第十三話 勇者殺しの条件⑧

「な――ッ」


 ぞわり、とエヴァの全身を、蟲が這う様な怖気が奔る。


 下へと向けられた彼女の視線は、自らの影に縫い付けられた。


「あ、あ、あ、あぁ……!」


 ほんの一瞬前までは、何事もなく自分の足元に落ちていた影。


 その影を侵食する様に、凌辱する様に、ノエルから伸びた無数の手の形の影が取り囲んでいた。手がエヴァの影に触れる度に、彼女の身体にぞわりと怖気が奔る。


 不意に、手の一つがぐんと大きくなり――エヴァの影から、左腕を乱暴に引き千切った。食いちぎられるような、熱く焼けたものを捻じ込まれた様な激痛が、エヴァの全身を駆け巡る。


「ぎゃあああああああっっっ!」


 涙と涎を垂らしながら、エヴァが絶叫する。がくがくと痙攣しながら膝を着いて悶える姿を見て、ノエルは満足そうに微笑んだ。


「うむ、うむ、中々見事なつくばいぶりじゃ。やはり蟲は地を這うてこそ蟲じゃの。先程からいささか頭が高いと思うておったのじゃ」


 再び影の手が大きくなり、エヴァの影の右足首から先を捥ぎ取る。


 声にもならぬ悲鳴を上げてばたばたとのたうち回るエヴァの頭を、ノエルがぐんと踏みつけた。両手両足を振り回しながら、エヴァがノエルの支配から逃れようと必死にもがく。


「とはいえ妾はの、ただただ蹲う虫けらが見たい訳ではないのじゃ。妾が所望するは毒虫、或いは獣の類での。妾にひと噛み浴びせる気概はもう一度欲しいのぅ」


 ぐり、とノエルがエヴァの頭を踏みにじる。


「ほれ、もう一度立ち上がれ! 勇者ユークリッドの尖兵、エヴァ・テッサリーニ! ぬしはまだ立ち上がれるぞ! ぬしには片足も片手も残っておろうが! 地を蹴って妾へ飛びつけ! 牙を剥いて喰らいつけ! 精霊憑きはまだ残っておるか!?

 ぬしの勝機はまだ、鴻毛の一枚程度は残っておろうぞ! さぁ、早く! 早く!」


「あ、ひぃ、いぃ……! うわぁあああああっっ!」


 エヴァがだらだらと脂汗を流しながら、スキールニルを握りしめる。


 ――ユークリッド様、ユークリッド様、ユークリッド様……!


 激甚たる痛みと恐怖の中で、びりびりと痺れる脳髄のどこかで、エヴァはユークリッドのことを考えていた。


 エヴァ・テッサリーニの方寸こころにあるのは、ユークリッドへの恩義と忠誠のみである。


 エヴァの生家――テッサリーニ家の人間には、肉への執着は一切許されていない。


まずは目、次に耳、手から腕、足から腹、果ては心臓や脳まで、人工的な魔力回路と義体へと交換していくことを強いられる。


 その半身を義体化し、尋常ならざる魔術回路と幻想種並の長命を得た魔導の大家、ゼノ・テッサリーニの娘として、エヴァはその全身を義体化できる適性を備え、「永遠の命の獲得」というテッサリーニ家百五十年に渡る大願の成就を嘱望されていた。


 移植が始まったのは、七つのとき。


祭壇へ縛られ、意識を絶えず混濁させられ、目玉や臓腑を切り取られていた彼女を救い出したのはユークリッドだった。


 ――おれの世界の礎になる気はないか。何ものにもなり得る少女おとめよ――。


「――宵の明星、明けの流星!」


 縋る様に、エヴァがスキールニルに魔力を流す。


 スキールニルの斬撃は自動的である。剣と仕手を回路で結び、回路に刻まれた使徒の記憶……使徒の振るっていた業を自動的に振るわせる。


 そこには仕手の感情やコンディションは一切介在しない。仕手の精神がどうであれ、仕手の身体がどうであれ、ひと度詠唱することができれば、先刻ノエルを切り裂いた技を振るうことが可能だ。


「瞬き流れて陽を招け、スキールニル!」


 唱えた言葉の一瞬のち、エヴァの身体は動き出す。


 不躾にも剣を杖として身体を起こし、限界まで収縮した大腿から渾身の跳躍を行う。跳び上がりながらノエルの股間から腹までを裂き、腹から抜けた剣を大上段に構え直して肩口へ打ち下ろした。


 この間僅かに二秒弱。ほんの一瞬前まで地べたを這い蹲っていた人間の動きと誰が思うだろうか。熟練の兵士すら凌ぐ反応速度で以て、エヴァはノエルにふた太刀浴びせてみせた。


 ――ユークリッド様の、ために……!


 ただし、スキールニルの権能はあくまでもスキールニルだけのものである。


 次にエヴァの取った行動は、ノエルに背を向けての逃避であった。つまり彼女は、何があっても主人の用命を守る義務を……手足がもげてもマージェリーを連れ帰るという己の意志を……初めて自分の中で


「ユークリッド様へ、ユークリッド様へと報せなければ……!」


「…………」


 ノエルの顔が、驚きに満ちる。


 驚愕はすぐに失望へと変わり、失望はじわじわと怒りへと変わっていく。


 憤怒に歪んだノエルの顔を見て、マージェリーはごくりと生唾を呑み込んだ。


「そうか、そうか、ぬしもッ! 凡骨の、出来損ないの、半端者のいぬめ!」


「ユークリッド様のもとへ……! ユークリッド様の、近くへ……!」


「……左様か。どうあっても、妾のとぎはせぬと云うのだな」


 静かな怒りと深い失望を湛えて、ノエルが軽く開いた掌を逃げるエヴァへと向ける。


「相対を以て妾を悦ばすことができぬと云うならば――」


 ぐ、とノエルが開いた手を握りしめる。


「その手足はもう要らぬな、エヴァ・テッサリーニ」


 ほんの少し黒い魔力が爆ぜて……エヴァの左腕がべきんと音を立てて捻じれた。


「ぎゃあああッッ!」


 白目を剥き、エヴァが絶叫する。なおも逃げ続けようとしたエヴァの右足が、ばきばきと音を立ててへし折れた。


「ーーー~~~~ッッッ!」


 先刻ノエルが奪ったのは、生身の腕でも影でもない。彼女が乱暴に奪い取ったのは手足の支配権である。


 元来、影とは侵されてはならぬ呪術霊媒である。


 影を踏むことで相手の動きを止める、影を突き刺すことで相手を殺す。古代に存在していた呪いは、いつしか魔術が体系化されていく過程で失われていった。


 魔力にて増幅させた影を相手に繋いで侵入・同期を行い、影に流した術式から支配権を強制的に剥奪する。征服と蹂躙の影は、坐したままに遍く全てを平服させる魔王の指先である。


 ほんの少し、爪の先ほどだけ垣間見えた……魔王の力の片鱗。


 しかしその片鱗は、エヴァ・テッサリーニを骨の髄まで恐怖に凍てつかせ、一人の戦士から逃げ惑う哀れな羊へと変えてしまうには十分すぎるものだった。


「不愉快じゃ、実に不愉快じゃ。もはや妾が手ずから相手をするまでもないわ。狼の餌になってしまえ……クリフの刃の露となってしまえ!」


「――スキールニル!」


 残った右腕を振り上げ、エヴァが叫ぶ。


 エヴァの全身を魔力が奔り、彼女は再び矢の様に駆け出した。


 スキールニルもノエルの影も、術式の構造はよく似通っている。


魔術回路を同期させ、特定の動作をさせるという点においては、今現在はスキールニルの方が強い。スキールニルはなのだから。


 一時的に魔王の支配から聖人の支配へと鞍替えしたエヴァの身体は、無人の街をひた走る。


 既に何人の気配も、この街には残っていなかった。手ずから精霊憑きへと変えた人々も、運よく逃れたやもしれぬ人も――どこかへ居るに違いない、あの狼も。


 そう、人の気配は、一人たりとも残ってはいない。


「――……あ」


 微かに、喉の奥から空気と共に声が漏れ出る。


 裏通りを抜け、曲がり角を折れて、大通りをひた走ったその先。


 町の中央を貫く大広場。むせ返る様な血の匂いの只中に、はいた。


 ――おお、かみ……?


 一本の細身の剣を杖として、虚ろにこちらを見つめる、一人の戦士。


 ……否。は最早、戦士と呼ぶにはあまりにも禍々しいものだった。


 全身を黒い魔術回路に侵食され、赤黒く両目を血走らせ、低く唸るケダモノ。


 例えるなら、それは灰。命もなく、心もなく、その身に炎を宿さない。考えられる中で最も太陽に遠いもの。昼ではなく、夜にこそ愛されるべき存在。


 しかしその目には、赤く血走ったその双眸にだけは――確かに炎の様な揺らぎがあった。それは太陽の様なまばゆいものでは無い。


 あるのはただ、怨みと敵意。己が太陽を奪われたものだけが宿す、深い恨みと強い渇望だけが、今の彼を満たしていた。


 ――嗚呼、あなたは。ユークリッド様を殺すつもりなのか。


 目が合った時間は、僅かに一秒以下。


 しかしスキールニルに身を任せ、伽藍となったエヴァの脳髄にとって、それだけの時間があれば十分だった。


 彼は緑の魔法使いを殺しに来たのだ。自分の居場所を、『緑の歌うたい』を、粉々に打ち砕きに来たのだ。


 彼は勇者の敵である。


それだけ分かれば、エヴァ・テッサリーニにとって、剣を振るう理由として十分足り得た。


「――瞬き流れて陽を招け、スキールニル!」


 ありったけの魔力をスキールニルへ流し込み、エヴァの身体は一条の閃光となる。


 左腕と右足は潰れた。心には恐れが宿った。今やスキールニルがなければ、エヴァは戦う事も叶わない。


 しかし、まだ自分には。あらゆる魔に絶大な効果を発揮する、神聖剣がまだ残っている。


 ――魔剣に支配を委ねた、今の狼になら……!


 勝てる。ほんの一瞬ではあったが、エヴァはそう信じた。


「はああああああああっっっ!」


 裂帛の気合で以て、神聖剣の一撃が撃ち込まれる。


 あと少しで、あとほんの少しで、勇者を狙う怨敵の命に届く。


 そうほくそ笑んだエヴァの視界から、唐突にクリフの姿は消えた。


「…………え?」


 ぐるり、とエヴァの視界が反転し、回転し……徐々に暗転していく。


 転がる景色の中で、ダーインスレイヴを振りぬいたクリフの姿がちらりと映った。同時に、首の無い自分の胴体も視界に映る。


 それは、一瞬の出来事だった。


 袈裟懸けにクリフを斬ろうとした刃は僅かな後退によって躱され、一分の狂いもなく正確な返し手で以て、エヴァの首は斬り落とされたのだ。


 斬られたと認識することすら適わない、完成された斬撃。


 絶命するまでの刹那にそれを理解したエヴァの脳髄に宿ったのは、恐れでも怒りでも悲しみでもなく……ただ、目の前の相手に対する深い感嘆であった。


「み……ご、と」


 短いが惜しみない、賞賛の言葉。


 その言葉を言い終わると同時に、エヴァ・テッサリーニの意識は途絶えた。

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