吾は食パンである。

三瀬 しろり

吾は食パンである。

「やはーい!ひこくひこく!!」


娘が、全力で走っている。


吾──つまり、食パンをくわえながら。


人間界のことはあまり詳しくないが、この娘はコウコウというところに毎日行っているのだと、朝の食卓の会話で聞いた。


娘の名前も言ってたような気もするが、思い出せない。吾はミミこそあるが、アタマはないのだ。何か聞いても少しすると忘れてしまう。


ちなみに、吾は食パンの耳を残すやつが嫌いだ。吾々食パンは食べられるために生まれてきたというのに、中途半端に耳だけ残されると、意識が一部人間界に残ってしまって、何だか心地が悪いのだ。そこまで食べたのなら潔く食べろといつも思う。


さて、この娘はどうだろうか。


食パンをくわえて走るというあまりない行動に出た変なやつだが、果たして……。


お、おい、ちょっと待て。そんなに強く噛むんだら、噛みちぎれるぞ。道端に落とすのだけはやめてくれ。鳥に突かれるのは好きじゃないんだ。


命の危険(どの道食べられるのだが)を感じた吾がハラハラと見守っていると、娘は曲がり角に到達した。曲がるために入れた力からか、噛むのが一段と強くなる。くっ、もう吾もここまでか……!


吾を作り出してくれた、少しイイお店のパン職人の笑顔が走馬灯のように頭(実際にはない)を過ぎった瞬間、吾の視界が反転した。ちなみに、なぜ吾に外の景色を見ることができるのかは、自分でも分かっていない。


「きゃっ!!」


娘の甲高い声、何かがぶつかる鈍い音と共に、電柱、電線、娘の驚く顔がぐるぐると回る。


ぽーんと宙に放り出された吾を、しっかりとした手が受け止めた。


「ごめん!大丈夫?ケガはない?」


見上げると、娘と似たような洋服を着ていた青年が、心配そうに顔を少しだけ歪めた。どうやら娘と衝突したらしい。


腰を抜かして座り込んでいる娘を、青年は吾を持っていない方の手でひっぱり起こす。


「だ、大丈夫です!こちらこそすみません!そちらこそ、お怪我は?」


娘もアワアワと手を振り、頭を下げた。心なしか娘の頬が赤く色づいて見える。


「俺も全然ヘーキ。あ、はい。これ」


青年がクスクスと笑いながら吾を娘に差し出した。


「あっ!もう、私ったら……」


本当にな。吾をふっとばすとは何事か!


「てか、もしかしなくても同じ高校だよね?」


青年が、人当たりのよさそうな笑顔で聞いた。こやつ、食パン業界にいたらかなりモテるタイプだな。


「確かにそうですね、すごい偶然!」


娘がキラキラした笑顔で応じる。起きたばかりは髪もボサボサでやる気なさげな目をしていたのに、人間というのはつくづくすごい。


「あのさ、良かったら一緒に行かない?やっぱりケガしてて、途中で体調悪くなるなんてことになったら、嫌だからさ」


「そんな……。えへっ、でもお言葉に甘えちゃおうかな」


何か、ふたりの間の雰囲気がフレンチトーストのように甘いような。


「じゃ、行こっか。……って、時間ないんだった!君、申し訳ないけど走るよ!!」


青年の言葉に、空気が、焼き立ての食パンのようにパリッと引き締まる。


「はい、どこまでも着いていきます!!」


娘は、今度は吾を手に持ったまま、またもや全力で走り出した。しかし、視線は青年に釘付けだ。


吾は心の中でため息をついた。


やはり人間はせわしい。


でも、この娘は──少なくとも青年といる限りは、しっかりと耳まで食べてくれそうだ。


吾は少しだけ安堵すると、激しく揺れ動く景色をぼんやりと眺めた。







もちろん吾は、これがきっかけで恋が生まれることは知る由もない。








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吾は食パンである。 三瀬 しろり @sharp_r

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