慢しきれずに……そのう、申し訳ありません」

 獏氏は肯き、大きな体を縮こまらせた。言われてみれば、白と黒の毛が混じりあった腹のあたりがぽこんと丸くつき出ているような気もする。『少しだけ』というのはどうやら控えめにすぎる表現のようだ。

 しかし、見たのかすら覚えていない夢を勝手に食べられた、と言われても、戸惑うばかりであまり腹は立たなかった。

「夢を呼ぶって、どんな風に呼ぶんですか?」

「うむ、そうですな、せっかくですからお嬢さんにもお見せいたしましょう」

 獏氏は肯いて、自分の隣に置いた革製のトランクを膝の上に乗せ、大きな手と小さな指を器用に使ってふたを開けた。

 クッション材が隙間なくきっちりと敷きつめられたそこには、七種類の液体が入ったガラスの小壜が行儀よく並んでいた。左端から、赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫。まさに虹の七色だ。その美しさに少女が思わず見入っていると、獏氏は言った。

「これらはわたくしどもの造った夢想誘発剤でして。見たい夢の種類にあわせてお客さまに飲んでいただきます。この中には睡眠を助ける作用も含まれているので、飲めばたちまちのうちにアラ不思議、眠気がおとずれ頭は働きを鈍くし、上のまぶたは下のまぶたとガッチリお手々を繋いで離れなくなります!」

「え、永眠……?」

「失敬な。ちゃんと目は覚めますよ。まる一日後に」

 それにしたってあまり飲みたくない。

「お嬢さんも試されてみますか? リアルなものからメルヘンチックなもの、嬉し恥ずかしあらやだウフフなものまで取りそろえておりますが」

 少女は結構です、ときっぱり首をふった。

「えっと、それで。私が見てた夢ってどういう夢だったんですか?」

 ふいに獏氏は膝をよせ、ずずいとこちらに詰め寄った。

「……お知りになりたいですかな?」

「ええ、その……」

「ほんっとう――にお知りになりたいですかな?」

「あ、いえ。やっぱり……」

知りたくないです、とぼそぼそと口の中で呟くと、獏氏はまったりと満ち足りた顔で答えた。

「なかなかの珍味でしたよ。喩えるならバッタのような」

 詳細を聞かなくて良かった、と少女は思った。

 小太鼓よろしくつき出た腹部を愛しそうに撫でていた獏氏だったが、ふいに「ウッ」と顔をしかめ、唐突にえずいた。少女は驚いて身を乗り出す。

「どうしたんです!?」

 訊ねながら、思わず背中をさすってやろうと手を伸ばしたとき、獏氏は何かを掌の上にぺっと吐き出した。深い青色をした小さなものだ。

「だ、大丈夫ですか?」

「はい、もう大丈夫です。吐き出しましたので」

 けろりとした顔で言い、獏氏は手の中に吐いたものをちらりと見つめ、残念そうに息を吐き出した。

「ウーム……やはりこればっかりは食べられなんだか」

開いた掌の中に収まっていたのは、美しい瑠璃色をした小鳥だった。

頭部から尾の先っぽまでを、藍がかった深い青があますところなく彩っていた。他の色をいっさい持たず、丸くてつぶらな瞳と小さく尖ったくちばしまでもが青い。少女がはじめて目にする種類の鳥だった。

「これは?」

 少女が訊ねると、獏氏は苦笑した。

「……『青い鳥』ですよ。わたくしども《夢喰い》は、夢の中なら綿菓子から鉄筋コンクリートまでなんでも消化できるのですが、こいつばっかりは無理でして」

 青い鳥はピイとも鳴かなければ身じろぎもしなかった。あまりに無反応すぎて、本物ではなく剥製か何かだと思うほどだ。

 しかし、獏氏が手を少女に近づけると、鳥は小さく羽をはばたかせ、少女の肩の上へと移動した。

 戸惑っていると、獏氏は媚びるような笑みをこちらに向けた。

「どうぞ。お嬢さんに差し上げます」

「えっ? でも……」

「いやなに、それはもともとお嬢さんの夢から生まれたものですから。わたくしはお返しするだけです。お代にもなりませんがね、――おっと」

 獏氏は左腕に無理やり巻きつけた時計に視線を落とし、こりゃいかんと目を瞠った。

「そろそろ次の停車駅につく時間ですな。急いでおりますので、わたくしはこれにて失礼いたします。それでは、お嬢さん」

 軽く頭を下げると、少女が何かを言う暇も与えず、獏氏はそそくさと席を立った。後に残された少女は呆然と、肩に乗った青い鳥を見つめた。

 青い鳥は目をきょとんと丸め、無言で見返してくる。窓を開けて飛び立つよう促してみても、小さく羽根を動かして少女の肩から頭上へと移動しただけであった。どうやら逃げる意志がないようだ。

ほとんど感じさせない重みを乗せたまま、少女は困りきって呟いた。

「……どうしよう、この子」



インタールード①



 窓の外の風景はすっかり様変わりしていた。

 どこまでも続くかに思えたのどかな田園風景は終わり、今度は深い森の中、木々の間を縫うように列車は走っている。ほんの少し窓を押しあげてみると、風とともに緑とふりつもった腐葉土の匂いが入り込んできた。

 肺にその空気を吸い込み、十分に堪能してから窓を閉める。と――、

「切符を拝見致します」

 少女は顔を上げた。鉄道局の制帽を目深にかぶり、濃い灰青の詰襟を着た車掌が心もち腰をかがめ、こちらをのぞきこんでいる。

 下から見上げると、黒い髪をしたまだ若い男だった。とりたてて特徴のない顔だが、左目のふちに小さな泣きぼくろがある。

 促すように白い手袋に包まれた手を差し出されたので、「あ、はい」と我に返った少女はカバンをさぐった。やや皺がいった切符を内ポケットから取り出す。車掌に手渡しながら、少女は胸を高鳴らせた。手紙の封を切るときや、プレゼントの蓋を開けるときと同じような興奮。待ちきれなさにわくわくと心が踊る。ここでしか聞けない切符切りの音が、なぜか懐かしい気持ちを呼び覚ますものだからかもしれない。

 車掌は専用のハサミを回転させ、切符にあてる。パチン、という金属的な音。少女がうっとりとその余韻に酔っていると、どうぞ、と車掌が切符を差し出した。急いで受けとる。

 この路線でしかもらえない星型の穴に、少女は口元をほころばせた。パスポートにハンコを押してもらうのと同じくらい嬉しい。本の表紙と中表紙の間に大切にそれをしまうと、少女は車掌を見上げ、礼を言った。

「……ありがとう」

 車掌は制帽をぬぎ、どういたしましてとお辞儀した。



三、鳥篭屋



「お嬢、かわいらしい小鳥をお持ちだね」

 しわがれた老婆の声に話しかけられ、外の景色を眺めていた少女は弾かれたようにふり向いた。

 通路をはさんだ隣列の席に、いつの間にか奇妙な客が座っていた。生花らしき派手な花飾りのついたつば広の帽子。ワイン色をした釣鐘型の外套ですっぽりと全身を覆っており、どちらかと言えばふくよかと言える体つきの他は、年齢も外見も何ひとつわからなかった。

だが奇妙だったのは客自身ではなく、その持ちものだ。

 客――しわがれ声から老婆と思われる――が座る席とその前、床、通路、上部の棚にいくつもの鳥篭が置かれていたのだ。大きさも形も意匠もまちまちで、特に老婆が膝に乗せた鳥篭は見事だった。格子の一本一本に金属製の細かな蔦が這っており、中で鳥を飼わずインテリアとして部屋に飾っても充分見映えがするだろうと少女は思った。

 ふいに、ヒヒヒ、と老婆が笑った。

「あたしゃ《鳥篭屋》さ。ご覧のとおり篭だけで、鳥はいないがね」

「鳥篭屋……」

 オウムのように言葉を繰り返すと、そうさ、と老婆は肯いた。

 列車の振動に、カシャカシャと鳥篭同士がこすり合わさって金属の音色を奏でている。

「お嬢のてっぺんで行儀よくじっとしているの、それ、『青い鳥』だろう?」

 あ、と少女は口を開ける。軽いうえにあまりに静かなので、頭上に陣取った青い鳥のことをいつのまにかすっかり失念していたのだ。

 少女が手を側頭部にもっていくと、意図を察した青い鳥はすぐに指の上へと移動した。そのまま目線の高さまで下ろそうとすると、青い鳥は羽根を動かし、自主的に肩へと舞い降りてくる。

なあに、という風に小首を傾げる鳥に、少女は深々と嘆息した。

「……お願いだから、もう少し存在を主張してよ」

 先ほど来た車掌は何も言わなかったが、頭に鳥を乗せた少女の姿はさぞかし滑稽に見えたことだろう。情けなさと恥ずかしさで、思い返すと顔から火が出そうだった。

 そんな少女がおかしかったのか、ヒヒヒ、と老婆が再び笑いを漏らした。

「その青い鳥はね、お嬢。なかなかに難しい鳥だよ」

「難しい、ですか?」

 訊き返すと、大きな帽子がこくりと上下に動く。

「そうさ。特に一度手にしてしまうとね。青い鳥は小さな幸せを運ぶが、じきにそれじゃ満足できなくなってくる。人間は欲深い生き物だからね。もっと幸せをと望むうちに、今度は失うのが恐ろしくなってくる。そして疑心暗鬼にとらわれるようになるのさ。他の誰かに大事な小鳥を奪われちまうんじゃないかってね」

「…………」

 少女はごくんと唾を飲み込む。肩に乗せたそれに人さし指を近づけると、甘噛みするようにくちばしを被せてきた。その仕草は愛らしいが、逆にいっそう手放せなくなるような気がして、少女は不安に思った。

「おやおや、心配になったのかね?」

「はい。少し」

 正直に少女が肯くと、我が意を得たりとばかりに老婆は肯いた。

「そんならお嬢、あたしにその鳥を譲ってくれないかい。情けないことにあたしゃ鳥なしの鳥篭屋だが、鳥類のことならそこいらにいる輩よりはほんの少しばかり詳しい。その子の面倒も充分見られると思うよ」

 少女は青い鳥を見つめた。なんといってもこの鳥は、《夢喰い屋》獏氏の話が本当なら自分の中から生まれたものなのだ。惜しくないと言えばうそになる。

だが少女はこの鳥が何を食べるのかも知らない。育て方もわからない。主人が無知ではこの子が可哀想だし、何よりこのまま欲にとりつかれずにいられる自信もなかった。

「あなた、どうする? 《鳥篭屋》さんのところに行く?」

 困った少女が当の鳥に意向を伺うと、それに合わせ、老婆が美しい装飾の鳥篭をこれ見よがしに持ち上げた。おいで、と誘うように篭の入り口をこちらに向けて開いてみせる。

 青い鳥はしばし少女を見上げると、丸い目をくるんと動かして首を傾げ、

「ピィ」

 と、はじめて鳴いた。少女の心に溢れんばかりの愛しさがこみ上げ、思わず手放したくないと口にしそうになった。だがその気持ちをぐっとおさえ、ごめんなさいね、と静かに首を横にふる。

「わたしにはあなたを育ててあげられる自信がないの」

少女がそう言うと、青い鳥はほんのわずか躊躇したようにその場で跳ね、やがて羽を広げて飛び立った。

 通路を横切り、老婆の持つ鳥篭の中に自ら入っていく。止まり木の上で加減をみるように何度かはばたき、快適だとわかったのか、やがてその場に落ちついた。どうやらお気に召したらしい。

 それを確認し、老婆はヒヒヒ、と満足そうに笑った。床に寝かせていた長い天秤棒を手にとり、すべての鳥篭を――もちろん青い鳥の入ったものも――そこに通すと右肩に軽々と担ぎ上げる。

「さてと。それじゃ、あたしはそろそろ行こうかね」

 ゆっくりした動きで老婆が立ち上がるのを、少女は無言で眺めていた。

「この子のことなら任せておきな。心配いらないよ、きっと立派に育てるからね」

「はい。よろしくお願いします」

 自信満々で請け負う老婆に頭を下げると、少女は篭の中にいる彼女の鳥に小さく手をふって別れを告げた。

 天秤の両側に鳥篭をぶらさげた老婆は、通路を進みかけたところでふと立ち止まった。

「そうそう。この子のかわりと言っちゃなんだが、お嬢にはあたしのお気に入りをあげよう。何かの役にはたつと思うよ」

 老婆の外套がふいにひるがえったかと思うと、その下に何やら白いふさふさしたものが見えた。だがそれは一瞬のことで、すぐに頭からずぼっと帽子を被せられてしまう。

わっ、と少女は声に出して驚いた。唐突に視界を遮られ、不意打ちに動転している間に、ヒヒヒと笑う老婆の声が遠ざかっていく。被せられたつば広の帽子をようやく脱いだとき、周囲にはもう誰の姿も見えなかった。

「…………?」

通路に、何か白いものが落ちている。

 なんだろうと思い、少女は席を立った。腰をかがめ、手に摘んで拾い上げる。

 それは、青い鳥のものよりはるかに大きな鳥の羽根だった。



インタールード②



 背中に感じる振動が、ガタタン、とかすかにそのリズムを変える。窓の外に視線を転じると、大きな川に架かった橋に列車が差し掛かったところだった。

 鉄橋の錆色の骨組みの向こうに、ぽっかりと赤い夕陽が浮かんでいる。ああ、もう一日が終わるのだ、と思ったとき、腹部が飢えを主張して鳴いた。そういえば列車に乗る前に駅舎でパンを口にして以来、何も食べていない。

 朝食の残りを持ってきたことを思い出し、少女はカバンを開けようとした。そのとき、

「――切符を拝見致します」

 少女は顔を上げた。

 先ほどと同じように、車掌が控えめに手を差し出している。まったく同じ制服に制帽、そして背格好だ。とりたてて特徴のない顔にも覚えがある。しかし、たったひとつだけさっきの車掌と違ったところがあった。

 確かにあったはずの、左目のふちの泣きぼくろがなくなっている。

狐につままれたような顔で少女がぽかんと車掌を見上げていると、促すように白い手袋に包まれた手を差し出された。

「……あ、はいっ」

 急いでカバンをさぐり、栞代わりに本に挟んでいた切符をとり出す。前回とは少し違った緊張を覚えながら預けると、車掌は専用のハサミを回転させ、切符にあてた。再び響く、パチン、という金属的な音。

手渡された切符をしげしげと眺める。星に尾ひれがついて、穴が流れ星のかたちになっていた。

 少女が顔を上げると、車掌は制帽を脱ぎ、お辞儀をした。

「……良いご旅行を」

 言い残して去って行く車掌の背中を見送りながら、少女は思った。もしかして、どちらかが偽の車掌なのだろうか。それとも両者とも本物、あるいは偽者なのだろうか。

 切符に残された流れ星を見つめ、これだから旅というものは面白い、と少女は思った。



四、追われ屋



 家から持ってきたタマゴのサンドイッチとビスケットを食べ終え、少女がようやく一息ついたときだった。

 バタバタと慌ただしい音がして、隣の車両から誰かが急に駆けこんできたのだ。

「お願い、匿ってちょうだい」

 唐突に話しかけられ、少女は驚いて顔を上げる。

 若くはないが、年寄りでもない――壮年の女が緊迫した表情でこちらをじっと睨み下ろしていた。切れ長の目をさらにきりりとつり上げているため、どことなく近寄りがたい、強(こわ)い印象がある。きつめの美人だが、眉間の皺や髪の乱れからたいそう疲れた様子が感じとれ、魅力を半減させていた。

 気になって、少女は訊ねた。

「……あなたは?」

「あたしは《追われ屋》」

「もしかして、追われるのが仕事なんですか?」

 そうよ、と女は逼迫した様子で肯いた。真剣そのもので、からかっている表情ではない。

「何に追われてるんですか?」

「色んなものよ。仕事とか、時間とか、しめ切りとか、借金取りとか、動物保護団体とか、PTAとか」

「PTA?」

「パッとしないあたしの旦那よ」

女はいらいらと爪を噛み、少女の座る隣にむりやり割り込んだ。

「いいから匿ってちょうだい。あんたの母親でも姉でもいとこでもなんでもいいから身内ってことにして」

 こちらの返事を待ちもせず、女は持参していた大きな毛布を頭からかぶり、身を縮めて体を丸めた。五つも数えないうちに、嘘か本当かわからない寝息が毛布に包まった中から聴こえてくる。

「…………」

 困って、しばしの間考え込んだ。席を移動するのもひとつの手段ではあったが、こう強制的に巻き込まれてしまうと、かえって乗りかかった船から下りるのはためらわれた。

腹を据え、《鳥篭屋》からもらった花飾りの帽子を、毛布からはみだした女の髪の上にそっと被せてやる。

 ややあって、女のやって来た隣の車両からすうっと密やかに影が現れた。よく見るとそれは頭のてっぺんから爪先まで黒ずくめの男で、少女はかすかに息をのんだ。男はまるで全身が空気でできているかのように体重を感じさせない足どりでこちらへむかって来る。

 あれが《追われ屋》を追ってきた人物なのだろうか。借金取りか、動物保護団体員か、あるいはパッとしないという彼女の夫か。ひょっとすると、《追いかけ屋》という職業もあるのかもしれない。仕事は当然、誰かを追いかけることだ。埒もないことを思いつき、少女はそんな自分の考えにくすりと笑った。

 それが聞こえたのか、車内に視線を走らせていた男はちらりとこちらを一瞥した。少女にもたれかかっている毛布の塊に気づくと、糸のように目を眇める。

 男が注目していることがわかって、少女は鳩尾のあたりから全身が冷えていくような思いがした。心臓が早鐘を打ち、鼓膜の中をものすごい速さで血が流れていく音がする。ここで不自然な行動をとれば即座に見抜かれてしまうかもしれない。

 目をそらしても不自然だし、今から本をとり出して読み始めるのもわざとらしい。

 影のような男はいよいよこちらに近づいてくる。どうしよう、どうしたらいいの――少女が内心で動転していると、

「切符を拝見いたします」

 男の背後に車掌が現れた。それも、ふたり――左目の下に泣きボクロのある車掌と、ない車掌だ。

 両側から挟まれるかたちになり、黒ずくめの男はやや怯んだような顔つきになった。腰が引けている。

お客さま、と彼らはきれいに声をそろえた。

「切符を、」ほくろのない車掌が言う。

「拝見、」ほくろのある車掌が言う。

『いたします』最後に、もう一度声をそろえる。

 男は反射的に逃げ出そうとしたが、左右を抑えられていてはどうしようもなかった。両側から腕をがっちりとつかまえられ、そのままズルズルと引きずられていってしまう。

 少女はそれを呆気にとられて眺めていたが、ふいに車掌の片割れが肩越しにふりかえり、片目をこっそりとつむって見せた。もう大丈夫、と言うように。

 事態はよく飲み込めないが、どうやら助けられたらしいということはわかった。

 少女は肯き、感謝の意味をこめて彼らに小さく手をふった。切符に開いた星と尾っぽの穴。流れ星は願いをかなえるものだ。

「もう男の人いなくなりましたよ」

 安堵して、毛布のかたまりを揺さぶろうとした。だが、手を触れた瞬間、毛布はぱさりと座椅子の上に崩れ落ち、少女はぎょっとなった。

そこに包まって眠っていたはずの《追われ屋》は、少女が被せてやった帽子ごと、まるで煙のように消えてしまっていたのだ。

何故か本人が持参した、毛布だけを残して。



五、少年



 またしばらくうつらうつらしていたらしい。

 人の動く気配に目を覚ますと、自分と同じ年頃か、もしくはもう少し下と思われる少年が目の前に座っていた。

珍しい褐色の肌に、切り揃えられていないぼさぼさの金髪。太い眉に意志の強さが表れ、どことなく悪童めいた雰囲気を醸していたが、鼻に散ったそばかすがあどけなく、生意気さを緩和している。服装もそれほど上等なものではないようだが、見苦しくない程度に身なりは整えられていた。

少女が目を覚ましたことに気づくと、少年は動揺した様子で小さく頭を下げた。こちらが眠っている間に同席したことを、気まずいと思っているのかも知れない。

 すっかり日が落ちたらしく窓の外は真っ暗だった。湿地帯を走っているのか、かすかに水音のようなものが聴こえてくる。窓ガラスには反転した客車の中がぼんやりと映っており、仕事帰りや少女と同じく旅の途上にあると思しき人々で、座席はほどよく混んでいた。

 かすかな話し声や息づかい、ひとの気配が空気をざわざわと揺らめかせている。なんとも心地良い空間だ。客車という狭い箱の中に赤の他人が大勢乗り合わせ、ひとつの空間を共有している。それがなんだか奇妙で、不思議だった。

 ふと少年に視線を戻し、少女は問うた。

「あなたは……」

「え?」

「あなたは、何屋さんなの?」

 急に話しかけられた少年は驚いて目を丸くした。何を訊かれているのかわからない、という風に不思議そうな表情になる。

 少女の頬に朱がさした。今までの展開を鑑みて先手を打ったつもりでいたのに、どうやら勘違いだったようだ。

「……ごめんなさい。なんでもないの」

 小さな声で謝罪して、少女はまなざしを窓の方へ向けた。場に沈黙が落ちる。

 何やら肌寒い気がして少女が外套の前を掻きあわせたとき、目の前で少年が小さくくしゃみをした。

 少女は《追われ屋》の女が残していった毛布を差し出し、

「よかったらこれ使って」

と言った。

少年は面食らった様子で首をふる。

「でも……君も寒いだろ」

「わたし、外套があるし」

 少年は毛布と少女を交互に眺め、しばしどうしようかと逡巡している風だったが、厚意は素直に受けとるべきだと考えたのか、礼を言って受けとった。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 少女は答えてにっこりと笑う。

「ねえ、あなたもひとり旅?」

「ああ」

「どこへ行くつもりなの?」

 訊ねると、少年はある都市の名前を挙げた。とたん、少女はぱっと顔を輝かせる、彼の方へ身を乗り出した。

「本当? わたしもその街へ行こうと思ってるの。引っ越したおばさんの家へ遊びに行くのよ」

「じゃあ、ぼくと似てるな。ぼくも親戚の家へ泊まりに行ってたんだ。今は帰り」

「ねえ、あなたの街のこと、教えて。はじめて行くところだから色々と知りたいの」

 勢い込んで少女が言うと、少年はにっこりときもちの良い笑顔を見せた。

「うん、いいよ。でもそのかわり、君の話も聞かせて。どこの町で育ったのか、どんな旅をしてきたのか」

「いいわ」

 答えて、少女も笑った。幸い、聞いて欲しいことはたくさんあった。


 はじめて出会った少女と少年は、楽しげに会話を弾ませる。小さな客車の、向かい合った狭い座席のなかで。そしてその心地良い時間は、列車が走りつづける間はとぎれることなく続く。旅の終わりがやってくるまで。

それはほんの少し、ひとの一生に似ていた。




                                        (終)

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