謀反と誅伐(vs.フリーデ・カレンベルク&ハイネ)

第十五話 嵐の予感

「――歌が、止んだ」


 長い銀色の睫毛があしらわれた目をゆっくりと開き、青年がむくりと起き上がる。


 ベッドを出てぐっと伸びをすると、彼の周りで緑色の粒子が弾けた。


 子供にも老人にも見える、不思議な雰囲気を持つ青年だった。翡翠の瞳に銀の髪、細く痩せた身体は流麗な銀細工を彷彿とさせる。長く伸ばした髪は三つ編みに纏められ、吹き込んだ風にふわりと揺れた。


 彼の名はユークリッド・【ヴェール】・ビリティス。『緑の歌うたい』総代にして、この世に五人といない魔法使い。そして魔王をあと一歩のところまで追いつめた、五人の勇者の一人である。


「バンコー、ハイネ。いるかい?」


「はい、バンコー・アウグスティヌスはここに」


御前おんまえに。ユークリッド」


 ユークリッドの呼びかけに、一組の男女が跪いて答える。


 男の方は痩せて背が高く、短く刈った金髪と暗いヴァイオレットの瞳を持っている。


 一方で女の方は紺色の長髪を乱雑に一纏めにしており、額から左の頬にかけて大きな傷跡があった。褐色の肌に包まれた胴体や足ははち切れんばかりの筋肉で盛り上がっており、袖を切り落とした衣からは真っ黒でごつごつとした両腕が覗いている。


 二人には視線を送らないまま、ユークリッドが言葉を続ける。


「さっきまで聞こえていた調べが聞こえない。エヴァの歌が止まってしまったんだ」


「エヴァは例の潜伏先にて、マージェリーお嬢様をお連れする筈でしたが」


 バンコーと呼ばれた男が、ユークリッドの言葉に応える。


 彼の言葉を聞いて、ユークリッドは物憂げに目を伏せ……ほうとため息をついた。


「エヴァの歌は聞こえない、おれの小鳥もいない。となれば……」


 ユークリッドの瞳が、きらりと潤む。つうと流れた涙に、ハイネが少しぎょっとした。顔を歪めることもなく、嗚咽を漏らすでもなく、ただ涙だけが流れている。


「そうか、逝ってしまったんだね。悲しいな……」


「まだフリーデがいた筈だろ。あいつなら問題ないんじゃねえか?」


「ハイネ、とてもフリーデに任せるといった顔には見えませんが」


「……当ったり前よ」


 ハイネが口元を歪めて、ごきんと拳を鳴らす。その両腕は鉄塊の様な義手になっており、動かすたびに緑の光が淡く走る。


 大業物『ヤーングレイブル』。雷神の持つ手袋の名を冠した、最高の拳である。


「な、なぁユークリッド。行かせてくれよ、ヤらせてくれよ。アタシもう渇いて渇いてたまらないんだ。ひ弱な月光教徒だけじゃあもう満足できないんだよ」


 ハイネの口元から、涎がひと筋流れ落ちる。うっとりとした表情のまま、荒い息を吐いて彼女はユークリッドへと大股に近づく。


「絶対に大物だ、ビンビン感じるっ! 殺す殺す、全員殺すっ!」


「…………」


 ――ふむ、どうしたものか……。


 ぞくぞくと昂りを抑えられないハイネを見て、ユークリッドは少し黙考した。


 エヴァの降霊魔術ネクロマンスは一級のそれだ。町一つを己が手足と変えて、落とせなかった勢力など存在しない。


 例え軍隊が相手であっても、その全てを撃滅してマージェリーを連れて来ることは容易いだろう。何せ相手が多ければ多い程、術の効力が強まるのだ。強大な大部隊であっても羊の群れと大差ない。


 しかしたった一日で、エヴァ・テッサリーニの歌は止んだ。マージェリーだけで成し得たとは考えられない。他に誰か協力者がいたと考えるべきだろう。


 数百数千の痛みと恐れを知らない暴徒を抑えて、エヴァを狩れる協力者が。


 ――相手は少数、恐らくは数人……。


「……どうにも匂うな。嫌な感じだ」


 顎の辺りをさすりながら、ユークリッドが立ち上がる。彼の心の揺らぎを表す様に、周りを漂う粒子は激しく明滅し始めた。


「ハイネ」


「ああ、行かせてくれるのかユークリッド!」


「三日やる。フリーデに合流してマージェリーを連れて来てくれ」


「ああ! 敵は!?」


「喰らって良し」


「町は!?」


「壊して良し」


「よぅし! それじゃあくとしよう!」


 がつん、と拳同士を打ち鳴らして、ハイネはくるりと踵を返した。


 その顔は飢えた獣から一転し、精悍な戦士の表情になっている。彼女の身体から溢れる魔力によって、石壁や敷物がちりちりと焦げ付いた。


「『鉄槌の青嵐』ハイネ。鉄血鉄火の戦場いくさばへ、剣林弾雨の血の庭へ、いざいざ推して参ろうぞ!」


 よく通る声で名乗りを上げると、ハイネの姿はそこから消えた。床にめりこんで残った足跡から、彼女が移動したことが伺い知れる。


 その動きを全く追うことができなかったバンコーが、冷や汗を幾筋か垂らした。


 ――バケモノめ。


「……相変わらず、無茶苦茶な女だ。これでは野生児と変わりませんね」


「それでいいんだよ、彼女は今や最高の戦士だ。上品に収まっていられる器でもなかろうさ」


 ベッドの上に腰掛け、ユークリッドが自分の唇を指で弄び始める。薄い桜色の花弁が柔らかく変形するのを眺めながら、バンコーは小さくため息をついた。


「しかし、本当にハイネを行かせてよろしかったのですか? 彼女はお嬢様の首ごと持ってきそうな危うさがありますが」


「ああ、おれもそう思うね。相手はエヴァをたおすほどの実力者だ、ハイネなら全力を出しかねない」


「でしたら何故――」


 言葉を続けようとしたバンコーの口が、そこでぴたりと止まる。


 ユークリッドは笑っていた。唇だけをぎゅっと引き延ばして、取り敢えず貼り付けてみたような笑みを浮かべている。


「確証は無いけどね、バンコー。おれは今回の敵……ハイネと互角、いいや上回るなんじゃないかと思ってる」


「なっ……!」


 ユークリッドの言葉に、バンコーが絶句する。


 最高の魔術師であるユークリッドを除けば、ハイネはこの『緑の歌うたい』のなのだ。


 この組織に限らず、太陽教会の中でも彼女は屈指の実力を誇る。その彼女を凌ぐとなれば、もはや『緑の歌うたい』では勇者ユークリッド以外に相手を撃退しうる戦力がいないことになる。


「ハイネが連れて来ようと来まいと、どの道マージェリーは……おれの小鳥は必ず鳥籠へ帰ってくる筈さ。あの子は聡い。鼠の様に逃げ回るより、おれと決着を着けるために戦うことを選んだはずだ」


「……あまり賢い選択とは思えませんが」


「何を言うんだバンコー。考え得る限り最も選択じゃないか!」


 ぱん、と一つ手を叩き、ユークリッドが再び立ち上がる。


「あの子はおれの願いの為に必要だ。ハイネならば上手くやってくれるだろうけど、もしも失敗するようなことがあれば――」


 かり、と音を立てて、ユークリッドが爪を噛む。


「おれが手ずから、小鳥を鳥籠へ戻してあげないとな」


 にやりと再び、ユークリッドが唇だけで笑う。


 彼の表情はその全てが偽物で、全てが胡散臭い。


 まるで人間ではない何かが人間の真似事をしているような気味の悪さが、彼の全身から匂い立っていた。


「バンコー。聖帝国や王国にいる人間から、行方が分からなくなっている奴を洗ってくれ。現在正規軍に属してなくて、大戦の参加経験がある人間だ。精霊憑きは大戦でしか使われていないから、恐らく精霊憑きが投入された作戦地域の生き残りだ」


「承りました。では、また後程」


 一礼してバンコーがユークリッドの前から下がり、部屋の中に静寂が戻る。


 静かになった部屋で一人ベッドに身体を預けながら、ユークリッドは天井を見上げた。


「この感じ、知っている気がするけど……はて、何だったか……」


 脳髄のどこかに引っかかるものを感じながら、ユークリッドが考えを巡らす。


 先の大戦には当然彼も参加している。常に死が隣り合わせの世界の中で、彼は万夫不当の強者たちには幾人か出会っている。


 ――その中で、一騎当千ほどの使い手ともなれば……。


「……いざとなれば、またこの力に頼らざるを得ないか」


 ユークリッドが天井に向かって右手を伸ばすと、橙色の眩い輝きが一瞬ぱっと放たれ、部屋の中を満たした。部屋に陽気が満ち、軽く汗ばむほどに気温が上がる。


 陽気の中で目を細めて、ユークリッドが唇を噛んだ。


「かつて魔王を打倒した、太陽の聖女コーネリアの力に」


 心なしか少し悲しそうに、彼はそう呟いた。

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