prologue 灰と落人②

 曇天の空から、一滴雫が零れる。


 厚く垂れこめた雲からは堰を切った様に雨が降り始め、瞬く間に乾いた北の大地を潤していく。


 そこは廃墟であった。かつては立派な建物が立ち並ぶ場所であった筈の大公領の港町は、一夜のうちに原型を留めぬほど破壊し尽くされ討ち捨てられていた。


 命の気配と呼べるものはおよそ何もなく、ところどころ鉄錆の匂いが鼻につく。


 雨だれに打たれて細かい波紋の浮かぶ水溜りに、ばちゃりとひと際大きな水音が立った。


 冷たい雨の降りしきる灰色の仄暗い廃墟の中を、一人の女が歩いている。


「……雨の廃墟、か。斯様かような場所には似合いの舞台じゃな」


 ほうと一つ息を吐いて、女は廃墟の中をゆっくりと進んでいく。しかしその動きは覚束なく、一歩一歩全身を傾ける様に歩いている。


 女は夜の様な紫紺の髪を腰まで伸ばし、ぼろぼろに破れた漆黒のマントにその細い肢体を包んでいた。


白磁の様に白く滑らかな肌には、しかし雨粒ひとつ当たっていない。雨滴の一粒一粒は彼女に当たる寸前で弾かれ、瞬く間に霧消していた。


「ええい、何とマナの薄い場所じゃ。これではロクに魔法も魔術も行使できぬではないか」


 吐く息は荒く、目の焦点は定まらない。彼女が歩くには、ここは余りに枯れた場所であった。まるで水の中へ潜る様な、息苦しい圧迫感だけが彼女の肺臓を満たしている。


「魔王と呼ばれた妾が……よもやこのノエル・【ノワール】・アストライアが、蟲共の巣に身を隠すなどと……っ!」


 つう、とノエルの口元から、一筋の紅い雫が零れ堕ちる。食いしばって除いた歯は、犬歯が獣の様に長く鋭い牙となっていた。


 夜の女王、吸血鬼、血の魔女……彼女の呼び名は幾つもあれど、この世界の誰しもが知っている呼び名として真っ先に上がるのは間違いなく「魔王」であろう。


 彼女をそう呼ばぬものは、少なくとも人間の中には殆どいない。


 魔界の主、ノエル・【ノワール】・アストライアの名を知らぬ者など、この世界には一人としていない。


 この世を統べる七色の一つ『ノワール』の名を冠する彼女は、魔界と呼ばれる魔獣蠢く一つの大陸を、ただ一人にて支配してきた絶対的な王者である。


 三百年にわたる君臨と、百年以上に渡る人間との戦いによってこの世の三分の一以上を魔界の版図とした彼女の時代は、しかし五人の勇者の登場により唐突に終わりを迎える。


 アルフレッド、ユークリッド、イシュタリア、ヒース、クラリス。


彼ら五人によって率いられた青の王国、黄の聖帝国、そして赤の大公領の連合軍は、魔王軍を瞬く間に打ち破っていった。


 永らく魔王軍の優勢であった戦局は一息に覆され、わずか三年にして本丸である魔王城へ勇者一行の侵入を許す次第となったのは、恐らく魔界の誰しもが予想し得なかった事であろう。


 一人一人が一騎当千の力を誇る勇者一行によって魔王は深手を負い、瀕死となりながらも、北の果てにある大公領の更に辺境の地にまで落ち延びていた。


 ――血の匂いが、濃くなっておるの。


 ごくり、とノエルが生唾を飲み込み、少しだけ前へ進む足を早める。


 魔界の王であり、吸血鬼でもある彼女にとって、人間の血――取り分け、精力や魔力に満ちた強者の血液ほど食欲をそそられるものはない。


 例え雨に流され、人には嗅ぎ取れないほど薄くなっていようとも。


 人の血を特上の美酒として愉しむ彼女にとって、この辺りはむせ返るほど甘美な香りで満たされている様に感じられていた。


「……これでは誰が生きておるのかも分からん程じゃな」


 血の匂いを辿って行くと、そこにあったのは夥しい死体の山であった。


 見れば死体はどれも重厚な鎧と武器で装備しており、しかしその身体は殆どがまるでやすりでもかけたかの様に滑らかな切り口を覗かせて解体されていた。


 首、腿、胴体、肩……そのいずれも人体の脆い部分だけを正確に狙って一太刀で斬っているのは誰が見ても明白であった。


 武芸に秀でた達人、それも相当な天稟と技術と経験を備えた人物が、この死体の山を築いているとノエルは判断した。


 ――さて、五人か十人か、あるいは……。


 目を細めて山の頂の辺りを見ていたノエルが、ばちりと瞬きしてにやりと笑う。


「おい、ぬし。まさかこれ……ぬし一人でやったのかえ?」


「…………」


 亡骸のいただきには、一人の男が膝をついたまま項垂れていた。


 紅の甲冑と、からすの羽根の様に黒い髪は、くまなく血を浴びてぎらぎらと赤黒く輝いており、不躾にも双剣を杖として、もたれかかる様な姿勢のままぐったりとしていた。


 今にも崩れ落ちそうな姿勢で、一見すれば生きているのか死んでいるのかも分からない状態ながら、近付けば喰い殺すと全身で叫ぶその濃密な殺気が彼の生きている事を証明していた。


「千は下らんのぅ、それも全員手練れであったか? 勇者アルフレッド以外にこれほどの技を使うヒトがいようとはな……」


 麓に足をかけ、一歩一歩ゆっくりとノエルが山を登っていく。


「こういうのをお前たちの世界では、一寸の虫にも五分の魂と言ったかの? 中々どうして、虫けらの分際で魅せるではないか」


 ノエルが親指を噛んで血を垂らすと、死体の切り口や流れる雨水から血が引きずり出され、彼女の肩甲骨の辺りに集められて翼を形作る。


 通常、心臓の止まった死体から血は流れない。既に運動の止まった液体や他の液体に混じったものであっても、それが魔力を含んだ血液であれば自在に操作できる。それが彼女の術式であった。


「虫の息とは言えまだ生きておるようだしのぅ……ふむ、活きも良いし身体も魔力も上々。『依り代』はこやつが良いな」


 ノエルがにやりと笑い、腕を振り上げる。


血で作った翼は緊張を失った様にばらりと崩れて空中に静止し、瞬く間に頭上で複雑な魔法陣を無数に形成した。


組み上げられた魔法陣がきびきびと運動しては立体的に合わさり、立方体を形成する。


「――来い、イフリート」


 ぱちんと指を鳴らすと立方体が高速で回転し、やがて楕円の形を取り――楕円は二つに割れて巨大な竜の手が中から姿を現した。


 ばきばきと空間を割りながら、赤黒い鱗に覆われた巨躯がゆっくりと出てくる。


ぞろりと牙を揃えたあぎとが覗くと、正方形は塵となり一気に赤い竜が姿を現した。


死体を塵芥の如く踏みしだき、踏んだ傍から燃やしながら、炎竜が廃墟へと降り立つ。


 巨大で金属質な身体、禍々しい広大な翼、研ぎ澄まされた爪、そしてルビーの様な深紅の瞳が炎竜イフリートの特徴である。


 しかしその鱗は至る部分が砕け、爪にも皹や欠けが走り、片目は潰れて翼は破れ明後日の方角を剥いていた。砕けた鱗の隙間からは紫色の血が湧き出すように滲み、牙の間からは泡が覗いている。


「……ほう? また我を呼び出すとは、中々切羽詰まっておるようだなノワールよ。いやはや、貴様に焼きが回る様は見ていて愉快よな」


 肺の奥から絞り出す様なぜえぜえと荒く掠れた呼吸をするノエルを睥睨して、竜がくつくつと嗤う。


「それは互い様というものじゃろう。妾も貴様も、今やかつての力は残っておるまい」


 見ればノエルの姿は先程と比べてひと回り小さくなっていた。話している間にも彼女の身体は見る見るうちに縮んでいき、子供ほどの大きさにまで縮んだところで、その衰えは止まった。


 ――ええい、やはりこやつを呼び出すのは代償が大きすぎたか。とは言え仕方ない……。


 炎竜イフリート。魔王ノエルの最大戦力であり、あらゆる炎を統べる最強の竜の一角である。


ノエルとの契約によって血と魔力を媒介に呼び出され、ノエルの命令によってのみその力を行使する。……ただし、契約によって縛られている間に限っての話だが。


「それで? 此度は何を焼き払えば良い? こんな掃き溜めの様な場所で我は何をすれば良い?」


「…………」


 くしゃり、とノエルがクリフの髪を梳く。


べったりと血に濡れて額から鼻へ垂れた髪から彼の目が覗いた。


白目を剥いてか細い息を吐く彼の表情は、英雄というより手負いの獣、否――悪鬼羅刹の類である様にしか見えなかった。


「ほう、怒りに満ちた良い目だな。修羅の只中でもがく者の目よ」


 面白そうだ、という目で、イフリートがクリフを見遣る。まるで幼子が蟻を見るような、文字通り人を人とも見ない目であった。


 ノエルとて同じことである。クリフの事を評価し、面白いと思っても、決して対等であるとは見ようとしない。己が同胞――魔族よりも下等な、虫や畜生の類としてしか、ヒトという生物を認識していなかった。


 しかしノエルの目は、イフリートのものと比べると些か穏やかなものとなっている。


 ほうと息を吐き出すと、ノエルはクリフの甲冑を解いて胸を露出させ、指の腹を噛み切って血で素早く魔法陣を描いた。


 描き終わった魔法陣は紅色に淡く輝き、辺りに魔力が満ちていく。


 彼と出会ったその瞬間から、彼女が取るべき選択は一つに定まっていた。


「……イフリート。これより貴様に最後の命令を与える」


 そして、彼女の唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。



「これより、勇者を殺す旅を始める」

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