第10話

      十九


 少し逆上のぼせたので、湯から上がった。明日の休みに備える為である。


 一条と小島から、同僚の斉藤純子について教えられたが、川井から情報提供を受けていた。

 ○◎病院には、斉藤純子だけでなく、小野ちはるという看護師が居る。取り分けて、三姉妹(お他人様)が集うと、かしましいと聴いている。本当の姉妹ではないが、価値観が同じということで、意気投合したようである。今は、警察よりも信じられた。


 宵越しの後始末をして、出掛けることにした。向かう先は、元住吉のサンマルクカフェである。


 作戦計画を練る訳もなく、いつも通りを貫き通す。当たり前の日常に隠された、飛びっ切りの幸運を、何よりも大事にしている。高望みと同様で、望むだけで手に入らないものに固執しない。そういう現実が身に染みていた。


 妄想問答を終えた時、視線がひとりの男にくぎ付けになっていた。男はトレンチコートに包まれて、ハットをかぶり、サングラスをかけている。通常の日常と不釣り合いの出で立ちはまるで、暗殺者にしか映らない。


 ゆっくりと右手を懐に入れて、拳銃を取り出した。うさぎが身構えると、ゆっくりと照準を合わせる。

 慌ててテーブルの下に隠れた。行動の矛盾に気が付き、低姿勢のままトイレに避難する。

 噴き出す汗を拭い、呼吸を整える。冷静に考えると、そこに避難したことを後悔する。

 覚悟を決めて、ゆっくりと扉を開けた。いつも通りのその場所は、戦慄の走る気配すら無かった。高鳴る動揺を押し殺し、憩いの場所を後にした。


 気忙しく歩きながら時計を視ると、八時を廻っていた。

 ○◎病院には、人が多い。高齢化社会の縮図にも見えるが、人が薬に頼る現在を象徴している。


 案内所に居るはずの係が居ない。一分が一秒に感じられた。先ほどの高揚が、せっかちに拍車を掛けたのだろう。病人・怪我人の多いこの場所で事件が起きたなら、大惨事は免れない。


 辺りを見回す余裕はあった。会計係が目に停まり、川井の言葉が思考をよぎる。

『生真面目な純子ちゃんは、ストレスからか、言葉使いが乱暴になり易いのよね』

 既に、向かっていた。

「案内係が居ないのですが」

 唐突な問い掛けに、ガラス越しの会計係は、訝しい表情をして、

「患者様をご案内しているのでしょう。少しお待ち戴けば戻ってきますので、お待ち下さい」と言うと、席を立った。

 純粋な気持ちを口にしただけで、不審者に見えてしまったのだろう。瞬時の思考で歩み出していた。待合席に項垂れるしかできなかった。


「如何しました。ご気分が優れませんか」

 声を掛けられた。

 うさぎが下から舐めるように見上げる。

 目を点にした白衣の天使が、

「日本語が解らないのかなぁ」と呟いた。

 うさぎは慌てて、

「半世紀以上、日本に居ますから、概ね言葉は解ります」と、頓智を利かせて応えた。見上げた時に、ネームプレートの『小野』を確認したのである。


「それならば、苦悩の理由を言って下さい。私にできることがあるかも知れませんからね」

 うさぎが生唾を飲み込み、

「川井遥さんのことを聴こうと想いやって来ましたが、つてがなく、もんどり打っていたところです」と、口にした。

 小野が瞬間に閃いて、

「うさぎ赤瞳さん、ですか」

 言い終わると同時に、病院内にチャイムが響きだした。小野は時計を確認して、

「仕事終わりに、純子さんと食事の約束をしています。いつもの場所に、五時半頃に行きますから、待っていて下さい」言い終わる前に動いていた。

 うさぎが微笑みながら、それを見送った。

 世界の彩りが、朝陽に照らされて、息吹を始めていた。

『気持ちが沈んだりあがったりするのは、波状(バイオリズム)という流れに侭ならない』と考えて、「想いはやはり重なる」と零している。

 一歩づつ踏み締めながら、活きる歓びに打ち拉がれていた。



     二十


 結果が良ければ、全て良し。としよう。


 うさぎは午後イチから、何時もの場所に入り浸っている。一杯の紅茶で、四時間はどうかと思う。

 言い訳とは別に、お他人様に迷惑を掛けないこと。だけは心掛けていた。


『遥さんが友とした仲間たちだから、素性は確かなはず』

 その想いが、人見知りを遠ざけていた。


 五時をまわると心なしかそわそわしていた。別に男の下心を膨らませている訳ではない。待つことの喜びを知る男が少ないだけである。


「お待たせしました」と、小野が現れたのは、二十五分を廻っていた。

「純子さんは、少し遅れるかも知れません」と続けて、「来るまで、私の悩みに乗って下さい」と、下心をのぞかせる。

 うさぎは、川井からの、

「小野ちゃんの男を視る眼のなさは、天下一品に他ならない」という会話を思い出した。

 

 見た目に拘らないという割に、イケメンを好む小野は、「価値観を共有できる男を選んだ」というらしい。

 川井に言わせると、ファザコンの言い訳に他ならない。優しく見守る男を選ぶ理由は、言動に責任感を持たない男の言い訳だと言い切った。うさぎはそれで、身を削られた想いをした。小野の思惑が、見え透いている。


「私を包み込む包容力を持つ方が現れないんですよね」

 そうきたか? と思った刹那に、手を握られていた。

 うさぎはゆっくりと手を剥がし、

「下心の薄っぺらさを知りましょう」と言って、両の肩を支えて、隣に座らせる。

「下心というものは、欲と同じで際限のないものです」

 教えるというよりも、諭している。

「器の大きな男性は、下心も大きいのかな」

 小野の天然が炸裂した。

「器というものは、許容範囲の広さを言うのです」

「下心は、許容範囲に入らないのかな」

「男性のシンボルは、心に左右されません」

「Hなことを指しているんですか」

「営みは必要ですが、欲と重ねることをHと形容するのでしょうね」

「心というくらいだから、大事なものだと考えていました」

「まだ、荒みきっていない、ということです」

「私にだって、相応の経験はあります」

 小野が、口を尖らせた。

「心の話しですよ」

「な~んだ。遥さんに同じことを言われた経験がありますよ」

 その時、

「お待たせ致しました」

 うさぎが無意識の後ろを取られたのは、二度目である。

「うさぎ赤瞳です。お待ちしました」

「斉藤純子です。宜しくお願い致します」

「純子さんは、何をお願いするつもりなんですか」

「挨拶よ」

 斉藤が小野に、ぶっきら棒に言った。


 火花を散らす女の醜態を妄想したうさぎが、

「川井遥さんが死んだ理由を暴く為に、私が色々と動いています」

「それで、あたしのところにいらしたんですね」

「運良く、小野さんに遭遇できました」

「そうだった。待合席で項垂れる患者様だと思って声を掛けたのに、純子さんに会いに来た、って言ったんだった」

「それで待ち合わせをしたんでしょう」

「純子さんがまた、釣り銭を間違えたから、こうなっちゃったんだった」

「今日は釣り銭を間違えて無いわよ」

「ならどうして先に行ってて、って言ったの」

「今日は、領収書に添付するレシートを捨てちゃった方が居たのよ」

「今日はゴミ漁りの日だったのかぁ」

 うさぎは二人の会話で、粗方想像できた。


「斉藤さんが、川井さんと約束したのは、何時のことですか」

「確か、水曜の今くらいの時間です」

「週末を一緒に過ごすことは、頻繁にあったのですか」

「川井さんが、何かの影を気に掛けていました」

「影、ですか」

「ストーカー被害に怯えていたよ」

「どういうことですか、小野さん」

「何かされていないから、被害届けが出せない。と言っていたんだよ」

「あたしが泊まりにいく約束をしたのも、その不安を打ち明けられたからです」

「水曜に約束して、金曜の夜に行ったら、死んでいたのですね」

「ただの金曜じゃなく、十三日の金曜だよ」

『真由美が死んだのも、十三日の金曜だった』と考えたうさぎの思考回路が、二つの事件を重ねる。

 心が、藤沢真奈美の一件と、美容師カップルの一件も重ね合わせた。


「警察にも話しましたが、あたしは合い鍵で扉を開けて部屋に入りました」

「密室のトリックを暴かないと、この殺人事件を解明できないよね」

 小野の目がただならぬ閃光を放った。

「元素殺人なら、効くまでに時差が生まれます」

「密室殺人じゃないのかぁ」

「帳尻を合わせて犯人を捕まえても、言い逃れてしまいます」

「元素が、人に見えないものだからですか」

「指紋や遺伝子すら、残っていません」

「新手のテロ組織ということですか」

「オーム真理教では無いですよ」

「それなら、科学者に雇われたヒットマンしか居ないよねぇ」

「日本の科学者たちは、権威を守ることしか考えていません」

「ならば、外国の科学者ですか」

「随分と詳しいようですが、何か引っ掛かることがあるのですか」

「震災のこととか、宇宙のこととかを、よく話してくれたもん」

「多分それは、私の影響ですね」

「うさぎさんの影響だったんですか」

「私が認めた物語を話していませんでしたか」

「私には、作家だけど妄想家、と言っていたよ」

「あたしには、なんちゃって科学者と言ったわよ」

「ネタにされていたのですね」

「女子会ですからね」

 斉藤が少し照れている。


「ねぇ、赤瞳さん。私たちを遥さんと思って、手料理を披露して貰えないかなぁ」

「いきなり何を言い出すのよ」

「それも、川井さんから聴いているのですね」

「お金を支払うなら、その分良い食材を買った方が良いもん」

「何が食べたいのですか」

「私は、海鮮スパゲッティが食べたいなぁ」

「良いですが、私の部屋は川崎駅に近いですよ」

「大丈夫だよ」

「勝手に決めちゃ駄目よ」

「嫁入り修行の為に買った料理道具を使うチャンスじゃん」

「あんたに言われなくても、自分で使ってるわよ」

「腕を磨くチャンスじゃん」

「本があるから大丈夫」

「本通りに作っても、あの味じゃあね」

「回数を履めば上達するから、贅沢言わないの」

「赤瞳さん、純子さんの部屋は、木月一丁目なんだよ。三人で買い物しながら行きましょう」

 小野が勝手に決めていた。

 うさぎの手を取り引きながら、何時もの場所を後にした。

 斉藤は、それ程怒っていない様子である。

 今は生きている目の前の二人の女性と境界線を合わせたい。川井の無念を心に収めている二人に、二の舞いを踏ませない。そう教えることが使命と思っている。

 うさぎの腹の虫にそう言い聴かせていた。






 

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