赤い雨

坂水

 遥野郷の最奥、その里では恋をした女は光る。

 東国全土における山村調査中、私はそんな伝承とも迷信ともつかぬ話に出くわした。

 遥野郷は人が棲まう東の最果て、さらなる東は人の世ならざる深山が連なる。

 物の怪が現れるというならば、ありがちな話だ。そこに暮らす人々の日常が根ざす自然や環境への畏怖が顕れ出づるもの。だが、女が恋情によって光るとは、一体、何の表れか。

 光る生物ならば蛍が連想される。専門ではなく詳しくはないが、明滅は雄から雌の求愛行動だとか。ならば、その里では、女からの求婚が認められているのかもしれない。

 では、〝光る〟とはたんなる言葉の綾か、あるいは現象の転化か。陽光、炎、薬・・・・・・なんらかの手法で光を醸した恋情の表出が想像された。祭りや儀式に限定されたことなのかもしれない。

 歴史を書物や資料から読み取るのではなく、現在まで何千と繰り返された事象や行為を集めて過去を導き出し、引いては現在における問題を解決する──それが我が一門の研究方法である。西涯列強からの干渉激しく国家の危機に備え、あたう限りに早く東国全土の調査進めなくてはならぬ──とは、帝の憂慮を汲んだ、師からの命だった。


「学者先生は難しく考えなさる。〝光る〟ってのは、光って見えるほどに濡れそぼる、つまりは度外れた好きモンってことじゃありやせんか」


 私の考えに、数歩前で下卑た笑いをあげる男がいる。

 私は案内役として、油屋の商人を雇っていた。東国全土津々浦々に行商網を広げる組織であり、油だけでなく、この世のあらゆる物品を商売として扱うという。これ以上の適役はいなかったが、その分、値も張った。

 私たちは山路を歩き続けた。下草を分け入り、枝葉をかいくぐり、渓流を越える。

 呼吸する樹木、生物が朽ちゆく土、鳥獣の潜む気配──遥野郷の山の空気は濃く、甘く、重く感じられた。秋の深山、天気が変わりやすく、小一時間ほど小糠雨が降っていたせいもあろう。歩みを止めるほどではないが、水の中を進むように手足が重く、息苦しい。頭がぼうっと、景色が滲む。

 ふいに、くす、というさやかな笑い声を聴いた気がして、ひたすら足元を見ていた顔を上げた。辺りは白く煙っている。くす、くす。

 ──山怪さんかい。まさか。

 そも、あやかしなど人の心が転化したもの。実在するはずがない。

 くす、くす、くす。

 灰白色の向こうに、影のような、靄のような何かがよぎった、気がした。私は目を凝らす。

 炎が揺らいでいる。この天候で焚き火? 

 黄色、橙、紫、青、薄い油膜のような虹色の光が陽炎じみて立ち昇る。同時に、かすかな唱和が聴こえてきた。

 

 せのきみ、せのきみ、あの子がほしい

 せのきみ、せのきみ、あの子はわからん

 

 ──遥野郷の最奥、その里では恋をした女は光る。

 私は息を呑み、木の幹に手をかけて光の方へと身を乗り出す。

 と、濡れた朽葉にすべり、咄嗟、枝垂れていたサルオガセを掴んだ。体勢を崩すが、なんとか転げ落ちずに済む。

 油屋はどこだ。笠を被り、木箱を負った姿を捜すが、霧に埋もれて見えない。

 はぐれてしまう。だが、叫べば調査対象に逃げられる。

 迷いつつも緑の尾を手繰り寄せて姿勢を正そうとした瞬間、足をとられた。何かが絡みついた感触に粟立つ。おそらくは木の根だったのだろうが。

 私は焦っていたのだろう。地面から白く細い何か──例えば手が生えていたように見えたなんて。


 滑り落ちた先は不運にも谷底で、私は気を喪っていた。目覚めた時には、辺りは薄暗かった。油屋、と呼ぶが応答はない。起き上がろうともがくが、脚に激痛が走る。

 霧雨から本降りとなったのか、色付いた葉の間を伝い落ち、体温を奪う。

 危険は承知で意識を保っておられず、浅い眠りを繰り返すうち、その声を聴いた。

 

 ・・・・・・男衆を呼んできな。女たちには漏らすんじゃない、絶対に。

 

 てん、てん、と大きな雫が顔に落ち、足音と共に頭を横たえた地面の土がわずかに沈む。

 女の声──確かめねばと目蓋を押し上げる。こちらを覗き込んでいる女の顔は白くはあれど、光ってはいない。

 当然であろう。人の肌は光らない。にもかかわらず、落胆した己に苦笑した。

 寒いかと問われて頷く。雨音に紛れ、衣擦れの音がする。と、女は私に覆い被さってきた。上半身を露わにした身は白く、見ようによっては仄白く発光しているようにも感じられた。

 ・・・・・・なんだ。つまりは、色白自慢の、のろけではないか。

 寄せられた肌は熱く、徐々に強張っていた身が緩む。

 それからしばらく明瞭な記憶がない。ただ、熾のような身体が絡みつき、その熱に安堵したのを覚えている。

 

 意識を取り戻すと茅葺きの下にいた。炭火が起こしてある囲炉裏の傍に寝かされており、続く土間には男が数人いる。

 起きたか、災難だったな、腹減ってるか、脚をやっちまってる、しばらくは動けんぞ──彼らは私が起きたのに気付くと、何くれと世話を焼いてくれた。

 都から遠く離れた山村や島へ行くと、警戒心が強く、調査が進まない場合がある。だが、男たちは人慣れしていた。

「へえ、山村調査に来て油屋に道案内を頼んだ? そりゃあ一杯喰わされたな、先生」

「油屋は古老らと通じてるから、里に余所者を寄せ付けない。ここは元々、落人の隠れ里だから。だが、もう何百年と昔の話よ」

「いい加減、寄り合いで話し合わにゃならんな。宮市での商売がやりにくくてかなわん」


 一人が囲炉裏で温まった汁を椀によそい、こちらに渡しながら言ってくる。宮市は遥野郷一の繁華であり、そのまま盛んに立つ市も指していた。

 山村調査としては興味深いが、西涯列強と肩を並べようとしている今、落人とは時代錯誤な響きである。

 とまれ、男たちは話が通じそうな相手で安堵した。

 炭火がかすかな音を立て爆ぜ、その熱が身内に跳ね飛んだ心地がして思い出す。


「私を助けてくれた女がいたはずだが、どこに?」


 女、と彼らは訝しげな声を上げる。


「ここにゃ女は来ねえ。忌屋だからな」


 忌屋──つまりは出産や月事の時に、血の穢れを広めぬために女が籠もる小屋だ。仮小屋を建てて、忌み明けとなれば壊してしまう例あるが、ここでは常設らしい。女が来ず、男がたむろしているのは、ひどい矛盾だが。そして、なぜ助けてくれた女の存在を隠すのか。あの熾火がなければ、私の生命は危うかったはず。

 見渡した男らと私の間に、剣呑な空気が漂う。まずいと直感した。土地の者に不審を抱かせてはならない。


「水、替えておくよ」

 

 澄んだ声が土間の先から響き、戸口から人影がのぞく。まごうことなく、私をあたためた女の声だ。

 女は土間のかめに桶から水を注ぎ入れると、ちらり、こちらに一瞥をくれて、生きてたんだねと言い、また桶を抱えて出て行く。

 どうして男たちが嘘を吐いたのか。彼らはしかし、なんだと苦笑して、空気は弛緩する。


阿古あこのことか」


 彼女は女に違いない。だが、若い。というよりも幼い。見積もって十二、三。私の命の恩人は、子どもだったのである。


 *


 足の腫れがひどく、骨折している可能性もあり、十日ほど安静にする必要がある。その間、この忌屋なる小屋で寝泊まりさせてもらえることとなった。

 本来、忌屋に出入りしてはならない男衆がたむろっている理由は夜更けて知れた。


「さあ、張った、張った!」

「もう一人、こっち入ってくれや」

「待ったなし、観念しろ」


 囲碁、将棋、西津カルタ、富突き、丁半賭博、花札、などなどそこかしこで興じられる。彼らは使われなくなった忌屋を賭場にしていのだった。農閑期となり、暇と体力を持て余した男らが、昼は寝て、夜更け、入り浸たる。

 学者先生もやるかいと誘われたが、辞去した。

 里の催しに誘われたなら参加は鉄則、話を聞き出すにはこちらから胸襟開いて肋骨まで見せねばならぬ。だが、そもそも人付き合いが苦手であり、まだ熱っぽく、足も痛む。内心言い訳をするが、里男らは気を悪くしたふうではなかった。

 賭場となった忌屋の隅で横たわり、見るともなしに賭事の悲喜を眺めた。

 その中には、阿古という子どもいた。彼女は男らの間を面白そうに歩き回る。さながら花から花へ、気ままな蝶のように。

 時に手札を覗き込み、耳打ちする。男らは邪険にするでもなく、それどころか阿古を呼び寄せて次の一手の相談さえしていた。大の男が子どもに教えを乞うとは奇妙な光景だったが、誰も囃し立てはしない。もっとも、私とて阿古に助けられたのだから、あれこれ言えないのだが。

 時折、阿古と目が合った。おかしな里だろうと共感を示しているようにも、こちらの戸惑いを面白がっているようでもある。

 なんとはなしに、侮られている心地となって、視線を逸らした。

 

 ──センセイ、あんたも一口賭けな。

 

 揺り動かされて眠りから浮上する。とおに夜半を過ぎているだろう。

 いくつかの小壺を前に男が手を出してくる。幾度も誘いを断るのはまずいと思われた。なんの賭けかわからねど、起き抜けに頭が回るはずもなく、宿賃のつもりで硬貨を差し出す。


「色当てさ」


 いろあて、繰り返しながら屋内を見渡す。人がまばらになっているのは当然として、阿古が未だ囲炉裏端に座っているのに驚いた。

「帰らなくてもいいのか」

 それとも身内がここにいるのか。思わず残った男たちを見やるが、にやにやと笑うばかり。

「阿古はまだ娘宿に入っておらん。構わんさ」

 年嵩の一人に言われ、黙るしかなかった。

「さ、何の色に賭ける」

「色?」

「なんでもいい。好きな色を言うてみろ」

 少し考えて、私は青と答えた。

 男は壺のひとつを掴み上げ、硬貨を入れる。傾けた拍子に、じゃらり、重たげな音が鳴った。

  

 *

 

 忌屋で賭場が開かれるのは夜のみ。日中、男たちは来ない。

 人が来なければ、怪我をした足では聞き取り調査もできず、日がな一日ぼんやりするしかない。

 ゆえに、誰であれ訪問者は歓迎したくなる。たとい子どもであっても。


安是あぜでは、年頃になると生家を離れて、女は娘宿、男は若衆宿で共同生活をする。年嵩の者が仕事やしきたりを教え込むんだ」

 

 阿古は連日現れ、何くれと私の世話を焼いた。そして出歩けない私に、里について──安是という里名も──教えてくれた。

 安是は黒山と呼ばれる深山の裾野に位置している。山あいのわずかな土地で田を耕し、野菜や桑畑なども作るが暮らしには足りぬ。その不足分を補うのが、黒山の恵みだった。木の実や山菜はもちろん、もっとも重要なのが黒ヒョウビという常緑低木だという。この実からしぼられる黒ヒ油は、灯明はもちろん、香油にも使用され、貴重な現金収入となっていた。

 なるほど、油屋と安是は元々、付き合いがあるのだ。海千山千の商人にまんまと騙されたわけである。

「黒山は神域で、日暮れ以降は入っちゃならない。黒ヒョウビ採りは女の仕事だが、禁を犯せば、山姫──山の主みたいなの──が女を隠す」

「・・・・・・神隠し。つまりは黒ヒョウビを採り過ぎないための戒めか」

 私の解釈を阿古は、うっすら笑んで聞く。是とも否とも言わず。

 話してみて実感したが、阿古は鄙に珍しく迷信に染まっていない利発さがあった。そして大人顔負けの処世術も。

 賭場での振る舞いを見ていればわかる。彼女は誰もが気持ちよく遊べるようさりげなく仕切り、時に子ども特有の我儘を発して、しようがないと男たちに納得させる。


「女が光る、という話に心当たりはないか? 遥野郷の伝承のようだが」

「知ってるよ」


 ふと思いついて尋ねれば、阿古はあっさり肯いた。勢い込んで問いを重ねたが、阿古はそれ以上答えようとしない。それから顔を合わすたびに尋ねるが、そのうちわかるよと私をいなすばかり。どちらが子で大人なのかわからない。

 ある晩、小用を済ませに一人忌屋を出た。いつもは阿古が先んじて肩を貸してくるのだが、姿が見えなかった。

 と、木立の暗がりから話し声が聞こえてくる。

 ひそめ、湿った、愉悦を含んだ声音。なんとはなしに木々の間を見つめていると、ひたり、寄り添った男女が出てくる。


「先生、小便かい」


 忌屋に通ってくる中年男の一人と、阿古だった。男は酒気を帯びており、足取りがおぼつかない。

 あんただけが頼りさ、阿古が言えば、しょうがねえなと男はまんざらでもなく阿古の髪を乱雑に撫で忌屋へと戻っていく。


「・・・・・・何をしていたんだ?」


 なにも、と阿古も中へと戻ろうとする。

 いつもは結わえてある髪が、ほどけて額にかかり、顔の白さが冴え冴えと映えた。

 その晩、私は初めて賭けに興じ、大敗し、酒を呑んだ。そして夜半、いつもの〝色当て〟に誘われる。私は投げやりに、黄、と答えた。


 三日後の夜明け前。すでに賭場は閉められ、忌屋に人気はない。

 揺すられて、眠りから引きずり出された。行くよという声よりも、触れられた手の熱さに阿古とわかる。

 少し歩くけど気張りなと彼女は私の脇に入り込み立ち上がるのに肩を貸してくれた。

 里男たちに歩き回るのは禁じられている。尻込みする私の耳朶に、見たいんだろう、としめった吐息が落とされた。


 先日、阿古と男が出てきた木立の奥へと進む。勾配はさほどないが、足元暗く、渓流を渡らねばならず難儀する。阿古は慣れているのか、木の根がある、苔が滑るよと声掛けてくる。

 ふと、獣の唸りが聴こえた気がした。罠にでもかかったのか、くうくう、ひいひい、鼻にかかる憐れっぽいそれ。目をやれば木々の先が仄明るい。火を焚いているのか、だが、煙の匂いない。

 物音をひそめるようにと身振りで示される。光源は我々からは陰となっているブナの巨樹の根元辺り。迂回する間に、唸りの意味を理解していた。では、この光は。 

 最初、その男女は桜の花弁にまみれているのかと思った。季節は晩秋、そんなはずがなく。次に焼身心中でも図ったのか、すわ駆け寄ろうとして、阿古の驚くほど力強い腕に止められる。

 男女は交合していた。 

 男に圧し掛かれ、女は喘ぐ。男が腰を打ち付け、女は首に囓り付く。男がより奥へ奥へと中心をねじ込ませ、女は獣じみた声をあげる。

 それらの激しさに応えるように、炎のごとき薄紅色の光が立ち昇り、薄絹めいて揺らぎ二人を包む。女の声が極まればより濃く、男の愛撫が深くなればより高く。


 私は瞬きも忘れて摩訶不思議な情景に見入った。


 男女はことを終えてしばらく、衣服を整えると私たちが身を潜めた茂みの横を足早に通り過ぎて行った。

 夜が明けちまう、何度もするからと女はぼやく。具合が良すぎて我慢ならなかった、と男がうそぶけば女の背が光の尾を曳き、ちらちら花吹雪のごとく舞った。

 男は数日前に阿古と木立で話していた者だろう。女には見覚えがない。なれど、山怪に見えるわけでもなし。

 喉がひりついていた。

 渓流まで戻り、しびれるほど清水を掬い呑む。顔を洗い、冷えた頭で問うた。


「あれは、なんだ」

「安是の女だよ。あんたが見たがっていた」

「あの、光は」

「つきのものを迎えてしばらく、子を宿す準備が整った女は、意中の男を前にすると身の内から光を発するようになる──安是の女は皆、光る」

「なぜ」

「なぜって、そういうものだから」


 ──足が跳ねるのに、口が物言うのに、いちいち考えるものか。阿古はそう言って、いとも身軽に渓流の岩に飛び乗った。

 岩の頂に立つ阿古を見上げる。見下ろす視線と絡み合う。 


「おまえも、光るのか」


 水を呑んだばかりなのに、喉がもうひりついていた。

 どこか緊張した私とは反対に、阿古はにかりと笑い、着物の裾を大きく──あまりに大きくたくし上げた。


「あたしはまだ月水つきのさわりも迎えちゃいない」

 

 秘すべきはずの場所が、明け初めの冷気にさらされる。阿古の下腹部は、川魚の腹を彷彿させてぽってり白く滑らかで、その頂点も単純な形状だった。淫猥さとはほど遠い。

 呆気にとられて仰いでいると、とんでもないものを見た。

 阿古が身を震わせ、大きく腰を突き出したかと思うと、放尿を始めたのだ。まるきり男が立ち小便するように。呆然としたのも束の間、慌ててやめないかと叱責した。


「下流の者が飲むのだぞ!」

「いつもやってんだ、やめたら逆に味が変わっちまうよ」


 恵みの雨さ、あっけらかんと言い放ち、今度こそ言葉を失った。

 その一方で私は安堵した。阿古はやはりまだ子どもなのだ。彼女は光らない。だからこそ、安是の女の光について、てらいなく尋ねられる。

 それから三夜続けて、私たちは忌屋を抜け出し、まぐわいを見た。

 男は同じだが、女は夜毎違う。離れてひそみ、なぜ女の見分けができたかといえば、光の色や様子が違っていたからだ。黄色、紫、緑、燃え立つような、波間に揺れるような、木漏れ日のような。光には個性があり、まったく同じにはならないと阿古は言う。

 私は繰り広げられる艶舞に、調査という名目により辛うじて理性を保てていた。

 三夜目の帰り、山路で見た靄に滲んだ虹色の陽炎を思い出した。阿古に問えば、娘遊びだよ、と言う。若い娘らが集まり、好きな男の打ち明け話をして仄光り、光が混じり合ったのだろうと。大方、黒ヒョウビ採りで山に入った娘らだろうと説明してくれた。


 夢うつつの心地だった。


 単純に眠りが足りないのと、情光にあてられたのとで。脚の回復は順調だが、どうにもぼんやりしてしまう。

 賭場が開いても同じで、宵の口、忌屋の濡縁で煙草をふかしていた。驟雨が降り出し、すべての輪郭を曖昧に滲ませ、あの日、山で見た万華鏡じみた光を思い出させる。 

 

 せのきみ、せのきみ、あの子がほしい

 せのきみ、せのきみ、あの子はわからん


 我知らず、小さく歌を口ずさむ。こんな歌詞だったろうか。どんな意味なのか、また阿古に聞いてみるか──


「痛っ!」


 唐突に額に衝撃を受け、叫ぶ。小石がこんと板張りに跳ねた。

 宵闇に目を凝らせば、浮かぶ人影がある。


「足が治ったなら、さっさと去ね!」


 まだ声変わり前の少年らしかった。言い捨てて、走り去る。

 

「佐合だな」


 今度は笑い含みの低い声に振り返れば、濡れ縁にあの・・中年男が出てくるところだった。

 佐合は阿古に惚れてるから勘弁してやってくれと隣に立つ──それに、あんたを運ぶために男衆を呼びに来たのはあいつだ、と。

 驚く私の眼前に、中年男は指をこすり合わせてみせた。ねだる仕草に一本渡す。

 男は美味そうに煙草をふかして言った。


「ところで先生、満足したか? いい加減、俺も寝不足だ」


 出歯亀がばれていたらしく、ぎょっとして灰を零す。男は苦笑した。


「まあ、阿古の頼みだからな」


 阿古が頼んでいた? 木立から出てきた二人が脳裏を過る。言われてようやく線が繋がるが、それでも愕然として、何故と呟く。


「何故、阿古の頼みならきく」

「そりゃあ、わかるだろう」


 言われたところでわからない。せがまれたといって見せるものではなかろうに。ましてや子ども、だが。


「俺らも佐合も、みんな待ち望んでいる。先生だって」

「なんのことだ」

 

 愉悦を滲ませる男に嫌な予感がした。


「先生だって賭けたろう」


 ──〝色当て〟に。

 

 *

 

 明け方前に阿古に起こされるが、私は立ち上がらず、逆に阿古を座らせた。


「この里を出るんだ。ここはおかしい。おまえのような子どもが、男たちに色目で見られているなんて、近代化においてあるまじきこと」


 里男らは阿古が何色に光るか賭けていた。今か今かと舌なめずりして、阿古が光り初めるのを待ち、それを隠そうともしない。時が来たなら、彼らは貪り尽くすだろう。


「おまえは賢い、都に行き、学校へ通えば大成する」


 でも、と言う阿古に首を振り、


「女だから、貧しいから、とは今や学問ができない理由ではない。勉学につとめ、国の発展に寄与し、帝にお仕えするは民草の使命だ」


「・・・・・・ミカド?」


 こんな因習に囚われた隠れ里では帝の威光が届かないのかと憐れに思った。都に御座おわす、東国全土を統治される貴いお方だと言えば、阿古は実際よりも幼子じみて小首を傾げて呟く。


「・・・・・・安是も?」


 もちろんだと請け合う。本来なら、そうあるべきだ。帝の光に浴すべきなのだ。


「ともかく里を離れるんだ、私の養子として迎えてもいい。まずは宮市へ──」


 無理だよ、私の言葉を阿古の坦々とした呟きが遮る。

 焦慮に押されて腕を掴もうとし、するりと身を引かれる。そのまま阿古は立ち上がり、渓流の岩の上でしたように大きく着物の裾を捲った。


 てん、てん、てん、と。


「あたしはあんたの養子子どもにゃなれない」


 薄暗い中、逆三角の頂点から脚を伝い流れ、板間を汚すその色は。


「だって、あたしは」


 焔が巻き上がった。一体どこからなにから発火したのか、透き通った真赤の火が阿古を包み込む。大輪の花が、万の蝶が、溶岩が噴くように。

 それは、覗き見た交接の、どの女たちよりも、色濃く、苛烈で、絢爛な光。


「〝貴方が光らせたこの身体、貴方でなければ鎮められぬ〟」

 ──安是の女は、そう言って開くんだ。

 

 何を、というのは火を見るよりも明らかだった。帯を解き、肩を竦めると、着物はするりと落ちる。燃え尽きたように。

 私は首を振り、後退った。見てはならない、近付いてはならない、ふれるのはなお。

 阿古は命の恩人であり、何くれと世話を焼いてくれ、調査も手伝ってくれた。尊重すべき相手であり、欲望のままに扱っていいはずがない。

 なれど、苦しげに眉根を寄せるのは光り燃えているから、それを救えるのが己だけだとしたら。


「あたしの初光を知ったなら、里男たちはもう待たない」


 てん、てん、てん。

 岩の上から恵みの雨を降らせた子どもはもういない。降るのは赤い雨ばかり。

 賭場でたむろする男ら、佐合と呼ばれた少年、夜ごと女を光り啼かせた中年男。彼らはこじ開けてしまう。こじ開けられるというのなら、いっそ──

 決壊すれば、当然、常より勢いは激しい。掻き抱いた身体はいつかと同じ、熾のごとく熱かった。


 *

   

 濡縁に出て、そぼ降る雨に打たれる木立を眺めながら煙草をふかす。

 ことが終わりしばらく後、布団で寄り添って休んでいると、阿古は都に行ってもいいよと言った。

 支度をしないと、まずは朝餉だね、と起き上がろうとする股から赤い筋が流れる。まごつく私に、あんたは煙草でも吸って待ってなよと赤光をくゆらせて微笑んだ。

 困ったことになったと思う。だが、同時に悪くないとも。

 結果的に私は里男を出し抜いた。彼らはただ己らの欲望をぶつけようとしていたが、私の本義は阿古の救済である。その差が、彼女の赤光となり顕れたのだ。

 こうなった以上、阿古を連れ帰り娶るつもりだが、さすがに若く、数年待たねばなるまい。だが、阿古は利発だ、師に門下生として受け入れてもらえないか、いっそ師の養子にしてもらいまいか。阿古は遥野郷の隠れ里の生き証人、逸材中の逸材だ。

 と、何かが倒れるような派手な物音がして、私は屋内を振り返った。囲炉裏端の方からだろうか。阿古がふらついたのか。急ぎ戻った私が目にしたのは、予想だにしなかった光景だった。


「やっぱり、おまえがあの人を」


 早朝の雨もよい、誰かが訪ねてくるなんて。しかも、女が。いや、本来、忌屋の正しい主であるはずだが。

 土間から上がり込んだであろう女には見覚えがある。何より、桜花を思わせる光が物語る。恋慕、憎悪、憤怒──あらゆる感情の入り乱れたその情光。

 そして女の射殺す視線の先には寝乱れの阿古がいた。


「子どもだと思っていたらこれだ、片端から光りたぶらかしているんだろう、この毒婦が──」

「あいつは自分の道具を振り回したくてしょうがない輩だよ、さして立派でないもの・・・・・・・を」


 女が阿古に掴みかかり、華奢な喉元に手を伸ばす。私は恐ろしさに身動きできずにいた。だから当然、阿古が素早く囲炉裏へと手を伸ばして火箸を掴み、女の目を貫いたのも止められなかった。


 まだ息のあった女を、黒山の沼に沈めた。脚は折れておらずほぼ治っていたが、元来、非力の私が運べたのは火事場の馬鹿力なのだろう。

 この沼に沈めたものはまず浮かんでこない。あとは皆が勝手に神隠しと納得する。

 帰って朝餉にしようという声を無視し、私は沼岸に跪き、水面を見つめ続けた。底は黒々としており、見通せない。だが、視線こそが死者を沈み止めるというふうに。


「あたしは都に行かない。一人で帰りな」

 

 意外な言葉を受けて振り返る。阿古の白い面には返り血はもう付いていない。道々、拭ったのか。


「安是より都が良いとも思えない。それより・・・・・・」


 その表情は強がりを言ってるふうにも、恨みがあるふうにも見えなかった。ただ、面白い遊びを思いついた子どもそのもの。


「あんたにゃ感謝してる。ミカドの話、面白かったよ」

 ──だから一つ忠告だ。

 もうその身から赤光は立ち昇っておらず、彼女は晴れ晴れと言った。


「いつか、あんたの上に天から赤い雨が降る」


 *


 天歴五十七年、旧都で火事が起きた。

 後に〝天雨の大火〟と呼ばれ、都内の大半を灰燼にした、遷都の因。

 御所が燃え、東風により火の粉が城下に降り注ぐ。学舎に詰めていた私も被災した。誰が呼び始めたのかは知らねど、真赤の炎はまさしく〝天雨〟と呼ぶに相応しかった。

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