天賜の肉 4

 田端たばた侑希ゆうきは自室のベッドに寝転んで天井を眺めていた。

 青を基調とした家具とカーテン、ベッドはすべて母の趣味嗜好による。自分で選んだことはなく、そもそもこの部屋で過ごす時間が少なかった。とはいえ、自分の部屋や家族に興味はない。これまでの生活の中心は主に病院と学校だからだ。

 幼少期は活発だったが、小学校へ上がってすぐ大病を患い入院生活を余儀なくされた。すでに友達グループができているクラス、いくらやっても追いつけない授業、参加できない体育、昼休みの校庭でボール遊びができないといったストレスが溜まる一方で、かつての明るさはなくなった。何にも興味を持つことができなくなった。

 友達たちは気を遣い、室内でできる遊びを提案するが、それも煩わしく思うようになってからは友達を作ることをやめた。

 病気に関しては、臓器移植手術を受けた後は良好で、継続的に通院し薬を飲まなくてはならないが健康状態に異常はほぼなかった。

 無事、中学高校に上がれば今度は学校での立ち居振る舞いが重要で、侑希は常にクラス内では目立たない生徒というポジションに収まっている。今は難関大学への進学を目指して勉強漬けの毎日を送っていた。

 そんな息子のことを両親は褒め称え、ある日、テレビの取材を受けた。『難病を乗り越えた少年の新たな挑戦』というパッケージで一度はメディアに顔が流れたが、両親の喜びようにかなり引いた。結局、そういうのは両親の自己満足に過ぎなかった。

 同時に、侑希は自分は中身のない人間だということに気が付いた。

 決められた制服を着て、決められた髪型をして、決められた時間に学校へ行き、決められた時間割で黙々と勉強する。勉強以外考えなくて済むから楽でいい──はずだったが、人と関わりを持ってしまったことで自分の存在意義が揺らいだ。

 そんなある日、ただ席が近かっただけの女子生徒が話しかけてきた。

『ねぇ、田端くんってこの前、テレビに出てたでしょ? わたし、ちょうどその番組見ててさぁ。あ、親が見てたんだけどね。でも、ちょっと感動しちゃった。わたし、超泣いた。今まで大変だったんだねぇ』

 上代かみしろあおい。その存在は、この面白みのない生活に彩りを添える花のようだった。

 ──さくらちゃんに似てるな。

 と、最初はそう思っていた。さくらは入院生活の時によく話をしていた同じ小児病棟の子供で、一つ年上の女の子だ。しかし、彼女はもうこの世にいない。他人のそら似であることは分かっている。それでも、懐かしさを感じずにはいられず、それから何度か話しかけようとしたのだが、「こんな自分が話しかけてもキモいだけだよな」と自虐に走るだけで行動に移すことはできない。

 ただ思いが募るうちに彼女のことを激しく意識するようになった。

 彼女と目が合うだけで今までに経験したことがないほど心臓が跳ね、挨拶でもかわせばその日一日、機嫌が良くなってしまう。一般的でありふれた恋心を自覚するのにそう時間はかからなかった。時折、勉強に行き詰まるとベッドに寝転がってため息をついては上代葵のことを考えていた。

 しかし、上代葵はクラス内での評判が悪かった。男に媚びている、ぶりっ子だ、そういう話がたびたび耳に入る。確かに彼女は男子に対する態度と女子に対する態度、教師に対する態度がそれぞれ違うように思えた。男子にはあざといくらい笑顔を振りまくのに対し、女子にはそっけない。むしろ地味な容姿の女子をけなすこともあった。教師には男子に対する態度とは若干違い、世話を焼きたくなるようなドジっぷりを披露する。

 また薄く化粧をしているらしい。それが周囲の女子や先輩たちから反感を買うのだが、そんなことはどうでもいい。上代葵は存在自体が尊いのだ。もし、彼女が世間を敵に回すようなことがあっても、自分だけは味方でいたい。他人に心を開かなかった自分がここまで骨抜きにされているのだから間違いない。そう思っていた。

 そんな彼女は、ある日、警察に補導された。なんでも小遣い欲しさに売春を行っていたらしい。それも彼氏である矢島やしま竜聖りゅうせいが上代葵をそそのかし、貢がせていたという。矢島は他校の不良だった。

 やがて、上代葵は停学処分となり、そのまま学校を辞めてしまった。

 間もなくぽっかりと穴が空いた日々が始まる。色のない生活に戻ったことが苦痛で仕方がなかった。勉強が手につかなくなった侑希は両親に黙ってSNSのアカウントを取得し、上代葵の情報を集めた。

 そこに写っている彼女はかつての面影がない。同じクラスで、隣の席で可憐に笑っていた頃の彼女とはまったくの別人で、胸元がはだけた服を好む下品な女に変貌していた。

 初めて好きになった女性が自分の理想像からはみ出し、不幸な道を辿っている。そんなことは許せない。いくら彼女の人生で、自分はまったく関係がなくても許すわけにはいかない。

 だから、侑希は矢島を殺すことにした。

 今にして思えば、あの嫉妬心は本当に自分のものだったか怪しい。殺した後、侑希は自分の感情を俯瞰的に捉えた。何か別の記憶が混ざっていたような気がする。その時、体の内側を撫でるような不気味な感覚がし、自分の中に自分ではない誰かの存在を認識した。

 好きになった相手を追いかけるだけで良かったのに、相手は自分を見てくれない。好きな人には自分とは違う相手がいる。その相手に振り回されているから我慢できなかった──だから殺した。

 自分の思い通りにいかないストレスに耐えきれなかった。自分を認めてくれない周囲の人間が憎らしくなった──だから殺そうと思った。

 邪魔だった。自分の邪魔をする人間などいなくなればいいと思った──だから殺したくなった。

 きっと周囲は自分のことを嘲け笑っているのだと思っていた──だから。

 もしかしたらこの記憶は臓器提供者のものなのかもしれない。

 記憶移転という話を聞いたことがある。それに関連した書籍や映画にも触れた。しかし、そのどれも感動物語として扱われている。提供者の無念を晴らしたり、後悔や未練を叶える物語だ。

 だが、物事には表裏がある。良いことばかりだけではない。悪面もあるのだ。

 矢島を殺そうと思い至ったのは、潜在的に持っていた悪虐な精神によるものだと自責の念に駆られていた侑希だが、一筋の救いを見出した。

 ──臓器提供者がそうさせた。そう思えばいい。

 そもそも矢島は人を苦しめ、不幸の道に落とすようなクズだ。死んで当然の人間。

 SNSやニュースサイトではすでに被害者の写真と個人情報が出回っている。この国は被害者の個人情報を無料で垂れ流すので情報収集には困らない。

 矢島はどうやらその界隈では〝関わったらヤバい〟と囁かれる組織の末端だったという噂があった。彼が請け負っていた〝バイト〟はまだ程度の軽いものではあったのだが、被害にあった少女たちの数は多い。今やネットでは矢島を殺した犯人を称えるような投稿が増えてきた。

「そっか……みんな、クズを殺したがってるんだな」

 侑希はベッドに寝転び、スマートフォンを眺めながら笑う。

 ──侑希。

 声が聞こえる。体の内側にいる誰かの声。

 ──あの子を探して。

 複数の声が重なり、侑希はスマートフォンを顔面に落とした。

「いってぇ……」

 顔をさすりながら起き上がる。

「あの子って……」

 侑希は誰もいない空間に語りかけた。

「〝ママ〟が言ってたやつ?」

 自分の母親のことではない。ただ〝みんな〟がそう呼んでいるから自分も自然と口に出してしまうのだ。「ママ」あるいは「お母さん」もしくは「母さん」と呼んでいる──のだと思う。それがなんなのか明確なことは分からないが、〝みんな〟がそう呼ぶのでそう認識している。

「面倒だな……もう僕でいいじゃん。どうしてもあいつがいいの?」

 ──あの子じゃないとダメなの。

「ふーん」

 嫉妬心がふつふつと湧き上がる。いつか誰かの記憶が巡ったが、自分を認めてくれないというのはかなり落ち込んでしまうものだ。

「僕、結構貢献してると思うんだけどなぁ……」

 そうぼやきながら侑希はコートで身を包み、家族が寝静まった頃合いを見て家を出た。

 〝みんな〟は侑希に包丁を持たせ、道を指し示した。こっちにいる。まるで磁石で引きつけられるかのように足が進み〝もう一人〟の元へ向かう。妙な確信があった。全身が脈打ち、緊張感が増す。気持ちが逸る。殺したい。殺してしまいたい。会ったことも話したこともない人物なのに、不思議と「死んで欲しい」気持ちが募る。それがどこからくるものなのか、考える暇はない。

 外は雪がちらついているが、全身の熱のおかげで寒さを感じなかった。

 信号の赤い光が前方にある。そこに男女がいる。

 ──いた。

 軽やかに近づいて、背中を狙う。しかし、その人物はまるで背中に目を持っているかのように正確な反射神経で隣の女性を守った。まさか失敗するなんて思わなかった。

「どうして……」

 言葉が声にならない。

 失敗した。許されない。ダメだ。怒られる。怒られる。怒られる。怒られる。失敗は許されない。

 侑希は我に返った。目の前で対峙する青年が口を開く。

「そうだろ、七人目」

 七人目──その意味は分からない。しかし、瞬時に思い至ったのはこれまで取り込んだ記憶の中の住人たちだった。彼らと自分、そして彼を入れたら七人。それが意味するものはまだ分からない。

 ただ、殺し損ねたことへの失意と恐怖が脳を支配し、侑希は動けなくなった。いや、どうだろう。彼の声までもが脳内に響いてくる。

 ──動くな。

 彼のは絶対だ。全身が警告を促すように冷えていく。血の気が失せる。

「ごめんなさい」

 とっさにそう呟き、持っていた刃物を落とした。


 ***


 一夜明けてもまだ、あの時の恐怖が蘇った。それは自分の意識か、〝みんな〟が持つ記憶か判然としない。

「ごめんなさい、〝ママ〟」

 布団の中で震えながら呟く。

「もうしません。もうあの人を殺そうなんて思わないから……だから、殺さないで」

 ──今度は。

 自分の言葉ではないと、はっきりそう感じた。これは〝みんな〟の記憶だろうか。恐怖に慄く叫びが骨の髄を震わせる。見知らぬ記憶はそれからも、侑希の体を支配した。

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