神子の命 4

「ねぇ、福子ちゃん。本土にはたくさんの子供たちがいるんだってよ。昔の宝足島もそうだったんだって」

 小学校に通い始めた洋江は物心がついたばかりの妹、福子にそんな話をよく聞かせていた。

「圭介兄ちゃん、いるでしょ。志々目のおうちの。圭介兄ちゃんがそう言ってた」

「ほんとう? すごいなぁ。わたし、おともだちいっぱいほしい!」

「本土の学校へ行けるようにお勉強、頑張らなきゃね」

「うん!」

 幼い姉妹は海辺でよく貝殻を拾いながらそんな話をするのだった。

 生まれ育った島は海が綺麗で、空気の澄んだ穏やかな島だった。それ以外に何もない島だった。洋江と福子以外に子供はおらず、過疎化が進んでいる。

 この頃、関東の山奥に住む親戚の圭介がたまに遊びにくるので、三人でよく遊ぶことがあった。洋江は圭介のことが好きだった。初めて見る同年代の男子にときめかないはずがない。また、同様に福子も圭介のことを慕っていた。

 しかし、

「洋江ちゃん、福子ちゃん。もう俺、こっちに来れなくなるみたい」

 ある夏の日、大人たちが難しい話をしているので海辺で遊んでいたのだが、急に圭介が暗い声で言いだしたのだ。

「どういうこと?」

「なんで? 圭介兄ちゃん、なんで来れなくなるの?」

 二人の驚きに、圭介は困ったように首をかしげる。

「知らないよ。でも、もう用事がなくなるから行かないんだって」

「やだよぉ……圭介兄ちゃんと遊べなくなるのやだぁ」

 福子が声を上げて泣く。洋江は福子をなだめたが、一緒になって涙を流した。

 そうして、圭介は二度と島を訪れることはなかった。代わりに、一人の少女が帯刀家に住むこととなった。

 名は分からない。聞いたような気がするが、誰も呼ばないので覚えていない。彼女は二人の妹だと言われた。年は福子と同年代か一つほど下か。唐突なことだったので、詳しいことははっきり聞かされていなかった。

「ねぇ、福子ちゃん。あの子、全然笑わないね」

 洋江は部屋の隅でじっと座り込んでこちらを見つめる新しい妹を不気味に感じていた。

 畳の部屋にちゃぶ台と階段箪笥、洋服箪笥と押入れがあるだけの部屋が子供部屋である。その中に急に押し込まれた彼女も戸惑っているのだろうが、洋江と福子も困惑するばかりだった。

「洋江ちゃん。あの子、おしゃべりできないの。お人形さんみたい」

「ふうん……お父さんはどうしてあの子を養子にしたんだろ。女の子ばかりいても意味ないじゃない、ねぇ?」

 洋江は考えた。

 両親はメギという女神を祀る社の管理をしていた。年に一度、春に祭りを行う際に取り仕切る以外は常に社にこもっていたが、そう言えば洋江が小学校に上がる頃にはその日課もなくなっていたと思い出す。

 父は娘たちにはめっぽう甘い。母は気弱で影の薄い人間だ。家は島で一番大きく、島民たちは困ったことがあれば帯刀家に頼る。島民たちからは「洋江様」「福子様」と呼ばれており、二人は甘やかされて育った。それが急に現れた養子の妹も同様に島民たちから受け入れられている様子で、菓子を与えられている現場を目撃したことがある。

 それに先日、洋江は初めて父から打たれた。少女が夕飯に手を付けるのが遅かったから、勝手に彼女のおかずを取ったのだ。すると少女ではなく父が声を荒らげて洋江を叱った。

「だっておかしいじゃない? たかがおかずを取っただけなのに」

「ふぅん……わたし、よくわかんない」

 福子はまだ幼く、洋江の相談相手には不向きだった。

 あの少女は一体何者なのだろう。それが分かる時がくるのだろうか。

 洋江はたびたび学校をズル休みし、普段の〝あの子〟がどんな生活をしているのか探ることにした。


 少女は両親から名を呼ばれることはない。常に放置されており、ただ食事の時のみ両親が世話を焼いていた。

「たくさん食べなさい」

 食事中が家族らしい団欒の場だった。母は洋江と福子とは一緒に風呂に入るが〝あの子〟とは風呂に入らない。彼女は週に一回、海で体を清めているのを洋江は目撃した。その時に洗濯物も自分で洗うらしい。家族に干渉せず、また両親も干渉せず、まるでいない者として扱っていた。そんな日々が続き、洋江が小学校高学年に上がった頃、福子が小学生になった。しかし、もう一人の妹は学校に通う素振りはない。やはり、放置されていた。

 そんな彼女が一度だけ、腹痛を訴えたことがある。

「ねぇ、洋江ちゃん」

「ん?」

「あの子、お腹痛いみたい」

 福子がコソコソと訊いてくるが、洋江は彼女を一瞥し「ふうん」と返事だけした。少女は畳の上で転がり、脂汗を浮かべて呻いている。

 そんな時、たまたま洗濯物を運んできた母が見つけた。

「どうしたの!」

 聞いたこともないほど甲高い叫びを上げる母に、洋江と福子は驚いた。母は彼女を抱き上げて部屋を出た。洋江と福子もおそるおそるついていく。

「大変だわ、うみこが……!」

 母ははっきりとそう言った。

「うみこ……? あの子の名前、うみこだったっけ?」

 福子が訊く。洋江は首を傾げた。

「うーん、そうだったっけ……? そうなんじゃない?」

 両親は診療所へ運んだまましばらく家を空け、戻ってきたのは翌日の昼だった。洋江と福子が学校から戻ると、ケロッとした顔で少女は畳の隅に座っていた。

「うみこちゃん、治ったの?」

 洋江は試しに話しかけてみた。福子はぎょっとしながら、姉と一緒にこわごわ彼女を見る。少女はコクリと頷いた。

「そう……て言うか、あなた、うみこって名前なの?」

 返事がかえってきたことに驚きつつ嬉しくなった洋江はもう一度尋ねたが、彼女はもう反応のない人形と化していた。

 仕方なく、洋江と福子は彼女を「うみこ」と呼ぶことにした。これに対し、両親は何も言わなかった。


 中学生になると、父は洋江を社の中に招くようになった。社の中にはメギの壁画があり、祭りの起源でもある賊徒退治の様子がおどろおどろしいタッチで描かれている。ここで何をするかと言えば、父とわずかに話をするだけだった。主に体調のことを訊かれていたので答えるのみである。

 しかし、家の中での行動範囲が広がったことに優越感を持っていた洋江は、父の目を盗んで蔵へ入っては家のことを調べようとしていた。そこで見つけたのは、埃をかぶった汚い和書だった。顔をしかめて開くも、文字がまったく読めない。洋江は古文がいまいち苦手だったので読み取れるものがなく早々に諦めた。

 帯刀家にはいくつか決まりがある。両親と話ができるのは食事中だけ。母に甘えていいのは入浴のときだけ。しかも七歳になったら一人で風呂に入らなければいけない。両親に質問をすることは許されない。社に近づいてはいけない。大人たちの会話を盗み聞きしてはいけない。母を呼ぶ時は「お母さん」と呼んではいけない。

 家が一般的ではないのだと聞いたのは、圭介が遊びに来ていた時である。だから、この家が普通ではないのだということは認識していた。

 幼い頃、圭介の両親に『たくさんお勉強して、いい学校に入れるようになったら本土に行けるかもね』と言われ、その言葉を信じて頑張った。常に満点の成績を収めたものの両親は洋江の成績に無頓着だった。伸び悩む福子の成績ばかり気にし、うみこに関しては相変わらずである。

 その当時、島の外から数人の研究者がやってきていた。海辺で福子と遊んでいると、声をかけられたのだ。

『この宝足島のことを調べているんだ』

 代表者だというその男は風見史郎と名乗った。島民以外の人間と話をしたのは初めてで、洋江はすぐさま興味を持った。蔵から蔵書をいくつか持ち出し、風見に手渡して読んでもらう。

 彼はいたく感心し、この島の調査したいと他の調査員たちを説き伏せ、長期滞在することになった。彼はとくにメギによる島民たちの能力についてを知りたがっていた。

『私、誰にも教えてないけれど、不思議な力があるんです』

 その秘密は誰にも教えてはいけない決まりだったが、もしかしたらこの学者先生の推薦で本土の学校に通えるかもしれないという期待が膨らんだのでつい口にした。

 洋江には幼い頃から自分の記憶や意思を無言のまま、他人に移すといった能力を持っていた。だから喋らずとも、福子とは意思疎通が取れていた。また福子を意のままに操るといういたずらをよくやっていた。

 そのことを得意げに話し、彼にもまた自分の意思を伝えた。風見は大変驚き、しばらく島に滞在した。風見は島民たちに様々な話を聞きたがった。当然、帯刀家を訪ねることもあった。

 洋江の思惑通り、彼の推薦で本土の学校へ通うことができるかもしれない──そんな期待をふくらませるも、風見は父から追い返されてしまった。激しい剣幕で怒鳴る父に、洋江は恐れをなした。風見も驚いてはいたものの、慣れている様子で洋江に笑いかけてきた。気まずそうに笑う彼に洋江は申し訳なくなり、しばらく二人で海辺で佇んだ。

 やがて風見は重たい口を開く。

『君のお母さんは、本当にあの人なのかい?』

 なんでも、女親というのは家庭に一人しかいないらしい。あらゆる属性があるものの、一般的に〝母〟とは子を生み育て、養育する女性のことだ。

 呆然とする洋江に、風見は重い口を開いた。

 昔、この島にはメギというトリの神がいた。島民たちはトリに生贄を捧げることで不思議な力を授かっていた。しかし、生贄を島民から出さなくてはならなくなってからは島は災いに見舞われた。力を授けられた者たちは気狂いとなり、島民たちを襲う。なんとかしてメギを鎮めるために島民たちは一人の神子を御神体にすることで事なきを得た。その御神体は社を守る家の者が務め、また強力な能力者が担う。能力を持たない者はメギに一生尽くす役目を負う。

 またメギは母という存在を許さない。メギこそが島民たちの母だからだ。

『おそらく、お母さんのことを〝お母さん〟と呼んではいけないという理由はそこからきているのかもしれないね。時代の流れには逆らえないから、便宜上〝母〟と呼んでいるんだろうが、本物の産みの親を母とせず、また育ての親も変えるという……今もそうなのか、それを確かめるために帯刀さんに直接伺いかったのだが……二度と来るなと言われてしまったよ』

 だんだん彼の声が遠のいていく感覚になる。最後の方はほとんど聞いていなかった。

 洋江は最近、父が自分の体調ばかりを心配していることに気がついた。あれはおそらく、自分を御神体にする気なのだ。

 島から出られない。

 化物に体を奪われることよりも、その事実が一番のショックだった。


 風見と別れた後、洋江は福子にすがった。

「福子ちゃん、あの人たちを殺さなきゃ」

「あの人たちって誰?」

 福子はキョトンとした顔で姉を見た。洋江はゆっくり時間をかけて福子を説得した。毎晩、眠る福子の額に顔をうずめるようにして記憶を送り込む。

 ──お社にあるメギ様、知ってるでしょ? あのメギ様をね、私の体の中に入れるんだって。そうしたら私はもう人じゃいられなくなるの。

 ──ほら、お父さんたちが私を生贄にしようって話してる。いい? 私が生贄になって、化物になったらそのお世話をしなきゃいけないんだって。それがあなたよ。

 ──私たちはね、ただの器なのよ。人間なんかじゃない。人間だと思われていない。だからね、頑張っても意味がないんだよ。本土にも行けない。一生、この島から出られない。

 ──ねぇ、福子ちゃん。分かったでしょ? 私と一緒にあの人たちを殺そう?

 ──そうすれば、私たちは自由よ。


 ***


 社に火を放ったのは、島全体が寝静まる真夜中だった。すでに志々目家には連絡を入れている。

 これから島を出るので、本土で待っていてほしい──そんな連絡を受けた圭介は電話の向こうで慌てていたが、彼の制止を聞かずに洋江は家の中にも火を放った。

 父と母だった人たちは寝静まっていたところを思い切り殴りつけた。返り血が洋江の顔と髪を濡らした。両親は苦悶の表情のまま洋江と福子に手を伸ばしていた。しかし、迫りくる炎からは逃げられず、苦しみながら息絶えていく。

「お父さん……お母さん……」

 福子が涙を堪えながら逃げ出す。洋江は島を囲む注連縄に火をつけた。またたく間に火は小さな島を覆い尽くし、あちらこちらから怒号が聴こえてくる。そんな地獄絵図のような世界を福子は呆然と眺めていた。

「これで、私たちは自由よ」

 洋江は福子の手を掴んでボートへ乗り込んだ。


 真っ黒な波に揺られている。背後では黒煙が上がる。炎がじゃくじゃくと木材を喰む音が鼓膜を突き抜ける。生々しい惨劇が現実のものだと実感していく。

「大丈夫、任せて。私が守るから」

 洋江は福子の背を撫で、いっそう強く抱き寄せると額に唇を押し付けた。瞬間、福子の全身がビクリと跳ねた。あえぐように懇願する。

「ひ、ろえ、ちゃん……まって……」

 福子の目がとろんと溶けていく。彼女はとても疲れている。たくさん眠れば、落ち着くだろう。

「大丈夫、大丈夫。だからね……もう、忘れなさい」

 その声の向こう側で、化物の啼声のような音が轟いた。

「さぁ、行きましょう」

 洋江の言葉とともにボートが動き出す。を連れてくるつもりはなかったが、帯刀家に囚われた哀れな生贄だ。放っておくことができなかった。

 彼女が漕ぐボートが島から離れていく。

 これで私たちは自由だ。もう誰にも縛られず、普通に生きることができる。

 洋江は清々しい空気を取り込んだ。


 ***


 記憶が飛ぶ。


 ***


 白い雪が舞い降りる。この冷たさは体を冷やしてくれるので、メギはわずかに活動が鈍くなる。

 しかし、洋江の意識はすでにメギと同化していた。

「お母さん」

 そう呼ぶ、幼い息子の声が何より耳に心地いい。

 この時間が長く続けばいいのにと願うも、来年の雪を見る日は訪れなかった。

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