16.長い長い片想いの話

ルイシュと別れたアマリアはオリオンとともにエウゼビオの救助に向かった。堀から這い上がったエウゼビオは熱い風呂に入って身体を温めたが、深夜までくしゃみを繰り返していた。


アマリアもなかなか寝つけなかった。頭の中は、この城へ来る前より混乱していた。ルイシュは「俺に任せろ」と言っていたが、フランシスカは彼が何か仕掛けてくることを強く警戒している。ルイシュの作戦が上手くいくのか、上手くいったとして彼の命や立場は安全なのか、考え始めると不安でたまらない。


それでも、ルイシュがアマリアのためにここまで来てくれたことは途方もなく嬉しかった。欧州中の人間を一人残さず叩き起こし「ルイシュさんが私を助けに来てくれたんです!」と報告したいほど。


「眠れない?」


闇の中から声が聞こえ、アマリアは枕から顔を上げた。オリオンの声だ。彼女も同じ部屋にいる。寝ずの番をするつもりか、両腕を組み、日中と同じ服装でドアの横に立っている。


「昨夜もあまり眠れていなかったでしょ? 長旅なんだから、しっかり休んだ方がいいわよ」


「私は拉致監禁されてるんです。よく眠れるわけありません」


オリオンに何か勘づかれないよう、アマリアは平静を装った。押しつぶされそうなほどの不安と、踊り狂いたいほどの喜びを胸に隠し、寝巻のドレス姿でベッドを降りる。オリオンがクスッと笑った。


「それはそうね。どこへ行くつもり?」


「厨房に、何か温かいものをもらいに行こうかと。一緒に行きません? あなた、何も食べてないでしょ?」


アマリアは編み上げ靴に足を突っ込んで紐を結び、枕元の燭台を持った。


「携帯食を少し食べたわ。のどは乾いてるけど」


「じゃあ、井戸に水を汲みに行こうよ。自分で汲んだ井戸水なら絶対に安全でしょ」


「どうかしら。あなたのためなら実家の井戸ひとつくらい、あの短足男はつぶすかもしれないわよ」


オリオンはそう言いながらも、ドアを開けてアマリアを通した。城の住人は寝静まり、通路の明かりは消えている。アマリアとオリオン、それぞれが持つ燭台と、小さな窓から差す月明かりだけが頼りだ。


「ルイシュさんは短足なんじゃなくて、ちょっと胴が長いだけです」


「同じことでしょうよ」


「違います」


小声で言い合いながら螺旋階段を下り、食堂の隣の厨房へ向かう。その木製のドアはぴたりと閉じていたが、ドアの下の隙間から光が漏れていた。誰もいないだろうと思っていたアマリアは思わずオリオンと顔を見合わせた。


「遅い時間にすみません」


アマリアはドアをノックした。ドアの向こうで何かが転がり落ちる音がした。やがてドアが開き、中からルイシュの継母が顔を出した。


「あら、アマリアさん、と、侍女の方ですね」


腰に剣を帯びている男装の女はどこからどう見ても侍女ではないのだが、ルイシュの継母はにこりと微笑んだ。本気で言っているのか、そうではないのか、アマリアには判断がつかなかった。


「あの、眠れなくて。何か温かいものをいただきたいんですけど」


おずおずと申し出ながら、アマリアはルイシュの継母の背後を見ていた。厨房の作業台にはワイングラスがふたつ置いてあった。どちらも飲みかけで、赤い液体の表面がゆらゆらとわずかに波打っている。ふたりの人物がつい数十秒前までワインを飲んでいたのだ。しかし、厨房にはルイシュの継母の姿しかない。


「もちろんですわ。かまどの火を落としてしまっているので、使用人を呼んで参りますわね」


「竈の火なら、私、起こせます」


「まあ、頼もしい」


ルイシュの継母は感嘆し、アマリアを厨房に招き入れた。オリオンも周囲を見回しながらついてくる。アマリアはさっそく竈の火を起こしつつ、横目でワイングラスを見た。その傍らにある銀の懐中時計がルイシュのものとよく似ていると思ったからだ。目を凝らすと、ふたに彫られた印章が見えた。オリーブの葉の輪の中に“L”、ルイシュの手紙の封蝋に押されていたものと同じだ。


彼はさっきまでここにいて、どこかに慌てて身を隠した。部屋のあちこちへ視線を走らせながら、アマリアは銅製の片手鍋にミルクを注ぎ、それを竈に置いた。


「なんて手際がいいんでしょう」


煮炊きは使用人の仕事だ。褒める方がおかしいのだが、称賛されることに耐性のないアマリアはただただ赤面し、ルイシュの継母が勧めた背もたれのない椅子に腰を下ろした。


「アマリアさん、ひとつ、うかがってもよろしいかしら?」


ミルクが温まるまで間が持つだろうか、と思っていたアマリアに、ルイシュの継母は思い切ったように言った。彼女も椅子に座った。


「はい、何でしょうか?」


アマリアは居住まいを正し、ちらりとオリオンを見た。女傭兵は厨房のドアの前に立ち、壁に寄りかかって窓の外を見ているが、こちらの話に聞き耳を立てているだろう。滅多なことは話せない。


「さっき、ルイシュが家出したのは私のせいだったと、そうおっしゃってましたよね。その話、詳しく教えていただけませんか?」


ルイシュの継母は心苦しそうに眉根を寄せた。アマリアは焦った。詳細を知りもしないで思わず口走ったことだ。


「すみません、私もよく知らないんです。コスタ大臣が家出したのは、新しい母上との不仲が原因だとか、そういうセリフが“トライアングロ”にあったような、なかったような」


本当は患者から聞いた噂話だ。だが、実際に本人に会って何となく分かった。ルイシュはこの人を嫌っても憎んでもいない。きっと、その逆だ。数時間前に見かけたルイシュと彼女のやりとりも不仲には見えなかった。


「まあ、あの芝居、そんないい加減な脚色を」


ルイシュの継母はむくれた。怒った顔まで愛らしい彼女に、アマリアは笑ってしまった。患者たちは「いじわるな継母がコスタ大臣を虐待したのではないか」などと騒いでいた。彼らに、実物の彼女を見せてあげたい。


「コスタ大臣って、どんな子供だったんですか?」


アマリアが問うと、ルイシュの継母は屈託なく破願した。


「とっても優しい子でしたわ。私は14歳の時にルイシュの父上の後妻になったのですけど、夫とは25歳も年齢が離れていたし、いきなり4人の男の子の母親になるなんて、ものすごく不安でした。でも、この家の男の子たちはみんな私に優しくしてくれて、その中でも2つ歳下のルイシュは一番、私と仲良くしてくれましたわ」


そこまで語ってから、彼女は悲しげに表情を曇らせた。


「でも、私が嫁いできて3ヶ月後にルイシュはこの城を出て行ってしまって、それ以後は、なぜか、ここへ寄り付かなくなってしまったのです。手紙を書けども返事もくれず、とても淋しかったですわ」


ミルクが沸騰する音がして、アマリアは立ち上がった。ルイシュの継母は棚から陶器のカップとソーサーを3セット出した。アマリアは竈から鍋を上げ、湯気の立ち上るミルクをカップに注ぐ。


「彼がここに帰ってくるようになって、普通に接してくれるようになったのは、いつからだったのかしら」


独り言のように言って、ルイシュの継母は遠い目をした。その視線の先を追うと、薄霧の漂う湖と古城を煌々と照らす月が見えた。窓から入り込む冷たい夜風に頬を撫でられながらミルクを飲み、それからアマリアはベッドに戻った。


翌朝、アマリアたちは城を出発し、コンポステーラへ続く迂回路へ向かった。この辺りで特に物騒な山道ということもあり、コスタ子爵と彼の率いる兵がアマリアたちを途中まで送ってくれた。


アマリアが馬車の窓から顔を出し、馬上のコスタ子爵に話しかけたのは太陽が天頂に届き、肌が汗ばむほど気温が上がった頃だった。3夜連続の寝ずの番がこたえているのか、同乗しているオリオンは船を漕いでいて、僧兵ふたりは携帯用のチェスで遊んでいる。このふたりはポルトゥカーレ語が分からない。


アマリアが自分の推察を口にすると、子爵はルイシュによく似た目を細めて笑った。


「そのとおり。“トライアングロ”ではルイシュはコンスタンサさんにずっと恋していたと描かれていますが、本当は違うんですよ」


晴れ渡る青空を背に、子爵は少年のような悪戯っぽい顔で続けた。


「もう時効ですし、我が家の人間は使用人も含めて全員承知のことなので明かしますがね。ルイシュが家出したのは、母の懐妊が分かった日でした。それから、あいつが家に帰ってきたのは父の葬儀の時だけです。時が流れて、今から10年ほど前でしょうか、なぜか突然に帰省するようになりましてね。ああ、あいつの長い長い片想いが終わったんだなと、そう思ったものです」


ルイシュがなぜ年齢の離れた夫婦や恋人同士を嫌悪しているのか、アマリアはずっと疑問に感じていた。恋した女の子が自分の父親の子を身ごもったと聞いた時、12歳の少年が何を思ったのか、それを想像すると納得できるような気がした。


「そうだ、一度だけ、コンスタンサさんを我が家へ連れてきたこともあったんですよ。暑い夏の日で、あの古い堀にルイシュが彼女を蹴り落としたんです。そうしたら、今度はうちの弟妹がルイシュを突き落として、それはもう賑やかなことでした」


子爵は馬に揺られながら、懐かしそうに笑った。


「ルイシュはここで暮らしていた頃、あまり子供らしくない子供でした。よく、次兄や三兄に色覚異常のことでからかわれていましたから、早く大人になってあいつらを見返したいと嘆いて、妙に背伸びして大人ぶっていたものです。けれど、コンスタンサさんと一緒にいる時のルイシュは童心に帰ったかのようでした。彼女はまるで太陽のように眩しく、ルイシュの世界を明るく照らしてくれたのだと、あいつにとってコンスタンサさんは海よりも深い友情で結ばれた、かけがえのない腹心の友だったのだと、私はそう思います」


アマリアは想像してみた。香薬師協会で見た、あの肖像画の溌剌はつらつとした女性と、今より少し若いルイシュが古城の堀の水面に顔を出し、夏の陽光をいっぱいに浴びながら腹を抱えて笑い合っている様子を。


「あの……色覚異常って、何ですか?」


アマリアが問うと、ルイシュの長兄は「失言をしたかな」という顔になった。


「ああ、ご存じありませんでしたか。ルイシュの目には薄い色が見えないんです。特に赤系統の薄い色が。あいつの見ている世界は、我々のそれとは少し違うのですよ。子供の頃、ルイシュはそれをとても気にしていたのですが、どうやらコンスタンサさんに励まされて、ずいぶん救われたようです」


薄い色、赤。アマリアの胸の中で何かが引っかかった。


「3年前に彼女が亡くなった時、私もポルトで行われた葬儀に参列しました。ルイシュは憔悴しきっていて、この先どうなってしまうかと心配でならなかったものです。あいつが立ち直れたのは、きっと、あなたがいたからでしょう」


アマリアがルイシュに初めて会った日は、コンスタンサが病没して間もない頃だった。孤児院でアマリアと対面したルイシュは、今にも泣き出しそうな顔になって、アマリアを力一杯に抱きしめた。


あの時のルイシュの心境を想像することは難しくはない。だが、アマリアはそれを直接、彼から聞いてみたいと思った。その機会が訪れるかどうか分からないが。


「我々がお送りできるのは、ここまでです」


コスタ子爵が残念そうに言った時、前方に小さな橋と川が見えた。コスタ子爵家の領地の境界だ。


「閣下、どうぞ、ご無事で。閣下にお力添えした最初の忠臣として、ルイシュ・シウバ・ダ・コスタ王宮伯と、ダ・コスタ子爵家をご記憶くださいませ」


ルイシュの長兄は囁くように言い添え、馬を走らせて教皇庁の要人やフランシスカへ暇を告げに向かった。意外と抜け目がないのかもしれない。


橋を渡る馬車の中から、アマリアはルイシュの兄に手を振った。想い人によく似たその姿が小さくなった頃、アマリアは胸に引っかかっていた何かの正体が分かった。


コンスタンサから受け継いだレシピには、水彩と思しき薄いピンク色のインクでたくさんの書き込みがあった。そして、最後のページには同じ色のインクでこう書いてあった。病と闘いながら、持てる力を振り絞ってつづったような文字で。


“この世の誰よりもあなたを愛していると、たとえ死んでも決してそれは変わらないと、自分の声で伝えたかった。”


ルイシュは「コンスタンサがレシピを遺したのは、俺のためじゃない。それは間違いない」と言っていた。


そして、あのメッセージはルイシュには読むことのできないインクで書かれていた。もしかしたら、あれは母から娘へ宛てた言葉なのではないたろうか。見当はずれかもしれないが、そうだったら、どんなに素敵だろう。


鼻の奥がツンとして、アマリアは両目をこすった。


アマリアにとってコンスタンサは、孤児院へ多額の寄付をしてくれていた恩人だった。なりゆきで店やレシピを譲り受け、会ったことこそないが、奇妙な縁のある人物だと思っていた。誰もが知る前王宮香薬師であり、薄毛治療の香薬を開発してポルトゥカーレ中の中高年を狂喜乱舞させた才女であり、“トライアングロ”のヒロインで純愛と不滅の友情の象徴、それがコンスタンサだ。


「……母親か」


アマリアは馬車の窓から顔を出し、遠くに見える村や葡萄畑を眺めながら独りごちた。自分が国王とコンスタンサの娘だと聞かされて3日経ったが、これまでは、まるで実感がわかなかった。だが、今、初めて、アマリアの胸にその事実がゆっくりと染み渡った。


いつのまにか、オリオンが目を覚ましていた。彼女は美しい青灰色の瞳で、探るようにアマリアを見ていた。

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