母を待つ

おかずー

母を待つ


香奈子かなこ

 スーパーで買い物をして帰ると、マンションの一階エレベーターホールで手を振る母親の姿を見つけた。

「ちょっと来ちゃった」

 母親の顔を見ると、香奈子はいつも泣き出してしまいそうになる。

「お母さん、今日はどうしたの?」

「たまには顔を見せないとね。江奈えなちゃんにも会いたいし」

 江奈は今年三歳になる香奈子の娘だ。

「江奈びっくりするよ」

 加奈子の言葉を聞いて、母親はいたずらっ子のように笑った。母親の見た目は十年前から少しも変わっていない。

「江奈ちゃんは保育園?」

「うん。今日は篤史あつしが休みだったから、お迎え頼んだの。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」

「篤史くんとは仲良くやってる?」

「まあ、ね」

 含みを持たせて香奈子は頷いた。

「意味ありげじゃないの。まさか」

「実はね」

 昨日、香奈子のお腹の中に新しい命が宿っていることが判明したばかりだった。

「おめでとう! 男の子? 女の子?」

「まだ分からないよ」

 興奮気味の母親をなだめる。本当は香奈子の方が興奮していた。母親に直接報告できたことが嬉しくて仕方なかった。

「江奈ちゃんもお姉ちゃんになるんだね。もう教えてあげたの?」

「話したけどよく分かっていない感じだった」

「いきなりお姉ちゃんになるなんて言われてもすぐには理解できないって」

 香奈子にも三つ年の離れた弟がいる。江奈と同じ年の頃に同じ境遇に立ったことがあるわけで、めぐり合わせを感じる。

 母親が意地悪そうに笑っていた。香奈子は身構える。きっとまた言われる。幼い頃に香奈子が起こしたある事件のことを。

 生前、母親は同じ話を繰り返し香奈子に聞かせた。よほど嬉しかったのだろう。香奈子は身に覚えのない自分の行動に、ただ困惑するばかりだった。

「そういえば香奈子が三歳の時に」

 ほら始まった。


 香奈子が三歳の頃、母親のお腹には新しい命が宿っていた。

 週末には香奈子の父方の祖父母の家で、夕食をともにすることが決まりだった。妊婦である母親が夕食を作らなくて済むように、というのが表向きの理由だった。だが、真意は祖父母が初孫の香奈子に会いたいだけであった。

 その日、祖父母の家に向かおうとした矢先、母親を陣痛が襲った。だが、出産は二度目だ。父親も母親も慌てることはなかった。父親の運転で病院へ行き、母親を預けた後、父親は香奈子を連れて祖父母の家に向かった。医者から生まれるまで数時間かかると言われていた。父親は香奈子を預けるついでに、夕食を済ませておくことにした。

 祖父母の家に着き、すぐに夕食となった。いつもと違って、静かな時間が流れた。

 祖父は早々に食事を終えると風呂に入った。じっとしていられないようだった。父親は食事を終えた後、トイレにこもった。腹の調子がよくなかった。香奈子は食事にはほとんど手をつけずに、ソファへ移動してテレビを見始めた。香奈子の様子を見かねて、祖母はキッチンに立って梨を剥き始めた。

 祖父と父親がリビングに戻ってきたのは、ほぼ同時だった。

「香奈子はどこへ行った?」

 祖父がたずねると、

「ソファに座ってテレビ見てるでしょ」

 祖母が梨を剥きながら答えた。

「いないぞ」

「うそ」

 祖母が振り返ると、確かに香奈子の姿は見当たらなかった。

「他の部屋は?」

 祖父と父親がそれぞれ別の部屋を見に行く。

「いないぞ」

「いないよ」

 親子そろって同じような調子で言った。再び一同がリビングで会した。全員の視線が吸い込まれるように玄関へ向かった。

 扉が開いていた。

 初めに動いたのは父親だった。

「香奈子!」

 父親は靴も履かずに玄関を飛び出した。祖父も慌てて後を追った。

 香奈子はすぐに見つかった。一階のエレベーターホールの真ん中に一人で立っていた。

 祖父が駆けつけた時には、香奈子は父親の腕の中にいた。

 香奈子を抱きしめながら、父親はどうして一人で外に出たのかたずねた。

 香奈子は「ママをまっていた」と答えた。いつもみんなでご飯を食べるのに、今日はママがいない。だから、ママを迎えに行ったのだと。

「ママ、どこにいったの? もうすぐかえってくるよね? ママといっしょにごはんたべたい」

 香奈子の言葉の真相は誰にも分からない。単純に母親がいないことを疑問に思っただけなのか、あるいは、最近大人たちがよく口にするオトウトに母親を取られてしまうと不安になったのか。

 その話を後から聞いた母親は、香奈子の行動がよほど嬉しかったのか、ことあるごとに香奈子に同じ話を聞かせては、香奈子を困惑させるのだった。


 母親が話し終えると、香奈子はやはり困惑した。

 母親が話している間、香奈子の隣を何人かの住人が通り過ぎた。住人は一人でその場に立ち尽くしている香奈子を見て一様に首を傾げた。母親の姿は香奈子にしか見えていない。

 母親が亡くなったのは、今から十年も前だった。腫瘍が見つかった時には、もう手の施しようがなかった。

「あの時、香奈子が私のことを待っていてくれたって話を聞いた時は嬉しかったな」

「ほんと、泣けるよね」

 香奈子は恥ずかしさをごまかすため、肩をすくめてみせた。

 亡くなったはずの母親が初めて香奈子の前に現れたのは今から五年前、結婚式の前日だった。その頃、香奈子はまだ一人暮らしをしていた。バリバリのキャリアウーマンで、翌日に結婚式を控えているというのに家に着く頃にはいつも通り日付が変わっていた。最終電車から降りてマンションに向かって歩いている時に、香奈子はふと我に返った。明日は結婚式だ。そう考えた途端、体が重くなった。本当に結婚して大丈夫なのだろうか。漠然とした不安に襲われた。だから、マンションの入り口に立つ母親を見つけた時には、幻覚が見えるようになってしまったのだと思った。

 次に母親が現れたのは四年前。江奈がお腹の中にいることが判明した翌日だった。自分に母親が務まるのだろうか。この時も漠然とした不安に襲われていた。三度目は三年前、江奈が生まれて三カ月ほどが経った頃だった。思うようにいかない子育てに悩んでいた。

 香奈子の前に母親が現れるのは今日が四度目だ。これまでと違うのは、香奈子が不安を抱えているわけではないということ。

 香奈子は江奈のことが心配だった。昨晩、江奈の浮かべた表情が香奈子の脳裏に焼きついて離れない。江奈は親に置いてけぼりにされた子供のように、不安そうに香奈子を見上げていた。

 気づけば香奈子の頬を涙が伝っていた。

「江奈ちゃんはきっと大丈夫。立派なお姉ちゃんになれるよ」

「本当に?」

「香奈子だってお姉ちゃんになるんだよって教えてあげた時はとても不安そうな表情を浮かべていた。けど、立派なお姉ちゃんになった。そういうもんだよ」

 母親が笑うと、香奈子もつられて笑った。

 背後から香奈子を呼ぶ声が聞こえた。香奈子が涙を拭いて振り返ると、篤史と江奈が手をつないで歩いてくるのが見えた。

「ママ!」

 江奈が駆け寄ってくる。手に持っていた画用紙を誇らしそうに胸の前で広げる。

「ママ、みてみて。きょうね、おえかきして、はなまるもらったよ」

「凄いね!」

 江奈が広げた画用紙を見る。紙には家族三人の姿が描かれていた。家族の真ん中には「おとうと」の文字が書かれていた。それを見て、香奈子は胸の奥が温かくなった。

 江奈は褒められて満足したのだろう。エレベーターに向かって勢いよく走り出した。

「パパ、ママ、はやくはやく。エレベーターよんだよ」

 江奈が背伸びをしながら楽しそうにボタンを繰り返し押している。

「早く行ってあげなさい。江奈ちゃん待ってるわよ」

 香奈子が振り返ると、もうそこに母親の姿はなかった。

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