「あかいきつねさん?」と彼女は言った

多田いづみ

「あかいきつねさん?」と彼女は言った

「あかいきつね、さん?」

 そのはおれの胸についた名札を見ると、大きな目をまるくしながら言った。

 いや、その娘なんて言ったら失礼かもしれない。なにしろここは婚活パーティーの会場で、結婚適齢期の大人の男女がつどっているんだから。けれど、彼女は一見学生にみえるほど童顔で、社会人らしい抜け目のなさや計算高さからは程遠い、素朴でおだやかな顔立ちをしていた。くりっとした瞳に、ふっくらしたほっぺた、短めでストレートの黒髪。どこをとってもおれの好みだった。


「あかいきつねさん……ですか?」

「いえ、。きつねと書いて基経もとつねです。赤井基経あかいもとつね。でも昔からあだ名は赤いきつねだったし、今じゃ親からもきつね、きつね、って呼ばれてますけどね」

 なれた調子でそう答えると、彼女は上品にくすくす笑った。


 ここまではいつもどおり、今まで何千回とくり返してきたおれの得意の形だ。

 以前は自分の名前があまり好きではなかった。子供のころは、からかわれることもあった。しかし社会人になってからは――とくにおれのように営業の仕事をしていると、いい方に働くことが多くなった。

 営業というのは、取引先に名前をおぼえてもらうことが第一。おれみたいな特長のある名前はそれだけで有利だ。「あかいきつねと書いて赤井基経あかいもとつねと申します!」と口上を述べれば、おもしろがって一度でおぼえてもらえる。それに、初対面の緊張をやわらげて相手のふところに入るにも都合がいい。


 ちなみに大方の取引先からは、冗談のような名前にしてはしっかりした仕事をする、と褒められているのかけなされているのかわからないが、まずまずの評価をいただいている。

 社内での評判も、「あれ誰だっけ、ほらカップ麺みたいな名前の――」「ああ、赤井ですか。赤井基経」「そう、それそれ」といった調子で、大口の接待なんかにつきあわされることがままあり、そうした大役もそれなりにそつなくこなし、上司の覚えもめでたい。


 だが結婚活動となると、仕事のように順調とはいかなかった。名札を読ませて笑いをとるところまではよくても、そのあとが続かないのだ。

 まあ、おれ自身に魅力がないといえばそのとおりなのだが、いま一歩相手に踏み込めないというか、殻を破れないというか、気持ちが通じ合うところまでたどりつけない。

 たまには興味を持ってくれる女性がいたりもしたが、そういうときはおれの方にピンとくるものがなかったりで、なかなか先へ進めなかった。

 それがついに、この愛らしい女性をひと目見て感じたのだ――ああ、おれが探していたのはこの人だったのだ、と。そして彼女の名札を見たとき、その思いは確信に変わった。


 田貫みどり――名札にはそう書かれている。

 これが運命でなくてなんだろう。

田貫たぬきみどりさんとおっしゃるんですね?」

「ええ。ですから先ほどお名前をうかがってびっくりしたんです。だってほら、私もみどりのたぬきって呼ばれることが多かったから。でも、私ぐらいおもしろい名前の人は他にいないと思っていたけれど、赤井さんとはおあいこね」

 彼女はそう言って、またくすくす笑った。


 それからおれたちが何を話したのか、よくおぼえていない。たぶん他愛もない世間話だ。が、まるで気のおけない旧友と話すように、リラックスした気分でいろいろな話をした。そして会話を重ねるたびに、彼女との特別なきずなが深まっていくのを感じた。

 イベントの決まりで別の相手と話すよう指示があったときは、身を引き裂かれるような思いがした。ありがちな表現かもしれないが、それはおれが生まれてはじめて味わう感情だった。

 そして彼女も同じような気持ちだったに違いない。なぜなら、会場の遠く離れたところで他の参加者と話をしているときも、幾度となく目が合ったからだ。

 映画『卒業』のダスティン・ホフマンみたいに彼女を奪って、すぐにでもここから逃げ出したい気分だった。


 パーティーが終わると、おれはすぐさま彼女に申し込んで、彼女はもちろん受け入れてくれた。


 それからしばらくの交際を経て、もうすぐおれたちは結婚する。

 こういうのをなんて言うんだろう。うどんとそばが取り持つ縁? あまりかっこう良くはないが、派手でもなく流行にも興味がない庶民的なおれたちには、案外ぴったりなフレーズかもしれない。


 式の準備もだいたい整って、あとはとくに話すこともないけれど、招待状が刷り上がったというので二人で見に行ってきた。

 招待状には可愛らしいイラストで、仲睦まじいきつねとたぬきの姿が描かれている。

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「あかいきつねさん?」と彼女は言った 多田いづみ @tadaidumi

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