Episode.21 祈りの雨が降り注いだら

 防寒具越しにも強烈に感じる寒さに、思わず身震いしてしまう。

 それは決してレティシアひとりではなく、周りを見渡すと皆一様に身体を小刻みに震わせている。


(……あれからもう五日。騎士も魔法士も疲労と怪我で、随分と消耗しておりますわね)


 見上げる山肌の色は“灰”。

 到着時よりも、霧の黒が濃くなってきているように思える。

 ため息。そして、木箱を両腕で抱えながら手近なテントに入っていく。


「れ、レティシア様……!?」


 入ると、まずアルベールと目が合う。

 少し目線を下げると、身体の各所に巻かれた包帯が見える。アルベールは五日間ずっと誰よりも前線で戦い続けている。包帯を巻くだけで済む怪我だけしかないのは、奇跡以外の何物でもない。


「こ、これはお見苦しい姿を……」

「いえ、そのままで結構ですわ」


 慌てて服を羽織ろうとするアルベールを制し、静かに首を横に振る。


「それに、この場に見苦しくない姿の者が残っておりまして?」


 ニヤリと笑ってやると、アルベールは面食らって言葉を失う。

 しかし、すぐに口元を隠しながら笑い始める。


「たしかに、もうこの場に身なりに気を遣っていられるほど余裕のある者などおりませんね」

「あら、それはわたくしに申しておりますの?」

「いえ、とてもチャーミングな寝ぐせをお見せくださっているな、と感謝しております」


 すぐさま手鏡を取り出し、髪の毛を確認。だが、そこに寝ぐせはない。

 嵌められた……!?


「……っ!? アルベールぅ……?」


 恨めし気に睨んでみるも、アルベールは笑顔で躱す。


「……覚えていなさい、アルベール。帰還したら、今までの倍以上の仕事を押し付けて差し上げますわ」

「ええ。無事にここから帰還できましたら、その暁にはいくらでも激務に身を投じましょう」


 恭しく頭を下げるアルベール。

 頭を上げた彼の顔は、どこか覚悟を決めたような感じがする。


「……はぁ、それは言わないお約束というものですのよ?」


 一体、何を覚悟しているのやら……。

 茶化して返してやると、アルベールの表情も少し柔らかくなった。だが、今はこんな世間話をするために来たのではない。

 真剣な空気を察してか、アルベールはまた視線を鋭くする。


「――して、魔獣の動向は?」

「ええ、現在あまり活発な活動は見られません。しかし、昨日までのことを考えると、これで終幕……ということもないでしょう」


 予想通りの返答。その証拠に、先ほど偵察から帰ってきた騎士たちもあまり消耗していなかった。

 ただ、アルベールは険しい表情を崩さない。


「……妙ですわね」

「レティシア様もそう思われますか?」


 どうやら、アルベールも同じ胸騒ぎのようなものを感じ取っていたらしい。二人の間に重苦しい空気が流れ始める。


「ええ。昨日までは怒涛の勢いで絶え間なく襲撃を繰り返してきたのです。今朝からそれが急に止んだとなると――」

「――やはり『嵐』が来る、と?」


 アルベールはこちらの瞳をじっと見据える。そして、首肯。


「かしこまりました。皆に警戒態勢をさらに強めるように指示しておきましょう」

「頼みましたわ、アルベール騎士団長」


 優雅に一礼してから、レティシアはテントの外へ。

 肩に手を当て首を回すと、コキッと小気味のいい音が鳴る。


(王女でありながら堅い空気が苦手とは、まったく致命的ですわね……)


 自嘲気味に笑う。

 視線を山の向こうの空へ。そこには、分厚く黒い雲が見える。やはりそれは嵐の前触れのように感じてしまう。


(……ただ祈ることしかできないのは、少し苦しいですのね)


 もしかすると、伊織もずっとこんな気持ちだったのかもしれない。


(イオリさん、どうかもう一度あなたと――)


 レティシアはひとり、静かに手を合わせた。


     ◇


 早朝、レティシアの目を覚ましたのは激しく打ち鳴らされる鐘の音だった。


「――ッ! 何事ですの!?」


 なりふり構わず、慌ててテントを飛び出す。

 テントの周りでは、騎士や魔法士たちが走り回っている。その手には剣や杖などの武器が携えられていた。

 さらに人の流れの先にまで視線を飛ばすと、火の手。


(もしかして、これは……――)


 ざわつく心を抱えたまま、全速力で駆け出す。目指すのは、アルベールのいるはずのテント。

 テントに駆け込むと、苦渋に塗れたアルベールの表情が目に入ってきた。


「アルベール! 何がありましたの!?」

「れ、レティシア様……!」


 眉間にしわを寄せると、アルベールは重苦しく声を絞り出す。


「――……魔獣の、襲撃です」


 驚愕に目を見開く。

 たしか、夜間でも襲撃があるかもしれないからと、交代制で見張りを立てていたはずだ。その監視網をかいくぐってきたと……?


「見張りの者からの報告は……!?」

「それが、どうやら少し気が緩んでしまっていたようでして、その隙をついて襲撃をかけてきたようです。申し訳ありません……っ!」


 ……なんということだ。

 はじめは休みなく襲撃をかけ、それで押し切れないなら緩急をつけることで油断を誘う。

 まるで、人間の心理を読んだかのような襲撃の仕方だ。ただの獣だと思っていたが、そんな知能も備わっているというのだろうか。

 いや、今はそんなことを考えていられる余裕はない。

 首を横に振って、アルベールへ鋭い視線を飛ばす。


「謝罪は後回し。今は迅速な撤退指示を……!」


 だが、アルベールは首を縦に振らない。


「――いえ、即時撤退は叶いません」

「……なぜか聞いてもよろしくて?」

「現在、我々は魔獣の大群に包囲されている状況です。それも、退路をつくる隙すらもないほどに」

「なっ……!?」


 まさか、そこまで追い詰められているとは……!?

 目を大きく見開き、言葉を失う。


「ですので、撤退をするとしても、魔獣たちの包囲網を力づくで突破するほかありません」

「ですが、そんな力はもう――」


 五日の激闘を経て、この部隊は疲弊しきっている。力づくで退路をこじ開けるなんて無茶な真似ができるような状態ではない。

 だが、それ以外に道がないのもまた事実。

 レティシアには、ただただ唇を噛んでうつむくことしかできなかった。

 そのとき、テントの向こうから騎士の甲高い悲鳴が上がる。


「では、これより私どもが突破口を開きます。レティシア様と研究班は隙が生まれ次第、どうにか脱出をお願いいたします! では……っ!」


 軽く頭を下げると、立てかけてあった剣を手にアルベールはテントの外へ駆け出す。

 その背を見送り、息を呑む。


「……アルベール。どうか、無事で」


 そう祈るぐらいしか、自分にはできないから――。

 すると、研究員たちが駆け寄ってくる。皆、最低限の荷物を背負い、すでに撤退の準備は整っているようだ。


「皆、行きますわよ……っ!」


 研究員たちが頷くのを確認してから、レティシアを先頭に走り出す。

 踏みしめる地面には、抉れた裂傷のような跡。仮設キャンプ内の至る所から黒煙が上がっている。

 走り抜けながら、戦っている騎士や魔法士たちに目を向ける。

 すでに陣形など崩壊し、乱戦模様。


(……想定以上に酷い状況ですわね)


 このままでは、自分たちが無事撤退できたとしても……――。


(いや、今は迅速にこの場を駆け抜けることだけを考えなさい……ッ!)


 今も戦っている皆を信じて、脇目もふらず息を切らして走り続ける。

 瞬間、レティシアが足を止める。


「あ、アルベール……!?」


 視線の先、映るのはアルベール。

 騎士団の制服は破れ、その下からは無数の傷痕が顔を覗かせている。全身は赤黒い血に塗れ、それが自分が流したものなのか魔獣の返り血なのか、その区別すらつかないほどに混ざりあっている。

 ……ダメだ。ここで時間を浪費している場合ではない。それでも――。

 無意識のうちに、足先が傷だらけのアルベールへ向かう。

 一歩、踏み出した瞬間、振り返ることなくアルベールが声を荒げた。


「――来るなァ!!」

「……っ!?」


 踏み出した足が止められる。

 アルベールは剣を地面に刺し、よろめきながら立ち上がる。一瞬、覗いた横顔は修羅のように険しい。


「必ず、私たちが路を開きますッ! だから……! だから、あなたたちは振り返らず! 先へ――ッ!!」


 出しかけた言葉が喉に詰まる。

 そうだ。彼の覚悟を無駄にするわけにはいかない。

 だから、託された自分たちは振り返らず、ただ前へ……――っ!


「アルベール……ここは託しました……!」


 こくり。アルベールが無理な笑顔で頷く。

 今にも溢れ出しそうな涙を飲み込み、再び研究員たちとともに走り出す。

 同時、獣たちの咆哮。そして、虚ろな目で剣を構えるアルベールに、何体もの魔獣が束になって襲いかかる。


「アルベール――!?」


 もうダメだ。走り出した足を急転換。

 身体を翻すと、アルベールに手を伸ばす。


(……いけない! このままでは届かな――)


 魔獣の牙が力なく剣を構えるアルベールに迫る。

 迫る。迫る。そして、触れ……――。


「え……」


 ――刹那、天から荘厳な鐘の音が響き渡った。


「これはいったい……?」


 何が起こったというのだろうか。

 呆然と周囲を見渡すと、空から光の粒子が降り注いでいる様が目に入る。まるで、雨粒のようにも思える。

 光の雨に触れる。温かい。

 どこか安心させられる温もりに心を鎮めていると、不思議なことが起こった。


(ま、魔獣が消えていく……!?)


 あれだけ荒れ狂っていた魔獣の群れが、いつの間にかその数を減らしているのだ。

 まだ残っている魔獣を一瞥すると、光の粒子に包まれているのが目に入る。そのまま、溶けるように姿が掻き消されていく魔獣たち。


(もしかして、この光の粒が魔獣を消滅させている……!?)


 すると、アルベールがふらつく。


「あぶなっ……!」


 慌てて手を伸ばす。だが、それよりも先にアルベールの後ろから手が伸びてきた。


「い、イオリ……さん……?」

「――ごめんね、遅くなって」


 伊織は優しく微笑むと、意識のないアルベールを横たえる。

 鼓膜を震わせるのは、いつもより低い声。目の前で佇むのは、初めて会った時と同じ男性の姿。その姿に、どこか懐かしさを覚える。

 目尻に、涙が浮かんでくる。

 ……いや、今はまだ泣くときじゃない。

 ぐっと溢れ出そうな涙を抑えると、伊織をまっすぐに見つめた。


「……どうして、ここへ? 伝令のために帰還させた騎士が到着して、まだ二日も経っていませんのよ? それにその姿は……?」

「うん。でも、あまり詳しく話している余裕はないかな?」


 視線の鋭さを増し、まだ数の減りきらない魔獣の群れを睨みつける。


「……ノエル、アルベールさんたち負傷者のことは頼める?」

「は、はい。承りました!」


 彼の背後からひょこっと顔を出すノエル。

 彼女の元気な姿にまた涙が溢れそうになる。


(涙もろい人間ではないと思っておりましたのに、情けない限りですわね……)


 自分の弱さを暴かれたようで、少し情けなく思ってしまう。


「じゃあ、俺は……――」


 伊織はその場で片膝をつく。両手を組み、うつむく。

 すると、天から降り注ぐ光の雨がさらに勢いを増していく。


「……っ! これは、いったい……!?」


 夢のような景色に、目を見開く。


「レティシア様、よく見ていてください――」


 ノエルに目を向ける。

 彼女は口角を上げ、まっすぐに伊織の背中を見つめていた。


「――あれが私たちの待ち望んだ、真の《聖女》の姿です」


 光が魔獣に触れ、次々とその姿を掻き消していく。

 だが、苦しむ様子はない。安らかに、そして静かに魔獣たちは一匹、また一匹とその数を減らしていく。


「これが、イオリさんの力……」


 奇跡のような光景に、言葉を失う。

 立ち上がり、振り返る伊織。その表情は、誰よりも優しい。


「……聖女、だ」


 どこからか声がした。

 続くようにして、周りから次々と「聖女」や「奇跡」という単語が聞こえ始める。その声は重なり、やがて大波のような歓声がこの場を埋め尽くした。


「ふぅ……」


 当の本人は気の抜けた顔でため息。

 こちらの視線に気づく。すると、満面の笑みで見つめ返してくる。

 そして、手にはVサイン。


「はぁ、『雰囲気ぶち壊し』というやつですわね……」

「ええ。ですが、あれがイオリさんですから」


 ノエルの言葉に、もう一度伊織の方に目を向ける。

 心の底から喜びが溢れている、これ以上ないほどの笑顔の花が咲いている。つい数日前まで、倒れるほど悩みに暮れていた者だとは思えない。

 その笑顔に安心している自分もいる。


「……そうかもしれませんわね」


 苦笑を漏らしながら、振り向く。

 そこには、白銀に染まる雪山が静かにこちらを見下ろしていた。

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