5話―処刑―


全てが黒に満たされた世界。


真っ暗な水中で浮かんでいるような感覚。


横になっているのか、立っているのかさえも分からない。


生きているのかすら、疑ってしまう。


でも、生きるとかどうでもいい。


私は、誰にも愛されない。


誰も愛してくれない世界で生きたくない。


考えてみれば、ラビアに愛されようとした私が愚鈍ぐどんだった。


生まれたときから何も持っていなかった私に、ラビアは餌という名の希望を与えた。


その餌に私が喰いついた結果、異形として堕ちた。


本当に私は、馬鹿だよ。


最悪な失恋。いや、失恋と言えるほどの甘いものじゃない。


失態。その表現が一番しっくりくる。


過去何百年の記憶を遡るだけで、死にたくなる。


泥とか糞尿を被ったときなんて、どれほど恥ずかしかったことか。


内臓が骨に刺さったときの痛みは、気を失いそうだった。


残虐性の高い記憶が次々と蘇る。


早く楽にさせて……。


これ以上、苦しみたくない。


そう思った瞬間、眼前の空間が歪む。


真っ暗な世界に灰色の映像が映し出された。


映っていたのは、恐怖に慄く表情を灯す女性。


両腕には、赤ちゃんを抱いている。大声で泣きながら、顔を女性の胸に埋めく。


赤ちゃんの甲高い泣き声が聞こえない。


音声なしの映像を眺めているような感覚だ。


女性は、壁の隅へ逃げて身体を縮める。


何かを叫んでいるのか。女性は、必死に口を動かす。


距離は、手を伸ばせばすぐに届く距離。


誰かの手が女性の顔へと伸びる。そして、顔を鷲掴む。


血塗られた手から伸びる人差し指に見覚えがあった。


爪の表面にのこぎりのような形が走る。爪は欠け落ち、歯で噛んだ跡がくっきり残っている。


間違いない。この手は、私のものだ。


小さい頃から、人差し指を噛む癖があった。だから、見間違えるはずがない。


ということは、いま映っているこの景色は、異形の視界ってこと?


でも、それなら何で自我が残っているの。


異形に化すと、自我が消える。異形の視界を見ることなんて不可能なはず。


異形は、徐々に力を込めているのか。腕に灰色の血管が、幾つも指先まで走る。


女性は、涙を流しながら喚いている様子だ。


私は、映像に手を伸ばす。


でも、私の手が女性や異形に届くことはなかった。


女性の顔が潰れた。


鼻、目元、耳、口から血が流れる。目玉が飛び出す。


鷲掴みされた跡が顔にくっきりと残り、女性は壁に凭れて事切れる。


女性から赤ちゃんへと視線が変わる


最悪な未来が私の想像に灯る。


異形の手が赤ちゃんへと迫っていく。


私は、必死に手を伸ばして映像へ近づこうとする。


足を動かしても前へ進んだという感覚がない。


全く距離が縮まらない。


私は、手を伸ばして"その子はダメ"と口を動かす。


"赤ちゃんという愛の結晶を壊さないで"と思った。


血塗られた異形の手が幼児の身体を乱暴に掴む。


純潔な光を灯した眼、薄い毛が生えた綺麗な髪、膨れ上がった麗しい頬。


清らかな部分が異形の血と赤ちゃんの涙で汚れていく。


赤ちゃんを頭上に掲げる異形。その瞬間、幼児の身体を離した。


映像から赤子の姿が忽然と消える。


映像へ目を凝らす。何かが現れるまで待った。


映像に変化が現れる。


一つの目玉が落ちた。


床に転がる目玉には、光が宿っていない。真っ暗で陰湿な暗が灯っている。


灰色の血と涙の残りカスが目玉に覆う。


眼球が小さい。まだ幼い赤子のものに見えた。女性の目玉とは、違う。


この眼玉は、赤ちゃんの眼。でも、赤ちゃんはどこ。まさか……。


そのとき、異形の手に想像を絶するものが映る。


引き千切れた幼児の可愛らしい腕。


最悪な現実を突きつけらて、私は頭を抱えた。


間違いない、異形は……私は……赤ちゃんを喰った。


幼児の姿が見えない。床には、小さな眼玉。異形の手には、引き千切った赤子の腕。


今ごろ映像の中では、骨を砕く音や肉を引き千切る音が合唱のように流れているのだろう。


幸か不幸、私は聴覚が潰れている。鬼畜な音が聞こえない。


だけど、景色は鮮明に見える。


赤子を喰ったという事実が、私の心臓と頭に痛みを走らせる。


鞭を打たれたような痛み。口元を手で押さえて、吐き気を抑える。


なぜ、こんなことになったの。


何度も頭の中で"なぜ"が噴き出る。


私は、頭の中で蠢く言葉を何度も口元へ運ぶ。


"早くこんな映像消えろ、消えて無くなれ"

"消えろ、消えろ、消えろ"


号哭を吐き散らす。


涙が無数に漏れ、頬に伝った涙が零れ落ちる。


何度も"消えろ"と口にする。


だけど、私の想いが誰の耳にも届くことはなかった。


その後も映像は流れた。


様々な人たちが異形の犠牲となる。


老若男女問わず、異形の手によって次々と命を奪っていく。


何度目かの惨劇映像から、私は膝を抱えた。


映像が視野に入らない状態で、何度も言葉を口へ持ってくる。


"ごめんなさい、ごめんなさい"


誰にも聞こえやしない言葉を呟く。


愛を受け止めたいだけなのに……。誰かの愛を奪うために生まれたんじゃない……。


私の想いと相反するように、映像はずっと、ずっと、愛を奪う光景で埋め尽くされた。


精神を壊すかのような勢いで、映像という名の拷問が行われる。


心を保てなくなった私は、願望する。


みんなの愛を奪う、私を殺して。もう……誰の愛も奪いたくない。


いつかのハレ―彗星を眺めていたときのように、私は願い続けた。


膝を組みながら、両手を組む。


身体が震える。動悸が激しくなり、息遣いが荒くなる。


断頭台の刃が上がるのを待っているような時間が進む。


三二五回目の願いを終えたころ、漆黒の世界に変化が起きる。


平衡感覚がない世界に揺れが生じた。


いや、私の錯覚だ。揺れなんて起こるわけがない。


しかし、揺れは徐々に強くなっていく。


顔を上げて、眼前に佇む映像を久しぶりに眺める。


黒と灰が混ざった映像だけが映っている。


どんな光景なのか不明。望遠鏡のレンズにノイズが走っているような映像が佇んでいた。


揺れが突然止まった。


嵐が吹き抜けたような出来事。でも、それだけ。


揺れのあとは何も起きない。いつものように、私は愛を奪いつくすだけ。


何も変わらない。どうせ私は、救われないんだ。


これからも私は、愛を奪う化物として生きて――。


突如、光が差した。


私の身体を包み込むように、光が奇麗を携えて降り注ぐ。


身体が熱くなり、激しくなった動悸が収まっていく。


私は頭上を見上げて、光の頂点に目をやる。


光の頂点から、か細い白い手が伸びる。


純白の手が段々と私に近づいてくる。


救われると思った。その白い手で私を殺してくれるのかと期待した。


確信はない。でも、漆黒の世界で起きた唯一の変化に、私は安堵感を感じた。


これで愛を奪わなくて済む、と。


ゆっくりと、手を掲げる。


手が触れる寸前、お互いの手が交差した。


えっ……。


白い手は、私の首元を掴んで力を入れる。喉の気管を潰すような勢いだった。


い、息ができない。


私は悟った。


これは、処刑だ。


光の世界へ連れて行くと見せかけて、漆黒の世界で私に罪を償えと言っているのだろう。


断頭台の準備はできている。あとは、刃を降ろすだけ。


断頭台の刃という名の白い手が、段々と黒に塗りつぶされていく。


光が小さくなる。やがて、小粒くらい小さくなる。


苦し紛れに私は、もう一度手を伸ばす。


何度でも罪は償う。私は生きている価値がない。死んだほうがいい。


愛を奪う簒奪者になるくらいなら死を選ぶ。


だけど、光の先には一体何があるの。どんな世界が待っているの。


次々に沸き起こる私の問いに、光は何も答えない


そして、光は消えた。


光の外側を知りたいという想いは、無慈悲に潰された。


もう、ダメ。息が限界……。


首元に圧を感じながら、意識が遠のいていく。


私は、最も叶えたかった願いを口にする。


"誰かに愛されたかった"


私の意識は、深淵へと落ちていった。

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愛されたい元天使と愛したい元巫女は、狂愛を誓う 剣崎 夢 @hiromu-46

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