【揺れる】

 朝食を終えた頃、再び私の部屋にやって来た母の手には赤い着物の一式があった。

 毎年の元旦に着るためのもの。

 それ以外で着たことはこれまでには1度もない。


「それを・・・・着るの?」

「そうよ」

「お正月でもないのに?」

「それは・・・・とにかく今日はこれを着てちょうだい」

「・・・・」


 私がこの状況で何をどう言おうと流されていく向きは変えられないのは分かってはいても気持ちはまったく追い付けない。

 正直、解せないことばかりだ。


 カタ カタカタカタ

 カタカタカタカタカタ カタカタカタ


「え? 揺れてる? 地震?」


 ふいに、部屋の中の小物箪笥こものだんすやドレッサーの化粧品などが小刻みに震えるように音を立て始めた。


「あ、ああっ」

「お母さん?」

「大変・・・・大変だわ」

「何? どうしたの? 大した地震じゃ──」

「大変よっ、ああ、どうしましょう」

「お母さんっ、ちょっと落ち着いて」

「ああああ」

「お母さん!」


 目を見開き異様な形相で脅え始めた母の肩を押さえながら、私はその奇異きいな変わりように恐怖を覚えた。

 

 と、次の瞬間──


 ガッ ガタッ ガタガタガタガタ

 ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ


「きゃあっ」

「ああっ」


 足元のフローリングが波打っているかのような強烈な揺れが私たちに襲い掛かった。

 立ってはいられず、這いつくばるようにして母と私は身を寄せ合った。


 ズンッ ズシッ ズシンッ ズシンッ


 横揺れから次第に強い縦揺れになり、強烈な震動が全身に響いてくる。


「な、長くない? ちょっとこれ長いっ」

「ああ・・・・あああ・・・・」

「お、お母さん、しっかりして。も、もうじき収まって──」

「お・・・・」

「え?」

「おの・・・・おのろし様が・・・・」

「おのろし様? おのろし様が何?」

「早く・・・・早くしないと・・・・」

「何を? ねえっ、お母さんっ」

「早く・・・・早く・・・・」

「だから何──あ、収まってきた。大丈夫よ、お母さん、収まってきたわよ」


 体感では3分ほども揺れていたように感じた私は急いでテレビのスイッチを入れた。

 震源地はどこだろう。

 揺れの激しさからすると震度もかなりなはず。

 こういう時はNHKが速報をいち早く──


「あれっ?」


 映し出された画面には生放送の情報番組が流れているが地震のことはまったく何も伝えていない。

 テロップさえ流れていない。

 不審に思い次々にチャンネルを変えてはみても結果は同じだった。


「凄い揺れだったのに・・・・あ、ネットの方」


 スマホを手に取り"地震"で検索をしてみる。

 けれどやはり何も出てこない。

 YouTubeの地震ライブチャンネルでもまったく何の情報も流れてはいない。


「そんな・・・・あんなに揺れたのに・・・・」


 スマホを手にしたまま、私はぼんやりと立ちすくんだ。

 かつての東日本大震災の時の本震に匹敵するほどの揺れに感じられたにも関わらず、どこにも何にも地震の情報が出ていない。

 何故?

 その明らかな理由が浮かばないまま頭の中は混乱した。


「出てるわけない」


 振り向くと、うって変わって落ち着きを取り戻した様子の母が無表情でそう言った。


「出てるわけないって・・・・もの凄い揺れだったじゃない。なのに震度も何も出ないなんて──」

「どこも揺れていないから」

「え? だって──」

「ここだけ」

「ここ? だけ?」

「そう」

「何それ、もうっ、ぜんぜん意味が分からない!」


 混乱が苛立いらだちに変わり、私は思わず声を荒らげた。

 けれど母は、あれほど動揺をしていたのが嘘のように無表情を崩さないまま私を凝視し、そして言った。


「揺れたのはここ。松埜まつの家だけ」


 私の手からスマホが滑り落ちた。

 まるで他国語のようにさえ聞こえた母の言葉。


「お母さん、それはどういう・・・・」


 言葉に詰まる私から目を離すと母は窓へと近寄り、ゆっくり開けると「ちょっといらっしゃい」と言いながらベランダに出た。

 言われるまま私は窓に近づいた。


「やっぱり・・・・見て」

「?」


 母が示した方向。

 それは真っ黒い蔵。

 敷地の北西の位置に建つ、白ではなく黒い蔵。

〈おのろし様〉の居る蔵だ。

 

「屋根」

「・・・・あっ!」


 よく見れば瓦が何枚も落ち、壁の一部にも亀裂が入ってしまっている。

 既に身内の男たちが集まり始め、それぞれが慌てている様子も見て取れる。


「大変なことになったわ・・・・」


 呟くように言う母の華奢な背中を見ながら私の中に、初めて目撃したあの蔵の破損が何か良からぬ重大なことを意味しているのだろうという予感が走った。


 そして母のあの異様な動揺の意味も、うっすらと見えてきたような気がしていた。






 


 

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