天賜の肉 5

 同時刻。福岡。

 甲斐は大学の研究室で絶句していた。

「──マジか……」

 衝撃の事実を知り、つい気が緩む。体の中に降ろしたが一気に消え失せ、辺りが静けさに包まれる。

「甲斐くん……」

 それまで固唾を呑んで見守っていた品のいい男が冷や汗を浮かべながら話しかける。その瞬間、甲斐の腕が不自然な方向へ曲がった。

「うぁ……し、くった……っ」

 右腕の感覚がなくなり、左手で抑えるも無意味なことで、甲斐は痛みに呻いた。


 ***


 翌朝、絵莉と椎羅は一軒の家の前で待ち伏せしていた。白壁のキレイな家からブレザー姿の少年が現れる。首には紺色のマフラーを巻いており、口元まで隠している。真っ黒な髪の毛は真っ直ぐに整えられ、利発そうな顔立ちだ。

「田端、侑希くん?」

 絵莉が一歩進み出て少年に声をかける。彼はビクッと肩を震わせて振り返った。殺気立った目が絵莉と椎羅の様子を捉える。彼は椎羅の姿を見て後ずさった。足がもつれ、その場に倒れそうになり、絵莉は慌てて少年の腕を掴んだ。

「危なっ、大丈夫かい?」

「……な、なんですか、あなたたち」

 侑希の表情は恐ろしいものでも見るかのように落ち着きがない。その異様な怯え具合に、絵莉はキョトンとした。昨夜襲ってきた者と本当に同一人物なのだろうか。

 すると、椎羅が呆れたように言った。

「多分、僕が怖いんだと思いますよ」

「そうなの? なんで? 椎羅くん、昨日この子にどんなお灸をすえたの?」

 素っ頓狂な声で言うと、椎羅は困ったように首筋を掻いた。

「そんなひどいことはしてないんですけどね……でもまぁ、動きを止めた時に怖い思いをさせたのかもしれません」

「あっそ……まぁいいや。田端くん、ちょっと今から話せる?」

 絵莉はさっさと本題に入った。侑希は挙動不審である。

「言っとくけど、騒ぐと困るのは君だからね。矢島竜聖殺しの件、知ってるんだから」

 その言葉に侑希は小さく「ひっ」と悲鳴を上げた。

「ご、ごめんなさい……僕、僕もどうしてあんなことをしたのか……分からなくって」

 そう言って彼は「ごめんなさい」と連呼し、涙目になる。絵莉と椎羅は顔を見合わせた。それからまるで小動物を相手にするようにこわごわ話しかける。

「大丈夫だよ。私たちは君を助けに来たんだ。君の意思であんなことをしたんじゃないのは分かってる」

「ほ、本当ですか……?」

「あぁ、ほんとほんと。むしろ君も命を狙われちゃうからさ、ちょっと学校サボってお姉さんとこにおいで」

 優しい声音で言うと、侑希の目から涙がぽろりと落ちていった。一方、横にいる椎羅は絵莉を横目で見やって溜息をついた。その態度をいち早く察し、絵莉は椎羅を見る。

「なんだよう」

「いえ……なんか、傍から見たら危ない人だなって思って……」

「うるさい。言っとくけど、君も共犯なんだから」

 すかさず言い返せば、椎羅「はいはい」と言わんばかりに苦笑した。

 それでもなお侑希は警戒心を張り巡らせたままだ。

 絵莉は侑希の腕を取り、椎羅は背後で二人を護衛するように司城探偵事務所へ向かう。

 同じ町内なので、そう時間はかからずに侑希を事務所に呼び寄せることができた。

「なんか、椎羅くんが中学生の時のことを思い出すな」

 ソファに座る侑希は縮こまっており、顔を合わせようとしない。そんな彼の様子を見て絵莉はほのぼの笑いながらホットココアを出した。椎羅はデスクの椅子に座って少年の後ろ姿を見ている。

 侑希の前に座り、絵莉はマグカップに注いだコーヒーを一口含むと、やにわに一言呟く。

「矢島竜聖」

 その名前に、侑希はビクッと肩を震わせ、持っていたスクールバッグをギュッと抱きしめた。

「殺しちゃったんだねぇ……そいつのこと、嫌いだった?」

「き、嫌い、というか……上代さん、っていう元クラスメイトをひどい目に遭わせた、から……」

「なるほど。んじゃ君、正義のヒーローじゃん。彼、なかなかヤバいヤツだったらしいしねぇ」

「………」

「ま、聞きたいのはそういうことじゃないんだ。私たちは君を警察に突き出したりしない。突き出したとしても証拠がない。君が自首したいなら止めはしないけれど」

「あの、どうして僕が犯人だと……?」

 侑希が恐る恐る訊く。すると、背後にいた椎羅が口を開いた。

「昨夜、僕らと会っただろう。覚えてないのか?」

「お、覚え……はっきりとは、覚えてないです。僕、多分、おかしいんです。最近ずっと頭のどこかで声がしてて、気がついたら人を殺すことを考えてて……」

 侑希の言葉は黒田や河井と同じような証言だ。絵莉と椎羅は同時にうんうんと頷いた。その訳知り顔の大人たちの様子に、侑希はあわあわと二人の顔を交互に見る。

「し、信じるんですか? 僕のこの変な話……いや、おかしいよ。信じてもらえるはずがないんだ。普通じゃないし」

「うん、普通じゃないよね。でもあいにく、私たちはとっくにその現象についていくつか調べているんだよ。君に辿り着いたのもこの奇妙な現象によるもの。君に起きているそれ、実はもう何年も前から始まっていたことなんだ」

 絵莉はそっけなく言うと、コーヒーをもう一口飲んだ。

「詳しく話してあげよう。そうグズグズしていられないし」

 そうして、ここまでの経緯をかいつまんで話して聞かせた。

 まずは久留島玲香のこと。それから足立隆治、河井節生、白源則子、黒田香道、そして椎羅の身に起きた過去。侑希は驚きのあまり口をあんぐり開けていたが、その頃にはすでに怯えは失せていた。だんだん前のめりになり、真剣に話を聞いている。

「そして、このすべての元凶が椎羅くんの叔母、帯刀福子のある野望──なんだと思う。君たちは化物の臓器を埋め込まれ、人を殺す道具にされている。それが今分かっていること」

 絵莉はそう締めくくると、ふぅと息をついた。侑希は頭を抱えた。

「そんな……酷い……」

「気の毒だとは思う。でも、これ以上犠牲を出すわけにはいかない。私と椎羅くんは福子を見つけて倒し、その化物を退治したいんだ」

 出てきた言葉は気休めだった。退治できる保証はない。さらに退治したところで彼らが助かる保証もない。

 絵莉は話しながら、頭の中で状況を整理していた。なんとなく思う。化物を退治するには彼らを殺さなければいけないのではないか──寄生された人間ごと死ななければこの恐ろしい事件は解決しないのではないか。そんな想像をし、寒気を覚える。絵莉は頭を振った。

「田端くん。君はいつ、どこの臓器を移植手術をした?」

 訊くと彼は小さな声で「腎臓です」と答えた。

「小学一年の時、腎臓を」

「なるほど……小一ってことは……足立が死んだ頃か」

 絵莉は頭の中で計算し、ぶつぶつと呟いた。椎羅も顎をつまみながら言う。

「腎臓……ということは、河井さんは片方の腎臓を移植されたんでしょうね」

「そういうことだろうね」

「考えてみれば当然です。腎臓は二つあるわけだし、二つとも移植したわけじゃない。そもそも河井さんは膵臓も移植手術を受けているんですし」

「うん。ただ、どうして先に手術を受けた椎羅くんをすっ飛ばして田端くんが取り憑かれているのか……そこが謎だな」

 絵莉は頭を乱雑に掻き、天井を仰いだ。

「それは、やっぱり椎羅さんが叔母さんの家族だからじゃないですか?」

 言ったのは侑希だった。注目すると、すぐさま顔を伏せる。

「どういうこと?」

 絵莉が前のめりになる。侑希はさらに縮こまり、早口に言った。

「家族なんだから、殺したくないんですよ。きっと。そ、それに化物は肉体を取り戻そうとしてるんです、よね? 目がなくてもいいんじゃないかなぁ……って」

「そういうもんかね……食べ残していた腎臓がいたからそっちに心変わりしちゃう、みたいな? 気まぐれだなぁ」

「まぁ、化物の考えることは僕らに分かるはずがありませんから」

 絵莉の言葉にかぶせるように椎羅が言う。絵莉はなるほどと手を打った。

「考えたところでどうしようもないことか……家族、ねぇ」

 含むように言うと、椎羅は腕を組んで首を振った。そんなわけないだろとでも言いたげだが、侑希の言葉を真っ向から否定することはなかった。

 しばらくの沈黙後、侑希はおずおずと手を挙げた。

「あの、一旦家に帰ってもいいですか?」

「うん?」

「要は外に出なければいいんですよね……僕、しばらく学校を休みます。人を殺さないように部屋から出ません。そうすれば大丈夫ですよね?」

 その提案に、絵莉と椎羅は黙り込んだ。確かに彼が外に出なければ被害を受ける人間はいなくなるだろう。家族を除いて。彼がどこまで正気でいられるのか今の段階では判断できないが、ここにずっと置いておくわけにもいかない。ひとまず、経過を見たほうがいいだろう。幸い家は近所だ。

「……じゃあ、異変があったらすぐ連絡して」

 絵莉は自分の連絡先を侑希のスマートフォンに入れさせて、家に帰した。

 そして、二人きりの事務所で顔を突き合わせる。

「──どう思う?」

 絵莉の問いに、椎羅は唸った。

「僕の目は彼の心までは視えません。今のところ危険はなさそうに見えますが、用心しておいたほうがいいでしょう」

「そうだね……」

 絵莉はタバコを掴み、火をつけた。

「あの子、人一人殺してるんだもんねぇ……いくら警察の目をかいくぐっているとは言え、いくら本心じゃないとは言え、人を選んで殺している時点でもうヤバいんだよなぁ……」

 ただ、人を選んで殺しているということは常に正気だということだ。理性をなくして誰彼構わず殺すようなリスクを負うことはしないのだろう。今のところは。

「昨日も話してて思ったんですが、人を選んで殺しているなら久留島と足立、河井さんもそうです」

「でも人を殺す時は白源みたいに正気じゃないわけでしょ。まぁ、河井さんは未遂だが……でも、田端くんは違う」

 絵莉は笑みを浮かべながら煙を短く吐いた。昨日はまとまらなかったものが、ようやく形を帯びてくる。

「『覚醒』とでも言うのかな……人を殺したい衝動が出た段階でもう殺してる。早いと思わない?」

 椎羅は黙り込んだ。絵莉は肺に煙を蓄えて、今度は長く吐いた。

「これは持論なんだけどさ」

 そう前置きすると、椎羅は先を促すようにこくりと頷く。

「人を殺したくなるほどの衝動って、相当つらいものだと思うんだ。私、父さんが死んだ時すぐは復讐心なんて湧かなかった。白源を恨むようになったのは、私の体がおかしくなった頃。精神が病んで、それからだったんだよ」

 絵莉は「ははは」と渇いた笑いを交えながら続けた。

「どうして私がこんなつらい目に遭わなきゃいけないんだろう……あいつが父さんを殺さなければ、久留島玲香が母さんを殺さなければ、って思えば思うほど体はおかしくなっていくし、恨みも募った。でも、白源が死んだ後は、もう消化不良っていうか……」

 灰を携帯灰皿に落とし、短くなったタバコをもみ消す。絵莉は残った煙を吐きながら静かに続けた。

「あの時間、私はとてもつらかった。幸せそうな連中を見るだけでうんざりしたし、死ねばいいとも思った。でも、そうしたくないから……だから、おかしくなる。心がちぎれていく感覚だった」

 無言の呪いを周囲に撒き散らしていたあの頃を思い出すと未だに脳の奥が鈍く痛む。対し、口は笑みを浮かべている。感情と表情はつなぎ目を間違えたかのように噛み合わないのもいつものことだ。

「事件を調べていくうちに久留島たちも同じだったんじゃないかなって思うようになった。みんな、人を殺したくなかったんだ。だから抗った。全員が覚醒した時期や期間がバラバラなのはそういうことかもしれないし。でも、それすらも化物の思うつぼなのかもね」

 人の心だけでなく体まで蝕む化物。人間の畏怖を食い物にし信仰させる、そんな存在。

「化物も成長してきているのかもしれませんね……もうほとんどの肉体を手に入れてるわけですから、それによって黒田さんも田端くんも症状が違うのか……根拠はないですが」

「確かに、黒田さんの時は人を殺すより生肉を食べたがってた。飢餓感の方が強くて、人を殺す衝動は少なかったよね」

「黒田さんはあまり人を憎んだりトラウマを持っているようではありませんでした。だから、一人だけ症状が違ったのかもしれない」

 椎羅の意見に、絵莉は目を見開いた。

「化物と適合していた……? だから河井さんよりも鮮明に洋江のことが見えた、とか?」

 すると、椎羅は納得するように頷いた。

 それこそ臓器移植手術と同じだ。適合しない臓器に拒絶反応を示すように、彼らは化物の意思を拒絶していたのだ。

 そうなると、田端侑希の存在がひときわ不気味に感じる。侑希は黒田以上にあの化物と近い存在──

 絵莉は沈んだ気持ちでデスクに置いていたノートパソコンを見やった。甲斐から連絡が届いている。

「お」

 無理に明るい声を上げると、椎羅が横に座った。

「おいおい……なんかいろんなPDFが送られてきた……ちょっと、プリントアウトする」

「スマホにも送ってください」

 すかさず言う椎羅に、絵莉は「おっけー」とゆるく返した。

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