第2話 阿部内親王と広虫

 天平七年三月吉備真備と玄肪は、唐から帰国する遣唐使船の船のなかにいた。

当時の中国から日本への航海は、命懸けであった。半数以上の船が難破し、目的地につくことができなかった。唐に渡る事は、今でいえばロケットで火星にいく以上の覚悟が必要だった。

それでも二人は、唐に渡る決断をした。

それほどまでして行きたいと思うには訳があった。

当時の唐は、先進国で超大国であった。唐と日本の国力は、象とアリ程の差があった。しかも唐は「開元・天宝」の盛時と呼ばれる開かれた高度な知識や洗練された思想、国際的に先見性豊かな文化が花開いていた。

唐と比べ日本はなんと遅れていることか。

日本のしきたりや政治体制、文化に至るまで全てが何百年も遅れ、日本の服装までダサくやぼったいと感じに二人は暗い気持ちになっていた。あこがれの唐

をこの目で見てきた二人は、なんとしても日本にこの唐の洗練された思想や文化を広めようと考えていた。

その時、見張りが声を張り上げた。


「陸が見えたぞー」


二人は船の先の水平線に小さい点のような陸があるのを見て、航海が無事に終えそうなのに安堵した。陸は徐々に大きくなり、緑豊かな山林の懐かしい風景が目に写ってきた。久しぶりに見る日本であった。

二人は、安堵感と同時に使命感も沸き上がってきた。彼らは、日本では貴族でない。日本では貴族でない

人間が、政府高官になる可能性はゼロに近かった。

唐も貴族社会である。

しかし唐の三代皇帝高宗の后、武則天は自らの国を作ろうとして、その人材を「北門の学士」に求めた。「北門の学士」とは、武則天が編纂事業を行いその中で発掘された優秀な人々の事を指していた。彼らに冠さる北門とは南衛に対する呼称である。

南衛は、宮城の南にある皇城の官庁街をいう。ここでは、宰相以下正規の宮人たちが政務をとり宮城の南門=正門から公的に皇帝に仕える官人に対して北門=裏門、いわば皇帝と背後から私的に結ばれる姿を象徴する言葉である。

当時の人々が彼らを指して北門の学士と呼んだ裏には正規の存在でないとする揶揄と、皇帝と私的で近い関係にあるとする羨望の相反する感情が交ざりあっていた。

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