其ノ5 地獄の入り口で初キッス(泣)

 どうやらわたしはいま、トンネルの中にいるらしい。

 横たわった恰好で目覚めると、小さな明かりが視界に飛び込む。出口か。

 ぐぐぐと頭をのけぞらせて反対側を見やれば、そっちはねっとりとした闇におおわれている。

 草が足に巻き付いて、地中に引っ張られたのは覚えている。夢か現実かなんてもう、考えている余裕はない。だって、これ、ガチで現実みたいだから。

 まあ、でもあれだ。来ちゃったってことは、帰れるってことだろう……たぶん。

「狼の中に……って、なにが?」

 なんとか立ち上がりながら、元鬼に訊いた。てか、ここ、どこのトンネル? 

 暗いし湿っぽいし、空気はどろっと重たいくせに、いやにひんやりしているし、腕に鳥肌がたってきた。

 ぽつぽつと等間隔で、トンネルの壁にろうそくが浮かんでいる。そのろうそくに照らされた元鬼は、着物の袖から格子柄のストールを出す。ぐるんとそれを首に巻くと、今度は中折れ帽子を出してかぶった。

 そうしてから両袖の中に手を差し入れて、元鬼はわたしの疑問をスルーして言った。

「じゃあな小娘。あとはてめえの好きにやれ」

 えええ!? くるりと背を向けたその襟首を、わたしは思わずがっつりつかむ。

「いやいやいやいや、ちょ、ちょっと待ってよ! まず筆返せ。あとさ、言いたくないけど、ココがあっちの世界……の入り口? みたいなのは、ふわ~っとわかってるからさ。だからいますぐ帰りたいんだけど、どっちに行けばいいかだけ教えてよ。あとはあんたの言うとおり、わたしの好きにやるから」

 肩越しに振り返った元鬼は、なぜかにやっと笑った。

「おまえ、帰れると思ってんのか?」

「は? そ……のつもり、なんすけど」

「ココはな、入るのは簡単だが、出られねえよ」

「え!? いや、でも、あんたは行ったり来たりしてるみたいじゃん!」

 呆れたような顔つきで、元鬼は深くため息をつく。

「……面倒くせえ娘だぜ。あのな。俺は閻魔の裁判を待ってる罪人だけどよ、賞金稼ぎに名乗りを上げた罪人でもあるんだ。年に三回だけ行き来が許されてる。だから次に行き来ができるのは数ヶ月先だ。けど、誰かを連れては行けねえのさ。ってことだ。じゃあな」

 そう言って、去ろうとする。このまま行かせてたまるかと、またもや襟首を強く握り締めて引っ張ってやった。

「うおっ! なんだよ、まだなんかあんのか」

「わけわかんないってば! 賞金てなにさ。じゃあ、わたしもそれに名乗りを上げれば、行き来できるようになって帰れるってこと?」

「そいつは無理だ。おまえは〝娑婆の娘〟だからな。なんでもいいから、手を離しやがれ、ウザってえな」

 ペシッ、とわたしの腕を、まるで虫でも追い払うかのように叩く。

「ウザってえって……めっちゃムカつく! わっかんないもんをわかんないって、訊いてるだけじゃん!」

 焦ってきた。もしかして本気で帰れない?

「こっちに来ちゃったのは、べつにあんたのせいだと思ってないよ。だけどなんかわかんないけど来ちゃったんだから、帰りたいっつってるだけじゃん! さっさと帰れそうな道教えろ。そしたらわたしがひ・と・り・でなんとかするから! ウゼーのはこっちのほうだっつうの、まったく!」

 わたしの叫び声が「……まったく! ……まったく!」と美しいコーラスのように、トンネルの中にこだました。直後、元鬼ははっとしたように出口へ顔を向ける。

 ゆるゆると煙のように、ふたつの黒い影が浮き上がっていく。目を凝らしても、逆光のせいで誰なのかはわからない。と、元鬼は舌打ちをした。

 帽子を深くかぶりなおし、下駄を脱ぐと左手に持つ。右手でわたしの腕をつかみ、強引に引っ張ると、いきなり出口とは逆方向に駆け出した。

「ちょ、ちょちょちょっと!」

「黙ってろ。てめえが騒ぐから、獄卒どもに気づかれちまった」

 ごくそつ……ってなに!?

 元鬼は背後を気にしながら、ひたひたと走る。やがて立ち止まると、わたしの腕から手を離し、トンネルの壁に指二本で文字のようなものを書きはじめた。

 書き終えるとこぶしを握り、ドンと壁をたたく。するとそこに、暗闇の穴があらわれる。

 いや……穴というよりも、またトンネルだ。

 トンネルの横道らしき薄暗い闇の中を、元鬼はわたしの手首を引いて走り続ける。

「ど、どどど、どこへ!」

 元鬼は答えない。トンネルはまるで迷路のようだ。右へ曲がり、左へ曲がり、また右に曲がったところで、下駄を履いた元鬼は、ぐいっとわたしを壁に押しつけた。

「こうなったら仕方がねえ。おまえがついて来ちまったから、俺の賞金が台無しになる瀬戸際だ。閻魔には絶対にバレたくねえ」

 そう言うと、左腕でわたしの両肩を押さえつけ、右の手のひらでわたしの口をふさぐ。

「いいか、小娘、耳かっぽじってようく聞くんだ。俺は死人だ、わかるな」

 わたしはうなずく。それはまあ、そうだろう。曲げた左腕をわたしの両肩に添え、壁に押し付けている元鬼の顔が、やたら近い。近すぎて……なんかウケる! いや、ウケている場合じゃないし!

「だがな、おまえは生きてる。生きたままその身体ごと来ちまったんだ。その肉体に乗り移りてえと思ってるやつらが、この世界には山ほどいる。獄卒ってのは閻魔の手下だ。そいつらにおまえと一緒のところを見つかったらな、三十三本もの筆を見つけた俺の苦労は水の泡だ。しかもおまえは、閻魔に面白がられて、生涯閻魔の使いっ走りだ。ここじゃだーれも助けてくれねえぜ。なんせ〝地獄の入り口〟だからな」

 わたしの口をふさぐ元鬼の手に、力がこもる。

「娑婆に戻るどころか、閻魔の使いっ走りに成り下がる。そんなもんになりたくねえだろ?」

 あったりまえだ! 大きくうなずくと、元鬼の顔がさらに近づく。ほんのりと着物から、お香のような匂いがたちのぼった。

「おまえは娑婆の匂いがする。死人じゃねえそれを嗅ぎとられたら、おまえの身体に狼どもが群がるぜ。狼どもってのは、この世界に棲みついてる罪人どものことだ」

 それは……いやだ。ごくりとつばと息をのむ。

「だから、ひとまずその匂いを消さなくちゃいけねえ。わかるな」

 何度も小さくうなずくと、わたしの口から手を離した元鬼は、帽子のつば越しにわたしをにらんだ。

「……面倒くせえ。おまえ流に言えば、マジで面倒くせえぜ」

 そうつぶやくやいなや息を吸い込むと、いきなりわたしの両頬を両手ではさんだ。サンドイッチされたわたしの顔のパーツが、むにゅっと中心に集まった瞬間。

 わたしの口が、奴の口で、ふさがれた。

 これってキッス的な……って、ええい! なにしてくれる!!

 とっさに右肘で元鬼の胸をどつき、胸ぐらをつかみ、左頬に華麗なるストレートをくらわしてやる。

 地面に尻餅をついた元鬼は、手のひらで頬をおさえた。

「……いってぇな、ちくしょう。なんつー娘だ」

 ト、トラウマが! 数々のトラウマが脳裏を過っていく。ていうか、ここでもですか!? 地獄でもイジメられる運命ってことなんですか……お釈迦さま!

「勘違いすんな。色恋の意味なんかねえよ。おまえの匂いを消してやったんだ。これしか方法がねえんだよ、俺だってしたかねえぜ」

 〝したかねえ〟とか言うわりに、若干にやついている気がするのは、わたしの気のせいか。ストレートを決めた格好で、固まっているわたしを上目遣いにすると、元鬼はにやっと口角を上げた。

「涙目になってるぜ」

「な、泣いてねーし!」

 実はちょっと、泣きそうだ。なにこれ。なんなのさ、これ!

 涙ぐむわたしを尻目に、腰を上げた元鬼は、袴をぱんぱんと片手で払った。耳を澄ますと、「来ねえな」とささやく。ゴクソツとかいう者どもが、追いかけて来ていないらしい。

 安堵の息をついた元鬼は、ちらりとわたしを一瞥した。

「……このじゃじゃ馬娘め。嫁のもらい手ねえぞ」

「余計なお世話だよ。わたしはひとりで生きてくんだから」

「へえ、そうかい。まあ、てめえのことをよくわかってるってのは、いいことだ。なんにせよ……しょうがねえな。ついて来い」

 くい、とあごをしゃくる。

「ついて来い……って、どこにさ」

 そう声にした瞬間、つーんと冷たい滴が頬に落ちた。涙で視界はぼやけ、元鬼の姿が二重になっていく。

 怖すぎる。父さんに会いたい。明日の学校どうしよう。ここは〝地獄の入り口〟で、わたしは帰れないし、まわりは死人だらけで、誰も助けてくれない。そのうえ、人じゃない奴にはじめてのキッスを奪われたのだ。

 これが泣かずにいられるか!

 筆を売りたかっただけなのに。それだけなのに、こんなことになってる。半分笑いたいけれど、まったく笑えない状況だ。

 肩を落としたわたしは、手の甲で涙をぬぐった。

「……わたし、帰れないの? マジで?」

 鼻水をすすると、元鬼が目の前に立った。すると自分の着物の袖をつまみ、わたしに差し向ける。

「ほらよ、つかんどけ。おまえに関わりたかねえが、俺がへたうっちまったせいでもあるからな。帰れる方法を探してやるから、おまえも俺に協力しろ。いいな?」

 頼れる相手は、こいつしかいないのだ。そのことに腹が立つ。でも、と思い直す。もしかしたら、そんなに悪い奴じゃないかもしれない。いい奴でもなさそうだけど。

「……それ、取り引き?」

 ず、と鼻水を思いきりすすって訊ねると、元鬼は端正な顔に苦笑を浮かべた。

「そうだな。そういうこった」

 のろのろと奴の袖を握ると、元鬼は暗いトンネルの中を歩き出した。

 そういえば、こいつの名前をまだ知らない。知ったところでどうということもないけれど、なんだかつきあいが長くなりそうだから(それもいやだけど)、自分の名前も教えたほうがいいのかも。

「……あのさ。わたしの名前はツバキだよ。字が花の椿。だから小娘とか、娘とか言うのやめてよ」

 前を歩く元鬼は、ふっと笑みをもらした。

「あんたの名前はなに? わたしもあんたを〝元鬼〟とか呼びたくないから、教えてよ」

 元鬼は面倒そうに、小さな声でぼそりとささやく。

「……ういち」

「ういち?……ヘンな名前。どういう字書くの?」

「雨の日に市場のすみっこで生まれた。だから〝ういち〟よ。それでわかれ」

 雨の日に市場で……。ああ、なるほど。わかった。

 元鬼の名前は——雨市。

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