第4話

 濡れそぼつ髪が額に張り付く、この世のものではない雨粒が長谷雄に一層まとわりついた。彼はそれらを鬱陶しそうにまとめてかきあげて、眉のあたりを指でなぞった。そうして、荒れていた呼吸を整え直すと、ついに策を巡らせ始めた。


 これなる遊戯に勝とうとするなら、どのようなものが必要であるか。戦術理論や勝負運なんていうのは考えてみれば、当然持っていて然るべきもの。


 別に持つべきものがあるはずなのだ。それは相手の弱みを知ること、理外の鬼の心を打ち崩す手だ。


 何度も言っていることではあるが、長谷雄は双六の名人だ。定石というものを誰よりも熟知しているし、平時における打ち合いであれば彼ほど綺麗に戦うものは京の隅まで探したとしたって何処にもいはしないだろう。


 ぼんやり家業の只人が盤上を横目で盗み見てから、ああこうすれば良いのに、などという差出口など挟みようがない王道の名手であるのだ。


 とはいえ、探せば彼より強いものなどいくらでもいる。何故ならこの時代の定石というのは守りの手本が多くを占めており、それだけならば攻め手にかけてしまうからである。


 故に、定石を知り尽くしている者達にとって攻め手というのはある種手探りに近いものがある。自らが知り、思いつく限りの守りを突破するかもしれないという仮想の一手を賽の目と相談しながら打ち込むものなのだ。


 そんな運も絡む盤上遊戯であるから、尋常の発想であれば打ち合いの中に多少の茶目っ気を混ぜ込むものだし、悪戯心に動かした駒こそが、案外役に立ってしまうというのはこれまた良くある話である。


 長谷雄に足りない物があるとするなら、恐らくそれが足りてなかった。


 胸三寸の皮算用だが、長谷雄の手はなんとなくだが定まりつつあった。


 さてと、ここらで鬼の顔でも眺めてやろうか。


 脅された鬼は、一瞬動揺してはみたが、恐らくは脅しというのをすぐには理解できなかったのだろう。


 なにせ笠置山の鬼って奴は鬼の中でも一際大柄な体と賢い頭を持ち合わせていて、生まれてこの方負けなしだった。


 そもそも山の名を名乗るということ自体が鬼の大将の証であるのだ。


 二人を囲む鬼どもの内にも、名のある鬼の大将はいくらかいたけれど、その中にあっても、笠置山の鬼ほど強いものはいなかった。


 自分よりも強い鬼が仮にいたとして、それに脅されたのなら、まだ話はわかったかもしれない。ちっぽけでみすぼらしい人間ふぜいが自分を殺すと宣ったことが不思議で仕方がなかったのだろう。


 けれど、長谷雄のあの声を聞いた時から、首元がなんだか痒くなって、指先に張り付く尖った爪が自然とそれを撫でそうになる。


「斯様に剛気なお方だとは、矮小なる鬼めには予想もつきようはずがない。ならば、ならば、我が首掲げて英雄譚でも作りましょうや」


 鬼は不気味に笑ってみせる。小馬鹿にしたようなその口角に、長谷雄は鬼が隠した恐れを見抜いた。


 長谷雄は賽を打って駒を動かす。一見すればなんてことはない凡夫のような打ち手に見えるし、実際、思いつきの一手であった。


 しかし、将棋や碁でも言えた話であるが、彼が見ているのは目先の駒ではなくて、切っ掛けの先の無数の分岐。


 これは、その先に見えた勝利の為の中々強きな攻め手の先鋒であるのだ。


「恥知らずにも一度負けた分際が今度は仲間を呼び寄せて、鬼の術まで使って負ける。果たして、そんな鬼の断末魔は一体どんな叫びであろうな」


 あくまで鬼は雅の体を装って、カカカと声を漏らすのみだが、次に打った鬼の手は守りを意味する駒が動いた。


「おお、怖い怖い。全く、近頃の人間というのは一皮剥ければこの有様よ。然るにこれまた無様な一手。こうしてやれば、案ずるに及ばず」


 とうに飲み干した瓢箪をもう一度傾けて、鬼は最後の一滴を舌の上で転がした。燃えるような酒精のはずが一滴だけでは味すらしない。


 回って長谷雄の番である、賽も回って出目は九。この時、長谷雄は振るより前にどうするかなど決めていたので、考える暇も与えはしない。


 鬼の舌から出でる乾いた息を暗澹たる乱雲より注がれる雨粒が切り裂いていく。


 鬼はこの時になってようやく気づいた。何故、自分は守りの手など打ってしまったのかと。


 長谷雄の一気呵成は止まりはしない、死んでいたはずの凡手の駒が蘇るかの如く、動き始める。


 殺したはずの人間の目が、かくも眩しく輝き始める。


 鬼の番に出た目は、七、二、四、三、それからそれから、六、二、二、五。


 鬼の額より垂れる水滴は鼻筋あたりから、つーっと通って顎の辺りでしたたり落ちた。


 止まり考えれば良いものを、鬼はもうそんなことなど頭にはない。巡る順手に目眩を覚え、長谷雄に従うかのように躊躇いまじりの悪手を指すのみ。


 黄金造りの双六盤が鈍く翳って、周りの鬼のざわめきも止む。

 

 長谷雄はついに、これが最後と、黄金の賽を盤に打ちつけた。


「さぁ、笠置山の鬼よ。人食羅刹の大化生よ。貴様こそが祈ってみせるがいい。膿の溜まった己の首を天神さまに祈ってみせろ」


 鬼は賽を見るまでもなく、体を打ち震わせ恐怖に慄き、見るも無残な咆哮をあげた。


 そうして、長い闇夜に日が登るように今宵の勝負はとうとう終わった。


 唖然としている鬼共の目を盗んで、女が長谷雄に駆け寄った。


「あなたさま、あなたさまの無事を願っておりました。何よりも願っておりました」


「ああ、勿論わかっているとも。しかし、どうやらこれで終いに成る程に、鬼も甘くはないらしい」


 笠置山の鬼は呆けたままで、けれども目だけはこちらをぎょろりと睨む。追い詰められた獅子であっても、こうも鋭く光りはしまい。だからか、長谷雄は水姫を背に未だ張り詰めたままであるのだ。


「笠置山の鬼と申したな、二度と現れぬと約束するなら、今更首など欲すべくもなし。黙って消えればそれで許そう」


 鬼はむくりと立ち上がり、一歩一歩と二人に近づく。恐ろしい目は長谷雄を捉え、ただでさえ剛力の鬼の腕は長谷雄を絞め殺さんとばかりに膨らんでいく。


 そして、腰の小刀をゆっくり鞘より抜き出したのだ。小刀といっても人から見れば、太刀といっても過言ではない平造り二尺五寸の業物である。


 鬼との距離はじりじり詰まる、辺りを囲む鬼共のせいで、逃げようにも逃げることすらできない。


 笠置山の鬼は刀を逆手に振りかぶる。長谷雄は水姫の前へと躍り出て必死に両手で庇ってみせた。


(こうなることは予想はしたが、その通りになってしまうか)


 ところが刀は長谷雄を殺さず、その前の地面へと真っ直ぐに突き刺さったのだ。


「紀長谷雄、我を負かせた人間よ。首を取るには、刀が必要。我が宝刀を貴様にやろう、これでもって首を落とすが良い」


 そう、鬼は言って腰を下ろした。


「この鬼は確かに祈ってしまったのだ、神や仏など知りようもないが命が惜しいと思ってしまったのだ。けれども命を長らえ生きたとしても、それに何の意味があろうか。名誉も何も消えた先に、どんな価値があろうというのか」


 鬼の独自はまるで、かつての長谷雄を見ているようだ。ここで長谷雄も合点がいった。なるほど、かつての自分というのは心に鬼を飼っていたらしい。ならば、この鬼こそ殺せはしない。卑怯で傲慢な鬼であっても、その首を取れば元の木阿弥。故に長谷雄はその刀を持って、周りの鬼に構えて向けた。


「貴様は殺さぬ、何故ならこの紀長谷雄こそ元は傲慢であったのだから」


 周りの鬼がどよめき立った。


「やい、見ろ、あの鬼、人間に首を差し出した」


「無様な鬼の恥晒しめが」


 周りの鬼が口々に言う。


「笠置山の鬼も食っちまえばいい、そうだ囲んで殺して食っちまえばいい」


「男も女も皆殺しにしろ、そうすりゃいいんだ、そうすりゃいいんだ」


 怒声は山を飲みこむ大波の如く、喚いて叫んで罵り続ける。そうして、今こそ襲い掛かろうとした時だ。


 辺りが、白い後光に包み込まれた。


「我を呼んだ者は誰ぞか」


 長谷雄は天を見上げて驚いた。そこにあるのは太陽の輪郭、全てを包まんとする神仏のいずれか。


 神々しい煌めきは闇を焦がして、長谷雄もそれをはっきりと視認できない。


 大鬼共は我先と逃げ、小鬼共は蜘蛛の子のように散っていく。そうして、鬼の異界諸共何処へなりへと消えてしまった。


「紀長谷雄よ、その鬼を何故生かそうとした」


 残った者に神仏は問う、知るためではなく、見定める為。


 長谷雄は眩い光に向かって、胸を張って答えてみせた。


「この鬼を殺すのならば、過去の己を許すことすらできようもない。何より我が妻は死体のつぎはぎ、化物を殺すというのであれば、妻すら手にかけねばならぬ」


「ならば、清濁暗明一切呑み込み、苦しみながら生きるがいい」


 そうして、気づけば朝日の中に光はうっすら消えていった。


 長谷雄はそれを見送った後、妻を連れ立ち、その場を去った。







 その後、長谷雄がどうしたかって?


 菅原公に取り立てられて立派な人になったのだという。けれど、大層美しい嫁御のことも鬼を払いし武勇のことも誰にも語らず、その生涯を閉じた。


 ならばどうして、このお話が絵巻物になっているのか。

 

 それは伝えて歩く者がいたからだ。


 大柄なだけの托鉢坊主は、酒を片手に叢雲の隙間を見上げて言った。


「なるほど、そんな者に負けたのならば、わたくしの面子も立ったというもの」


 千年経っても、空の青さは何一つとして変わることなし。故に、変わることはといえば、その下で生きる人の心なのだ。

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朱雀門の鬼 三浦周 @mittu-77

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