第25話

 僕は目覚めた。太郎のベッドの上で……。

「太郎……。君はだんだん逞しくなっていくね。僕は何をしているんだ。早く何とかしないと……」

 こちらの世界が平和すぎて、気ばかりがあせってしまう。僕は太郎の一日の流れを覚えた。学校生活もそつなくこなし、放課後、辰輝とあの計画を実行した。

 シスターに行く先を告げず、こっそりと『もみの木』を抜け出したのだ。

「シスターは、僕らがここを勝手に抜け出したことを知ったら怒るだろうか?」

「ああ、きっと怒るだろうな。僕らの目的を知ったら卒倒するだろうぜ」

 辰輝はにやりと笑った。辰輝が言うには『もみの木』の子供たちは、いつもシスターの監視下にあるのだ。目の届かないところに行くことは禁じられている。とはいっても、友人と遊ぶことや、出かけることまで制限されているわけではない。ただ、誰とどこへ、どんな目的で出かけ、何時に戻ってくることを明確に告げなければならないのだ。彼らに自由はないのだ。

 辰輝はこのあたりの道に慣れているらしく、いくつもの角を曲がり、ある建物の前で足を止めた。

「確か、早百合のいるところは、あのアパートだ。部屋の番号はいくつだったかなぁ?」

 そう言って、アパートの部屋のドアに描かれた番号を見ている。すると、二階の方で、人の足音が聞こえた。

「そうだ、上だ」

 辰輝が、階段を上がっていくのを僕は追いかけるようについて行った。端から三番目の部屋のドアの前に男が立っていて、無理やりドアを開けた。そして、玄関口にいた誰かを押し倒したようだ。

「あの野郎!」

 辰輝はそう言って、その男に向かって突進した。僕も駆け寄ると、男は少女の上にのしかかり、淫らな行為に及ぼうとしていた。辰輝が男を取り押さえようとしたが、男はナイフを持っていて、少女の首に当てていた。

「くそ!」

 辰輝は悔しそうに拳を握り締めていた。僕は辰輝に目配せしてから、男の背中を踏みつけ、男がナイフを持っている手を両手で押さえつけた。

「ガキ!」

 男が不意を突かれ動揺を見せたその隙に、辰輝も男の背中を踏みつけ、少女のそばまで行った。辰輝は、組み敷かれた少女を、引きずるように救い出し、奥の方へと連れて行った。男は力強く、これ以上は押えていられそうもない。部屋の中を見回し、何か武器になるものはないか探した。奥の部屋に物干し用に使われている長い棒が斜交いに渡されていた。僕は男の腕に噛みつき、一瞬ひるんだすきに、奥の方へと走り込み、長い棒を手に取った。ちょうど持ちやすい太さで、硬さも十分だった。それを男に向かって構えた。男は手に持ったナイフを突き出すようにして威嚇してきた。こちらの世界へ来てから僕は、身体の動きの鈍さを感じていた。しかし、今は守らなければならない人がいる。負けるわけにはいかない。棒は長く、狭い部屋では振り回すことは出来ない。何とかして男の手からナイフを落とさなくては……。突き出した棒を細かく動かし、相手を翻弄した。そして、不意を突くようにその棒を男の腹に向かって強く突いた。鳩尾に深くめり込み、男は低く呻いて、前のめりに倒れた。僕は男へ走り寄り、ナイフを持った手を蹴り飛ばした。ナイフは音を立てて流しの下へ転がった。僕は男が起き上がるのを阻止するために、棒で頭と肩を抑え込んだ。そのとき、外の階段を勢いよく上がる音が聞こえた。玄関へ姿を現したのは年増の女性だった。彼女は僕らを見て、

「あなたたち! 何があったの?」

 と驚きを隠せない表情で言った。

「山田さん……」

 辰輝はそのあとに言葉が続かなかった。彼はこの事態を説明したいようだったが、言葉にならなかったのだろう。

「とにかく、警察へ連絡するわね。その男、早百合の母親の連れよ。危険な人だから私もときどき様子を見に来ていたの。太郎、しっかり押さえていてね」

 そう言ってヤマダという女性は、バッグから取り出した物を指で触り、それを耳に当てた。しばらくして、彼女はそれに向かってしゃべりだした。誰かにここへ来てくれるように頼んでいるらしい。辰輝は僕のとなりへ来て、男を抑え込むのに手を貸してくれた。少女は奥の部屋で身体を抱え込むように座り、その目は虚ろだった。

「お前、意外とやるじゃないか。向こうの世界では戦い方を学んだのか?」

「まあ、そんなところです。しかし、太郎の身体はなかなか思うように動いてはくれません」

 僕がそう言うと、辰輝の表情は緩んだ。女性はしゃべるのを終わると、部屋へ上がり、少女の傍らに座った。そして、やさしく彼女の身体を包むように抱きしめた。

「かわいそうに……。そうして、あなたは自分を守ってきたのね」

 ヤマダさんの言っていることが理解できなかった。少女は何も抵抗せずに、自分の何を守ってきたのか? 僕のその疑問に答えるように、辰輝は言った。

「早百合は、心を守ってきたんだ。心を閉ざすことで……」

 彼は悲しい表情を見せた。僕にもその意味がだんだん分かってきた。胸に熱いものが込み上げてくる。これは何だろう? 怒りだろうか? 彼女を傷つけたこの男が許せなかった。しばらくして、制服を着た男が二人やってきた。

「君たち、ケガはないか?」

 そう言って僕らのことを気遣ってから、うつぶせに倒れた男を両脇から支えるように立たせて、連行していった。そのあとに来た三人目の制服の男は、部屋の中を見回して、流しの下にあったナイフを拾い上げ、透明な袋に入れた。

「君たち、大丈夫かね? 話しを聞きたいんだが、署まで来てもらえるかな?」

「子供たちもですか?」

 ヤマダさんが言うと、制服の男は、

「もちろんです。すぐ帰れますから、さあ、車に乗ってください」

 と促した。

「分かりました。ですが、この子たちの保護者に連絡させてください」

 ヤマダさんはそう言って、またさっきと同じようにして、誰かとしゃべり始めた。

「では、まいりましょう」

 僕らは制服の男に連れられ、白と黒の乗り物に乗った。制服の男が署と呼んでいたところに着くと、そこにはシスターが待っていた。

「あなたたち……」

 彼女はそれきり言って、口を閉ざし、厳しい表情で僕らを見た。制服の男たちは、警察官というらしい。小さな殺風景な部屋で事情を聴かれ、すぐに解放された。部屋から出ると、シスターとヤマダさんが何やら深刻な顔で話しをしている。早百合はイスに腰掛け、床を見つめていた。

「分かりました。早百合はこちらで預かりましょう。カウンセラーの方にも知らせておいてください」

「はい」

 ヤマダさんはシスターに言ってから、

「それじゃまたね」

 と僕らに声をかけて、帰っていった。

「あなたたち……。終わったのですね」 

 シスターが言うと、

「やあ、お手数かけました。あの男は前科もありましてね、こちらで身柄を拘束しておきますから、安心してください。では、お気をつけてお帰り下さい」

 と警察官は丁寧に言って、外まで見送ってくれた。もうすっかり日が暮れていた。

 早百合はシスターに促され、無表情のまま歩いた。外には先ほど乗ったものと色の違う乗り物があった。僕らはそれに乗り、しばらくして『もみの木』についた。賑やかな声がして、子供たちが食事をしていた。

「ただいま戻りました」

 玄関でシスターが言うと、

「まあ、まあ。お帰りなさいませ。大変でしたね。早百合、お帰りなさい」

 給仕の女性が微笑んで、早百合を見つめた。

「今、子供たちに食事を与えていたところなんですよ。さあ、皆さんの分も用意しますから」

 女性がそう言って僕らを促した。そして、僕と辰輝には、意味ありげな視線を向けた。厳かな食事を終えると、シスターは早百合を連れて食堂を出た。僕らは後片付けをしてから、足音を忍ばせて、シスターの部屋の前まで来ると、。そのドアに耳をつけて部屋の中での会話を聞いた。

「あなた、まだ口がきけないのですか? 困りましたねぇ」

 辰輝は僕をちらりと見てから、ドアをノックした。

「失礼します」

 辰輝と僕が部屋へ入ると、窓際のイスに座っていたシスターが渋い顔をして、

「用があるなら後にして下さい。今は早百合と話をしているのですよ」

 と言った。それに対して辰輝が何か言おうとしたが、僕も黙っていられなかった。

「お言葉のようですが、彼女は何も話してはいない。これでは会話にならないでしょう。どうか、ここは僕たちに任せてもらえませんか? 僕は早百合さんと話さなければならないのです」

 シスターは僕らの顔を見ると、深いため息を漏らした。

「分かりました」

 そう言って、彼女は立ち上がり、早百合の背中を押した。

「行きなさい」

 シスターはがっくりとイスに腰を下ろし、片手を頭に当ててうつむいた。

「それでは失礼します」

 僕らは早百合を連れて部屋を出た。彼女は焦点の定まらない虚ろな目で、一体何を考えているのだろうか?

 僕の部屋へ入ると、辰輝は早百合に話しかけた。

「早百合、俺が分かるだろう? 何か言ってよ」

 辰輝の声に早百合は無反応だ。

「早百合さん。僕はあなたのことを何も知りません。けれど、あなたの心を救ってあげたいのです。どうか答えて下さい」

 僕がそう言うと、すっと彼女の心が戻ったように、目に光が宿った。そして、僕を見つめ、

「太郎……」

 と目に涙を溜めて言った。

「そうだよ。僕は太郎。早百合、もう何も心配は要らないよ」

 僕の口から出た言葉は、太郎そのものだった。今、僕は太郎とシンクロしているようだ。その言葉に、感情が溢れ出した早百合は、僕に抱きつき声をあげて泣いた。僕は優しく彼女を包み込み、

「もう大丈夫だから」

 太郎の言葉で言った。

「お前、太郎なんだな?」

 辰輝はそう言って僕を見た。僕は首を横に振り答えた。

「それは違う。太郎はまだ向こうにいます。ただ、僕らはつながっているのです」

 早百合は泣きはらしたあと、ゆっくりと、言葉を選ぶように語りだした。

「夢を見ていたわ。違う世界の夢。私は空にいて、美しい街を見下ろしていたの。クリスタルの塔が立っていて、街のあちこちに水晶があって、日の光にキラキラと輝いていたわ。なのに私……。とても恐ろしいことをしてしまったの。街の住民たちに向かって飛んだわ。私が私でなくなっていたの。みんなが彫刻のように固まってしまったわ。そして街路は悲しみの表情の不気味なオブジェでいっぱいになってしまったの。みんなわたしのせいなの。でもただの夢だわ。そのあと私はその世界の私に会ったの。姿は違うけれど、あれは私だったわ。私はもう一人の私に向かって飛んだ。怖かったわ。何が起こったのか一瞬分からなかった。ぶつかったのよ。彼女に。気がついたら、彼女の中にいたわ。ただ部屋の天井しか見えないの。そこに男の人がいたわ。声しか聞こえない。私は動くことが出来なかったから、視界は限られていたの。とても怒っていたわ。闇の仕業だと言って、部屋を飛び出して行ったわ。一晩経って、夜が明けたとき、彼は帰ってきた。心の中で私は言ったの。たすけてって。そしたら、誰が来たと思う? 太郎、あなたよ。向こうの世界の太郎。でもね、しゃべり方も、雰囲気も全然違うの。彼はこう言ったわ……。二つの世界をつなぐ者が闇を生み出している。私のことを言っているみたいだったの。太郎、これはただの夢なのよね?」

 僕は一呼吸おいてから、ゆっくりと首を横に振った。

「僕はその世界を知っています。あなたが見た太郎というのは僕のことです。もう猶予はありません。あなたは知らなくてはいけないのです。僕の知っているすべてをお話ししましょう」

 かいつまんで話したが、外は白々と夜が明け始めていた。睡眠不足のため、三人はぐったりとしていた。

 ほとんど睡眠がとれなかったから、朝食までの僅かな時間で休息をとった。朝食を済ませ、早百合は元いた自分の部屋へ行き、僕らは支度を済ませ、学校へと向かった。校舎の玄関で、辰輝は別れ際に、

「俺、今日は起きていられる自信がねぇ」

 なんて言った。

「僕もだよ」

 そう言うと、

「じゃあ、またあとで」

 彼は笑って手を挙げた。太郎はいい友を持っている。授業はほとんど分からないが、興味も沸かない。あくびが出るほど退屈だが、難なく一日を過ごした。担任は、あれ以来休んでいるようだ。師である自覚と精神力と覚悟、何もかもがあの男には足りていなかった。もはや、人にものを教えるべき資格さえないだろう。下校時間に辰輝が僕を迎えに教室まで来た。

「一緒に帰ろうぜ」

 並んで歩きながら、今後のことについて語らいだ。早百合の心のケアはカウンセリングでどうにかなるものなのだろうか? ということについて、二人の意見はノーだった。彼女は何も話したくない、思い出したくないからこそ、自分の中に閉じこもっていたのだから。それを無理にこじ開けることは彼女を壊す行為だ。心を許すことのできる存在があるとすれば、きっと僕らなのだと思う。だからこそ、僕らは彼女のそばに出来るだけいなければならない。今は彼女を脅かす存在は近くにはいない。それでも、彼女の心は怯えて震えている。ならば、安心できるような環境を作るべきだろう。ただ、それがどんなものなのか分からない。何をどうすれば、彼女は安心できるのだろうか? 心が安らぐのだろうか? 太郎のように現実から逃げようとしても、最終的には現実に戻らなければならない。ならば、現実と向かい合いながら、乗り越えていかねばならない。ただ、今の早百合にはそれは過酷なことで、繊細な心を壊しかねない。太郎ならばどう解決するのだろうか? そんなことを議論し合った。『もみの木』に着くとそれぞれの仕事をこなし、宿題を済ませ、いつものように夕食を食べた。僕の気持ちはただただ焦るばかり。こうしている間も、向こうの世界は闇に浸食され続けている。もどかしい思いでいっぱいだった。

「ヤマト、早百合の部屋へ行くぞ」

 辰輝がこっそり耳打ちした。僕はうなずき彼と共に早百合の部屋を訪ねた。ノックをしたが返事がなかった。食事もまだ皆と一緒には取れないようで、部屋まで運ばれていたから、今日はまだ話しもしていなかった。彼女の様子がとても気になっていた。一人でどんな一日をすごしていたのだろうか?

「早百合、入るよ」

 辰輝がそう言って、ドアを開けた。早百合はベッドに腰掛けたままどこを見るでもなく虚ろな表情をしていた。

「早百合? 大丈夫か?」

 辰輝が声をかけても、全く反応しなかった。

「きっと、向こうの世界に行っているんだろう」

「俺も、向こうの世界に行くことは出来ないのだろうか?」

「さあ、どうだろう? 君が向こうの世界の誰かとつながっているような気はしない。僕の感が鈍っているだけなのか、それとも君は誰ともつながっていないのか」

「どちらにせよ、俺には見えないってことだろうな」

「はい。でも、僕が見たことを君に伝えることは出来ます。太郎の旅の続きを」

 その瞬間、僕は雷に打たれたような衝撃に気を失った。

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