5-4

堀北の見舞いに行くことを牧原と約束してから、実際に足を運ぶまで一月ひとつきかかった。理由は牧原の部活が土日は基本的に活動があることだった。


堀北とは定期的に電話をしていて、声で彼の容態を察していた。時折呼吸が浅い日があったり、電話をかけてもつながらず、折り返しが来たり来なかったりしていた。


早朝から新幹線に乗り、またしても堀北の祖母に迎えにきてもらった。


「はじめまして。牧原です」


「遠くまでありがとねぇ」


牧原の見た目は絵に描いたような野球部のため、大人、特に年配の人にはウケが良さそうだ。礼儀もしっかりしていて、病院に着くまで会話が途切れることはなかった。


病院へ着くと、今までとは異なり体調を聞かれ、病室に入る前は手を洗った後にアルコールの消毒とマスクをつけるよう指示された。


牧原と共に病室に入ると、ニット帽を被った堀北は静かに寝息を立てていた。


「ようやく眠れたところなんだよ。来てもらって申し訳ないけど、今は寝かせておいてやっておくれ」


椅子に座り、堀北の寝顔を無言で眺める。前よりもいくらか痩せていて、ニット帽の下は恐らく肌が露出しているのだろう。


「結構……悪いんですか? 堀北は」


絞り出すように牧原は堀北の祖母に尋ねた。


「今は薬で治療しててね。どうにもならなくなったら手術が必要なんだけど、そこまではいってないそうだよ」


今でも十分辛そうにみえるのに更に悪くなることがあるのかと、恐らく二人とも同じことを思っただろう。


「起きたら知らせてやるから、ちょっと散歩でもしておいで」


堀北の祖母の言うことに従って、病院の外にあるベンチに座った。牧原は無言で何か考え事をしているようにも、堀北の姿を見てショックを受けているようにも見えた。


「俺、あいつのことホントに好きだったんだよ。面白くて、変わってて、野球も上手くて、人のことを自分のことみたいに考えられて。困ったときに誰かをいいやつって言うけど、堀北は心の底からいいやつだって思うんだよ」


栞も牧原の言うことと同意見だった。初めて会ったときは変な人に絡まれた程度にしか思っていなかったが、堀北は栞に現実を見て欲しいと言った。


人間は結局自分が一番かわいいし、人は人、自分は自分と割りきっているところが栞にはある。しかし堀北は、他人の心の深くに踏み込んでぬかるみから引き上げてくれる。


「私ね、今まで人と関わることを避けてきたの。それを堀北が変えてくれた。堀北と会う前の私だったら、牧原くんとこうして話すこともできなかったと思う」


「まあクラスも違うし、花木さんとは関わることなく卒業してたかもな」


栞と牧原は友達ではない。堀北という共通の友人を介した関係だ。友人すらいなかった栞にとって、牧原のような人ももこれまでの人生には現れなかった存在だ。


「俺もあいつと会うまで、どうしようもないやつだったんだ。時間あるし、ちょっと昔の話聞いてくれる?」


栞は牧原の目を見てこくりと頷いた。牧原は安心したように優しく笑った。


「小学生から野球始めたんだけど、高校入るまでずっとエースだったんだ。それで俺は完全に天狗になってた。井の中の蛙ってやつ? 自分が一番だと思ってたんだ。俺が調子良ければ負けることはないし、負けたら他のやつが打てなかったから、エラーしたから。そんな風に考えてた。でも高校に入って、俺より上手いやつなんてゴロゴロいた。人生初の挫折ってやつを味わったんだ」


牧原は自嘲して鼻で笑った。


「もうやけくそ。練習しててもやる気でないし、そんなんじゃ監督にも先輩にも怒られるし、野球が楽しくなくなったんだ。それで野球を辞めようと思った。一番じゃない自分を受け入れられなくて逃げようとしたんだ」


牧原の過去を聞いて、誰にでも逃げたくなる現実があるのだと栞は改めて思った。自分だけが惨めで恵まれていないと、周りを見ると気づいてしまう。それなら現実から逃げて、物語に逃げ込んでいる方がずっと楽だったのだ。


「それを、あいつが止めてくれた。初めは俺より上手いやつに言われてもムカつくだけだったんだ。でも、止めてくれたのはあいつだけだった。それからあいつのことを気にして見るようになって、あいつは他のやつとは違ったんだ。上手くてもそれを鼻にかけないし、練習も手を抜かないし、誰より野球を楽しそうにやってた」


堀北が野球部にいたころは知らないが、牧原の言うことは想像はできた。栞は野球をしている堀北の姿を見てみたかったと、牧原を羨ましく感じていた。


「それから思い出したんだよ。野球を始めた頃のこと。あの時はヒット打ったら嬉しかったし、三振取ったら親とかコーチとか、チームメイトも誉めてくれた。野球を楽しんでた頃のこと。その時言われたんだ。『もし野球を辞めるなら野球が嫌いになってからにしろ。そうじゃないなら、今まで応援してくれたり、力を貸してくれたりした周りの人がかわいそうだ』って。俺、ホントに自分のことしか考えてなくてさ。あいつに言われて、やっと周りを見るようになったし、あいつを心から凄い、尊敬できるって思ったんだ」


牧原の話を聞いて、栞は堀北にこの事を今すぐ伝えたかった。堀北はちゃんと誰かの心に残るような言葉を与えられている。その人を救いだして、前を、現実を見られるように背中を押してあげられていると。


「俺はあいつの一番の親友だ。少なくとも俺にとってはあいつが一番だ。どんなことがあっても、それは辞めるつもりはないし、もう前みたいに見栄を張ることもやめるよ」


「羨ましい……」


「え?」


栞は自分でも驚いていた。無意識のうちにこぼれた言葉は、牧原と堀北の揺るぎない友情に対するものだった。


「私には親友なんていないから、二人の関係性が羨ましいなって思った。お互い信頼して、ちゃんとぶつかって、支え合える、一方的でない関係なんて、滅多に手に入らない気がして」


「まあそう簡単に作れるものでもないよな。でもさ、それで言ったら俺は花木さんが羨ましいよ」


「私が?」


「俺はあいつとの関係を築くのにそれなりに時間がかかった。でも花木さんは話すようになってそんなに時間経ってないでしょ?」


堀北が図書室に現れるようになったのは二年生になってからで、今だと半年は経過している。


「堀北が自分の病気のこと話すくらい、花木さんは信頼されてるんだよ」


「そう、なのかな」


栞は堀北を信頼している。しかしそれは相手も同じだけ信頼していることにはならない。


「何がきっかけで堀北と仲良くなったの?」


栞はこれまでの堀北との経緯を話した。そして、彼からたくさんの言葉をもらったこと、栞の人生の物語にとって堀北は欠かすことのできない存在であることを説明した。


「人生という物語か……それ、すごくいい言葉だね。よく人生は旅に例えられるけど、俺は物語の方が好きだな。物語を書き換えることはできないけど、その上でその先の道筋を自分で作れるって感じがするよ」


牧原の言うことに栞も同感だった。自分が生きてきたこれまでの人生は決してなくならない。それから目を背けるべきではない。受け入れて、そこから自分がどうするか決めるのだ。


「これは俺のエゴだけど、花木さんがいい言葉教えてくれたから俺の座右の銘を教えるね。『人間関係で一番大切なのは思い遣り』って言葉」


「聞いたことない。誰の言葉?」


「堀北。あいつが俺に教えてくれたんだ」


座右の銘と聞くと誰かの偉人の言葉や名言を連想するが、本来座右の銘は自分が生きていく上で心に留めておきたい言葉なら何でも良いはずだ。


「あいつはさ、思い遣りの塊だよ。優しいだけじゃない。相手の立場になって、受け入れて、優しい言葉も厳しい言葉もかけられる。決して否定はしないんだ」


「わかる気がする。私たち、堀北に会えて幸せ者だね」


「ホントだね」


この時初めて、二人が同じタイミングで笑った。


「あいつに言いたいことたくさんあるな。それで、これからも俺の物語に登場してほしい」


「うん」


牧原は何かを言おうとしたが、思い直したのか口をつぐんだ。しかし、また考え直したように栞を見た。


「花木さんも、友達としてこれから俺の物語に出てくれる?」


栞はすぐに言葉が口から出ず、何度も頷いてしまった。それを見た牧原が吹き出した。


「ありがとう。一回戻ろうか」


そう言って立ち上がった牧原を栞は呼び止めた。


「私の! 私の物語にも、牧原くんを友達として……友達って表現してもいいかな?」


振り返って返事の代わりに向けられた笑顔は、栞が堀北を除いた初めての友人の笑った顔だった。

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