むさしのわらしがやってきた

永嶋良一

むさしのわらしがやってきた

                 1

 最終列車の鈍行を下りてホームの端に立つと、急に山の冷気が私の身体を包みこんできた。まだ夕方の4時だった。1両だけの鈍行列車の中には私を入れて3人の乗客がいたが、ホームに下りたのは私だけだった。私は急いでリュックからパーカーを出して羽織った。無人の改札を出ると、閑散というか何もない駅前が私の眼の前にあった。山と細い道があるだけだ。もう暗くなった山肌が眼前に迫ってきた。道沿いに眼をこらすと、向こうにポツリと一つだけ灯火が浮かんでいた。近寄ると古い大きな日本家屋だ。入口に木でできた大きな看板が掲げてあった。墨で字が書かれている。達筆だ。かろうじて「武蔵野童子わらし館」と読めた。私の目指す宿だった。

 私は年季の入った木の引き戸を開けた。がたぴしと音がした。古い戸を開けると、それでも旅館の玄関ホールのようなしつらえがあった。正面に大きな柱時計がある。磨きこんだ木の床に柱時計が映っていた。横に小さな木のカウンターがある。カウンターの上にはパソコンが立ちあげてあった。これがフロントだろう。フロントには誰もいなかった。私は奥に向かって声を掛けた。

 「ごめんください」

 しばらくすると、奥から割烹着を着たおばさんが出てきた。女将だろう。40くらいだろうか。若い頃はさぞかし美人だったろうと思われた。

 「あの、宿泊を予約をしました倉西です」

 「あ、倉西様ですね。お待ちしておりました」

 女将はカウンタ―の中に入ると、キーを差し出した。

 「童子わらしの間をご用意しております」

 私はキーを受け取ると、宿泊者カードに名前と住所を記入した。女将が私の「倉西由紀、25才」という文字を覗き込んでいる。女将が聞いた。

 「あの、こんなことをお伺いするのも何ですが、ここにはどのようなご用事で」

 私には女将の言いたいことがよく分かった。こんな辺鄙なところの旅館では、私のような若い女一人の宿泊客は要注意なのだ。私は努めて明るい声で言った。

 「私、大学で民俗学を研究しているんです。それで、ここには武蔵野の童子伝説について調べに来ました」

 女将の顔に安堵の色が広がった。

 「ああ、それで・・童子の間を指名されるなんて珍しいお客様だと思っておりました」

 「こちらの童子の間に『むさしの童子』がでると聞いたんですが」

 女将が笑った。

 「ええ、そんな話がありますが。あんなのは伝説でしょう。誰も見た人はいないんですよ」

 「でも、『むさしの童子』に会うと幸せになるとか」

 「いえ、お客さん。童子で幸せになるんだったら、うちはもっと大きな旅館になっていますよ・・・・あら、嫌だわ。私ったら、お客様にこんなつまらないお話をしてしまって・・・・どうぞ、童子の間にご案内致します」

 女将と私は長い廊下を歩いた。1階の廊下の突き当りに奥座敷があった。女将が奥座敷のふすまを開けた。十畳はある大きな日本間だった。片側に縁側と中庭があった。中庭はすっかり暗くなっている。畳はなかりくたびれていた。くすんだ天井に蛍光灯が光っていた。

 身体がすっかり冷えていたので、私は先にお風呂をいただいてから、夕食に向かった。「武蔵野童子館」は、各部屋に夕食を運ぶのではなく、最近よくあるようにホールに宿泊客を集めて食事を提供するやり方だった。女将に言われた「ホール」という日本間に行くと、十人ほど座れる座卓に私の食事だけがぽつんと置かれていた。今日の宿泊客は私だけのようだ。驚いたことに、こんな山の中なのに夕食はマグロの刺身定食だった。私は夕食の間に『むさしの童子』の話を聞くつもりでメモ帳を持参していたが、食事中は宿の人は一人も顔を出さなかった。やむなく、私は食事が終わると「ごちそうさまでした」と奥に声を掛けて部屋に戻った。部屋に戻ると、布団が敷いてあった。

 パソコンを出して大学の研究室に来ているメールをチェックし終わると、私の身体にどっと疲れがのしかかってきた。さすがに疲れた。『むさしの童子』の聞き取りは明日にしよう。私は早々に布団にもぐりこんだ。


                 2

 私は何かの声で目覚めた。枕もとの腕時計を見ると午前2時を指している。私は、昨夜テレビを消し忘れたのだと思った。しかし、テレビは消えていた。何の声で目覚めたのだろうか? 気になって私は布団の上に半身を起こした。

 足元の方にあるふすまがぼんやりと光っていた。光の中に黒い影があった。子どもの影だ。男の子なのか女の子なのか分からなかったが、何人もの子どもの影が光の中で遊んでいた。キャッ、キャッという声に混じって、子どもの笑い声が聞こえた。

 これは一体何なの? これが『むさしの童子』なの? 私は不思議な影を凝視した。

 すると、何人かの子どもが釣りを始めた。釣り竿の黒い影が揺れていた。一人の子が魚を釣り上げた。魚の黒い影が光の中で跳ねた。急にその魚がふすまから飛び出した。大きく空中を跳ねて飛んできた魚を、私は思わず手で捕まえていた。部屋の明かりを点けた。ふすまの光と影が消えた。しかし、私の手の中には、魚が跳ねていた。山女魚やまめだった。

 急に横で声がした。

 「お姉ちゃん。山女魚を返して」

 見ると、赤いちゃんちゃんこに小袖を着た子どもが立っていた。頭はおかっぱだ。

 私はその子に山女魚を返した。その子は嬉しそうに山女魚を受け取ると、宝物でも扱うように腰の魚篭びくに入れた。女の子の格好のようだが、男の子にも見えた。その子の声がした。

 「お姉ちゃん。いい人だね」

 「あなたは『むさしの童子』なの?」

 その子がにこりと笑った。

 「そう呼ぶ人もいるみたい」

 「えっ、あなたは『むさしの童子』ではないの? 東北の座敷童子ざしきわらしみたいな?」

 「座敷童子って呼ぶ人もいるよ」

 「えっ、どういうこと?」

 「僕らは日本各地を移動するんだ。その土地土地で呼び名が変わるんだよ。だから、ここ武蔵野では『むさしの童子』と呼ぶ人もいるけど、東北では座敷童子って呼ぶ人もいるよ」

 「あなたたちは一ヵ所に住んでいるんじゃなかったのね」

 「そうだよ。呼ばれた土地に行くんだ」

 「呼ぶ? 誰が? 誰があなたたちを呼ぶの?」

 「その土地に昔からあるもの。お社だったり、自然の岩とか、いろいろ」

 「土地のお社が何のためにあなたたちを呼ぶの?」

 「昔のものが消えていくときに呼ばれるんだ。たとえば、ここ武蔵野ではもう昔みたいに山女魚が採れなくなってきてるんだよ。そんなとき、僕たちが昔のものを元に戻すためにやってくるんだよ」

 私は宿の夕食がマグロの刺身だったのを思い出した。そうか、ここ武蔵野ではもう山女魚を食卓に上げることができなくなっているのか。


                  3

 ふいに『むさしの童子』が私の顔を覗き込んだ。そして言った。

 「お姉ちゃん。死なないでね」

 不意を突かれた。私は何も言えず『むさしの童子』の顔を見つめた。私の眼に涙が浮かんだ。次の瞬間、涙が滝のようにあふれ出て、布団の上に落ちた。私は布団に顔を伏せて泣いた。

 『むさしの童子』が私の背中を優しくさすってくれた。

 「お姉ちゃん。もう大丈夫だよ。お姉ちゃんは一人じゃないよ。僕らがついてるからね」

 私は泣きじゃくった。

 私はここに死ににきたのだ。

 長く付き合った私の恋人が、私の女友達のところに去ってしまったのは3か月前だった。一瞬にして世の中の全てが崩れてしまった。私はどうしたらいいのか、わからなくなった。何もできなくなった。私は一人で苦しんだ。もがいた。誰も助けてくれなかった。私は誰も信じられなくなった。死んでしまいたいと思った。そして、死に場所に選んだのが、ここ『むさしの童子』の伝説が残る武蔵野だった。民俗学が好きな私にふさわしい死に場所だと思った。

 顔を上げると、さっきの『むさしの童子』の後ろに、たくさんの『むさしの童子』たちがいた。みんな優しい顔で私を見つめていた。

 急に『むさしの童子』たちが手を取り合った。歌を歌い出した。

 「♫ ぼくらは直し屋。何でも直す直し屋だ。壊れた自然に壊れた心。壊れるものがある限り、ぼくらは何でも直すのさ ♫」

 そう歌いながら、『むさしの童子』たちは踊り出した。ゆったりした優しい盆踊りのようなダンスだった。『むさしの童子』の一人が私の手をとった。私の手の中に何かがあった。見ると木彫りの山女魚の人形だった。そしてその『むさしの童子』が私の手を引いた。私は立って、『むさしの童子』たちの輪に入った。一緒にダンスを踊った。最初、私は泣きながら踊っていた。しかしダンスを続けていると、涙が消えた。私の気持ちが楽になった。

 「そうだ。私にはこの子たちがいる」

 私は一人ではなかった。何も気にすることはないのだ。『むさしの童子』たちがいつでも私を助けてくれる。私は楽しくなった。そして、にこにこと笑いながら『むさしの童子』たちとダンスを踊った。私はダンスに夢中になった。

 『むさしの童子』が幸せを呼ぶというのは、こういうことだったんだ。

 私には新しい目標ができた。民俗学を通して『むさしの童子』のことを世の中に伝えていこう。


                  4

 気がつくと朝になっていた。私は布団に突っ伏して眠っていた。『むさしの童子』たちはいなかった。あれは夢だったんだろうか? 

 いや、夢ではなかった。布団が涙でぐっしょりと濡れていた。それに、手の中に木彫りの山女魚の人形があった。

 さわやかな朝だった。来てよかった。私は心からそう思った。もう私は一人ではなかった。何か苦しい時には『むさしの童子』がやってきてくれる。私の心に力が湧いてきた。

 武蔵野童子館の女将さんが「朝食の支度ができました」と告げに来た。私は「ホール」へ行くために立ち上がった。

 そうだ。「ホール」の食事に山女魚がでるようになったらいいな。私一人ではなく、みんなの力でそうしたいな。私はそう思った。

                     了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

むさしのわらしがやってきた 永嶋良一 @azuki-takuan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ