3話 —馬鹿なハエ—
突然の告白に、ラビア様の手が止まる。
いつの間にか、中級天使共たちの嗤笑も止んでいる。
「私はラビア様と出会うまで、ずっと独りで生きてきました」
私には、親がいない。
生まれたとき、最初に飛び込んできた光景は漆黒に染まる森だった。
周囲を見渡しても誰一人居ない。生まれたときから、一人ぼっち。
耳に届く音は、親の言葉ではない。
私の血を求めて集る蠅の
裸足でも構わず走った。爪が割れても泥で汚れようが、気にしなかった。
「親が居ないから住む場所もない。路地裏とか……ゴミ箱の横で寝ていました」
天使が婚姻すると、大天使ガブリエル様の儀式により子を授かる。
子は最初から帰る家もあるし、親から暖かい食事を作ってもらえる。
でも私には帰る家も無ければ、食事もない。
毎日汚い場所で寝泊まりして、腐りかけたパンや泥水で空腹を凌ぐ。
「誰も助けてくれない。声を掛けても無視される。食事を恵んでもらおうとすると、殴られるし蹴られる。"穢れた天使"は消えろと罵られるだけ」
天界は悪い意味で、固定観念に縛られている。
親の仕事は子供が引き継ぐ、婚姻は同じ階級の天使同士など。
特に外見に関しては敏感で、白髪か茶髪の二択。それ以外の色は認められない。
でも、私は生まれつきの黒髪。
固定観念から外れた容姿。罵られる要素は十分になる。
親も居ないため、私の存在は一層目立つ。
手を差し伸ばす天使なんて現れなかった。
「次第に私は段々と心が崩れていった。そしてあの日、私はラビア様と出会いました」
汚い場所で過ごしながら、泥水を
そんな毎日を過ごしていると、ある想いが沸々と湧き上がった。
なぜ、私は他の天使と違うの?
私の前を歩く天使たちには、全て親が存在する。
愛を込めてくれる最愛の人が隣で寄り添ってくれる。
純白な白髪や可憐な茶髪を優雅に舞わせて、堂々と歩ける。
でも私には、親や最愛の人もいない。
醜い黒髪が不潔に乱れるだけの"穢れた天使"。
疑問が湧き上がるたびに自分が嫌いになった。
同時に私を産み落としたこの世界。
天界が憎く思えた。
「ラビア様があの時、手を差し伸べてくれたから今の私がいます」
微風が全身を撫でる。打撲痕や傷跡が滲みて、身体が一瞬震える。
周囲の草原を揺らし、心地よいさざめきがスズメの鳴き声のように小さく聞こえてくる。
良い意味で穏やかな風。悪い意味で寂しい風。
確かあの日も今と同じような風が吹いていた気がする。
私はいつものようにゴミ箱を漁って食材を探していた。
住居の窓から暖色系の光が、外に漏れだす光景が眼前に映る。
なぜ、みんなは家の中で温かいご飯を食べているのに、私だけ腐ったものしか食べられないの。
その時、味わったことのない匂いがした。
空腹の合図を知らせる音がお腹から鳴り出す。
発生源は、ありふれた二階建ての住居。一階の窓が若干空いている。
気付かれないように、窓の縁へ移動して中の様子を伺う。
一般的な三人家族。父親、母親、娘の家族構成。
部屋の装飾が質素、豪華絢爛な装飾もない。
中級天使の家庭だろうと思った。
円卓の卓上には、何かのスープだろうか。
スープの色は白い。人参、ジャガイモ、ブロッコリーなどの食材が入っていて、湯気が昇っている。
卓上の中心には、汚れていない綺麗なパン。
娘はパンを細かく千切って、先端をスープに浸す。
浸したパンを口へ入れた瞬間、娘の顔が笑顔に変わる。
娘の顔を見た父親と母親も笑顔になっていた。
あの娘は家族の輪の中で生まれて、私は輪の外。
なんで、私には誰も居ないの。
あの娘は、父親と母親から愛されている。
何で私は誰も愛してくれないの。
何で、何で。
次々と沸き起こる疑問。
同時にお腹が空腹の音を知らせ、口内に唾液が溜まってきた。
「あの時の私は、正常な判断が出来なかった。もし手を出していたら、生きていなかったかもしれない」
考えるより先に身体が動いた。
近くのゴミ箱から欠けたガラスを手に取り、住居の裏側に回り込む。
幸い、窓が半開き。侵入は簡単に行える。
お腹を刺せば致命傷に達するほど、先端が鋭利なガラス。きっと大量の血が溢れて死に至る。
狙うは、娘。
両親は混乱するだろう。その隙にパンを盗む。スープも盗めたら大成功。
私は何も悪くない。悪いのはこの世界。こんな私を生ませた世界が悪い。
私が持ってないものをみんな所持している。
見守ってくれる親、苦しいときに支えてくれる愛、湯気が立ち込める美味しい食事、柔らかい布団で寝れる生活、魅力的で美麗な容姿。
少しくらい奪っても問題ないよね。
口内に溜まった唾液を飲み込む。
ガラスを持った掌から血が溢れ出て、雫となり零れる。
不思議と手に痛みはない。
まあいっか。
どうせ血を流しても私の手を握って助けくれる人なんて居ないし。
風が吹く。弱々しいほど、頼りない風。前髪と頬を撫でられるている気がした。
住居に侵入しようと一歩踏み出した瞬間、背後から勇ましい声が聞こえた。
咄嗟に振り返る。
翼を生やした天使が一人、私の前に佇んでいた。
中級天使。いや、雰囲気から察するに上級天使にも見えた。
私より数倍もある高い身長、筋肉が盛り上がった強硬な肉体、鋭く尖った目つき。
これがラビア様との出会いだった。
「ラビア様は私に言いましたよね? "お前を助けてやる"と」
ラビア様の表情は微動だにしない。
冷徹な視線を崩さずに私を見下している。
出会った日も、こんな冷たい眼をしていたような気がする。
ラビア様の瞳を見つめる。
「食事、仕事、服、部屋。最低限の生活をラビア様から頂きました」
あの日以来、私はラビア様に仕えてきた。
生活も大きく変わった。
パンや豆などの質素な食材、寝不足に悩まされる仕事、埃が溜まった物置部屋、糸のほつれが激しい服。
周囲と比べたら生活水準は、劣っているかもしれない。
でもラビア様は私を助けてくれた。
穢れた天使と罵られた私を。
白髪や茶髪ではない黒髪の私を。
親も居ない出生不明な私を。
ラビア様は手を差し伸べてくれた。
「私は誓いました。全てを与えてくださったラビア様に恩返しすると。だから、異形に堕ちて人を殺せと言うのなら」
手を握って力を込める。
「私は喜んで人を殺しましょう。……ですが」
ラビア様がこの言葉を聞いてどんな表情をするのか、考えると怖かった。
手を脱力させて、俯き目を瞑る。
「異形に堕ちる前にお聞かせください。……私を愛してくれますか? 」
ラビア様は、常々仕える天使たちに愛を伝えている。
"お前のことを愛しているぞ"と言葉にしたり、一夜を共に過ごす交じりといった行為で愛を身体で表現するなど。
でも、私は一度たりともラビア様から愛を頂いたことがない。
私より後に仕えた下級天使でさえ、ラビア様から愛を頂いている。
なぜ、"私には愛を伝えてくれないの"と不思議に感じた。
最初は、愛の基準に達してないからだと考えた。
それなら無理難題な要求に応えられるように、努力しようと決心した。
苦しくても……痛くても……頑張った。
でも、百年、千年、一万年、五万年と幾年の時を経ても、ラビア様から愛を頂いていない。
「正直異形に堕ちるのはとても怖いです。死に対する怖さではありません。私という存在が消えて、愛するラビア様を忘れてしまうのが恐ろしい。だけど、ラビア様が愛してくれるなら私は頑張れる。ラビア様のために、命を捧げられる」
目から涙を零しながら、最期の愛情を伝える。
「ラビア様。私は、ずっとずっとずっと……ラビア様を愛しています」
私の愛は伝えた。あとはラビア様の愛を待つだけ。
祭壇場に
中級天使たちは、表情一つ変えずに無言で佇んでいる。
ラビア様は、口を横一直線に結んで、冷たい視線を私に向ける。
私は
そのとき、ラビア様の目元が柔らかくなる。
鋭い目元が穏やかになって、お伽話に出てくる王子様のような優しい雰囲気が眼に宿る。
ラビア様は、手で私の頬をゆっくり包む。
幼い子供を介抱するように、目元に掛かった私の前髪を分けて、頬に伝う涙を親指で拭き取る。
「そこまで……俺のことを……」
全身から熱さを感じた。
まるで弱火のオーブントースターで焼かれているような熱さ。
「本当にお前は……」
愛が心から漏れる。もう我慢できない。
身体が一定の間隔で痙攣を起こす。
なぜか、股が疼く。
あぁ、ラビア様……愛して――。
「馬鹿なハエだ」
「えっ」
頬を包んでいた手を、私の右目に移動させた瞬間、右の視界が闇に堕ちた。
自分が発声しているのかと疑うほどの声量。
アァァという言葉に全て濁音が付いたような奇声が口から出る。
顔の右側が焼けるように痛い。意識が飛びかけそうだった。
霞んだ左の視界でラビア様が握っている手を見つめる。
ラビア様は、ゆっくりと手を広げる。
掌に乗っていたものは、眼球。
白く塗られた箇所は、細い線が無数に赤く走る。
瞳孔部分の黒目は、生の光を失い純黒に染まる。
眼球全体には、粘着性の高い血が付着していて量がおびただしい。
無理やり眼球を抉り取ったと理解するのに、数秒を要した。
ゆっくりと視線をラビア様の顔に移す。
お伽話に出てくる優しい王子様の顔は、どこにも居なかった。
冷徹でゴミを眺めるような蔑んだ顔。
目元は鋭く冷たい。怖いと言う二文字が頭に浮かんだ。
ラビア様は、不気味な笑みを口元に浮かべる。
「お前のことなど愛していない」
あいしていない。
吐き気が込み上げる。
我慢出来ずに、口から吐瀉物が漏れた。
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