第32話 十字架は信じない

 沖縄の南西にある教会だった。


 岬に突き出た海上の聖堂は、汚れを知らない純白を誇っている。


 十字架がシンボライズされた尖塔。


 その下には祝福を喧伝する瞬間を今や遅しと待ちわびる鐘。


 中は天井も床も総ガラス張りで、まるで自分が海の一部になったかのような錯覚を覚える。


 収容人数は、せいぜい50名ほどだろうか?


 式場としてはこぢんまりとしている。


 事情が事情だけに、当然、招待客は一人もいない。


 不自然なほどの静謐さと穏やかさが、式場の神聖さを余計に引き立たせている。


 俺が独り佇むのは、他の場所とは明らかに区別された、薄い水色のガラスの一本道。


 すなわち、スワロフスキーグラスのバージンロードだった。


 正面をまっすぐ向いて待つ。


 視線の先にはまた透明なガラスの祭壇があって、白人の牧師が無言で聖書に手を添えている。その左隣には、不愛想なオルガン奏者が一名。勝手に親近感を持った。


 祭壇のすぐその向こうはエメラルドブルーの南の海。


 水平線は延々と続いて、楕円の地球の形がはっきりと見える。


 天気は快晴。


 雲一つない空から、衒うところのない降り注ぐ真昼の陽光。


 完璧だ。


 完璧すぎて、この世界で俺だけが異物であるかのように思える。


 生まれつきの陰気な顔で、慣れないタキシードに白い手袋まで装着している自分。どれだけレイさんが気を遣っていいコーディネーターをつけてくれても、服を着ているのではなく着られているのが否めない状態で、それでも俺はここにいる。


 オルガン奏者が、合図もなくシューベルトの『アヴェ・マリア』を押っ始おっぱめる。


 やがて、聖堂の扉が開く。


 新婦入場。


 その瞬間、俺は、卑屈も羞恥も懊悩も、全てを忘れてただ彼女に見とれた。


 ウェディングベール越しでも、美しすぎる茜の容姿は隠せなかった。


 眠たげに憂いを帯びた目、口元には穏やかな微笑みを浮かべている。


 その身体を覆うのは、上半身はきつめで、下半身はふわっと大きく広がるフレアスカート。


 プリンセスラインという種類らしいが、年月を経てもそのドレスは決して色あせてなく、まるで新品のようだった。レイさんがよっぽど大切に管理してきたのだろう。


 茜のオパールは、もはや単色のオレンジになっている。


 その暖色が、白と青が支配する式場で一等星のように目立っていた。


 車椅子のレイさんが、親族代わりに茜の右腕を取って、バージンロードへと導く。


 茜は歩きにくそうだ。


 その姿はまるで、海から上がったばかりの人魚のようだった。


 もしかしたら、茜は人魚姫なのではないかと、埒もない妄想を抱く。


 隣で手を引くレイさんは悪い魔女で、茜は声を奪われているだけで、もし、もしも、王子が俺ならば、彼女を受け入れたらハッピーエンドでおとぎ話は終わるのに。


 でも、現実は人魚姫のお話と同じくらい残酷で、今、茜の命は泡と消えようとしている。


 それでも、俺は嬉しいと思ってしまうのだ。


 茜の隣にいるのが、他でもない俺であるということを。


「よろしくね」


 レイさんが右手で俺の背中を擦る。


 もし、俺に祖母という存在がいたのなら、彼女のような人がいいと素直に思った。


「はい」


 俺はレイさんから引き継ぐ形で、茜の左腕を取る。


 一歩、二歩、三歩。


 祭壇の前までやってきた。


「それでは、聖歌472番を、皆で歌いましょう」


 牧師の号令で斉唱する。


「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も

 不思議なる神の手により 命拾いしぬ

 いと静けき港に着き われは今 安ろう

 救い主イエスの手にある 身はいとも安し」


 『人生の海の嵐に』という曲らしい。


 内容的に、普通結婚式で使われる歌ではない。だが、俺がどうせ歌うなら、『海』に関わる曲がいいと言ったら、こうなった。


 俺と茜との思い出には、なぜか海が良くでてくる。


 出会いのあの日も、恋人になったあの日も、そしてこの旅の最中も、不思議と海に縁があった。


(気に食わない歌だ。神は俺を救わない)


 宗教には詳しくないが、そのことだけは良く知っている。


 だから、俺は勝手に歌詞を読み替えることにする。


 神は、茜に。


 イエスも茜に。


 もし、俺に主がいるとするなら、それは茜だ。


 俺を救ったのは、安らぎを教えてくれたのは、全て茜だ。


 そう思うと、白々しい讃美歌も、いい曲に思えてくる。

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