第35話

 パスナ王国を出ると、隣の街はすぐだった。ハロルドから聞いていたが、そこは異様な空気に満ちていた。街の住民は漆黒の彫刻となり、街路に立っている。難を逃れた者たちは王国へと逃げてきたというが、街に留まり、身を潜める者もいた。彼らは屋内から僕らを監視するように見ていた。

「クリスタの水晶の彫刻のようだ」

 シュリが呟くように言った。けれど、ここの住民の表情は無だった。悲しみでもなく、怒りでもない。これはどんな負の闇なのか?

「虚無……」

 そんな言葉が浮かんだ。

「ソンシか?」

 シュリがぽつりと言った。そうだ、これはソンシの闇だ。ソンシと繋がる僕のクラスの担任教師の闇だ。彼の闇は虚無だったのか。なぜか胸がざわめいた。

「触れるな」

 僕は吸い込まれるかのように、漆黒の彫刻に触れそうなほど近づいていた。

「ゴドー、ありがとう。先を急ごう」

 ソンシがまだ遠くには行っていないのが分かった。彼を早く救ってやらなければいけない。

 街の広場に人が多く集まっていた。ここに残った住民と兵士たちだった。その中に見知った顔があった。

「ハロルド!」

 ジュペが手を挙げて彼の名を呼んだ。

「やあ。来ると思っていたよ。この街の機能は停止している。こうして僕たちは生活に必要な物資を運んでいるんだよ。彼らは家族のそばを離れたくなくて、こうしてここに残っているんだ。早く元通りになることを望むよ」

「そうだな」

「行くぞ」

 ゴドーが急かした。少しの時間も惜しいことを彼も知っていた。


 街を出て少し行くと、道は森の中へと続いていった。木々は豊かな緑色の葉をつけ、風にそよいでいた。木漏れ日がチラチラと顔を照らした。

 ゴドーが急に止まり、何かの気配を探るように意識を集中した。僕にも分かった。この森の中に身を潜めて、僕たちを待っていた。

「ソンシか?」

 シュリも気がついたようだ。朽ち葉を踏む音がして、彼は姿を現した。

「ソンシ、お前を救いに来た」

 シュリが言うと、ソンシは無言で黒い触手を蛇のようにシュルシュルと伸ばし、攻撃を始めた。これは彼の意思ではなく、闇の性だった。僕にも分かるようになってきた。

「シュリ、彼はもう逃げません。彼の闇を斬ってください」

 僕は黒い触手の攻撃から身を守る術を持たない。ゴドーが僕を守り、ジュペがシュリを守った。ユーリは?

 彼は微笑みを絶やさず、ソンシをまっすぐ見つめ、ポポロンで旋律を奏でていた。優しい眼差しと、清らかな奏に、ソンシの黒い触手は手を出せなかった。

 シュリは覚悟を決めて剣を持ち、ソンシと対峙した。もう迷いはなかった。

「ソンシ、わたしの尊敬する兄弟子よ。わたしの覚悟を受け止めよ!」

 シュリが初めて光の剣を振った。それは鮮やかにソンシの闇を斬り、黒い霧が身体から吹き出し、空に舞い上がり、光の粒となって散った。

 ソンシは膝を折り、前に倒れるところを、シュリが抱きしめた。

「ソンシ」

 ソンシから闇が消え、彼は眠っているようだった。

「もう大丈夫だよ。シュリはソンシを救えたんだ」

 シュリも光の勇者として、自分の成し遂げた事に満足げだった。

「まだ旅は続く。ソンシをハロルドに預けよう」


 街へ戻ると、漆黒の彫刻は無くなり、多くの人が倒れていた。兵士も住民も倒れた人たちの介抱に追われていた。

 ハロルドに状況を説明すると、ソンシを快く受け入れてくれた。


「君たちのおかげで、皆が元に戻った。みんな生きていてよかったよ。本当に感謝する。ソンシ殿の事は心配しないでくれ。街を襲った闇の事も僕の胸にしまっておく。彼もこの街の住民と同じ。闇に襲われた被災者だ」

「ありがとう。では、もう行きます」



 ヤマトが学校へ着くと、教室の中はざわめいていた。

「岸田が来るって」

 キシダ? 誰の事だろうか? 教室の戸が開き、男が入って来ると、ざわめきが消えた。

「起立」

 一人の号令に従い、皆が立ち上がった。男に挨拶をして、皆席に着いた。男はあの担任教師だった。シワのない服をきちんと着こなし、中の白いシャツの襟もピンとして、ボタンもしっかり留めていた。髪も整い清潔感のある男になっていた。

 向こうの世界のソンシの闇をシュリが斬った。それが影響しているのかは分からないが、彼の中で何かが変わったのだ。その日の科目がすべて終わり、放課後を迎えた時、岸田が僕だけを呼び止めた。

「川原、少し残ってくれ」

 夢で見た記憶が蘇る。夕刻の茜色の空と、この男の怒りの形相、突き飛ばされて倒れる太郎。

 子供たちが帰った教室で、僕と岸田だけが残った。またこの男が太郎を、僕を突き飛ばしたとしても、僕の心は傷つきはしない。しかし、岸田は僕に向かって深く頭を下げてこう言った。

「川原、すまなかった。わたしはお前の目が怖かった。いつも正しいお前が怖かったんだ。歪んだ私を見るお前の目は、私の醜い心を見透かしているのだと。私も教師を目指し、夢をかなえた時はうれしかった。教壇に立ち、生徒たちに授業を行うだけが教師ではないと知った。子供とはいえ、彼らにも感情がある。多くの人間の感情に触れ、いろいろなものを見てきた。若かった私は、一生懸命に彼らに寄り添った。それが重荷となり、私は心が疲れてしまったんだ。いつの間にか、私は情熱を失い、ただ仕事をこなすだけの日々を過ごすようになった。分かっていた。それではいけないと。後ろめたい気持ちを抱えながら教壇に立ち続けていた私を、お前の目は責めているように見えた」

 岸田は頭を下げ続けていた。


「顔をあげて下さい。貴方は間違ってはいません。人が感情に振り回されるのはさがなのです。それは時に人を傷つけ、自分も傷つくのです。僕も貴方と同じです。今までの己の愚かさを知りました。見たくないもの、知りたくないことから目を背けていたのです。貴方も僕もそれを認めたのです。もう、僕は逃げないと決めた。貴方もこうして僕と向き合ったのは、逃げないと決めたからですよね? 貴方は貴方らしく、一生懸命でいい。心が疲れた時は誰かに頼ってもいい。今の貴方にはその相手もいるのでしょう? 人は一人では生きられない。誰もが皆、傷付け、傷付いて寄り添いながら共に生きているのです」

 僕が言うと、岸田は笑いながら言った。

「はははっ。お前もブレないな。正論だ。大人の私が諭されている。教師である私がね。完敗だよ。もう、お前を怖がりはしない。お前が私を馬鹿にしていたんじゃない。私が自分を馬鹿にしていたんだ。こうして、お前と話すことが出来て良かった。夢の中のお前もやはりお前らしかった。いつも正論で大人を言い負かしていた。夢でも違う世界のお前を見ているなんて笑ったよ。その夢の中で、私の闇を光の剣が斬った。何かすっきりした気分だったな。これで私も一からやり直せる気がしたよ」

 岸田の晴れ晴れとした顔を初めて見た。

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