15.抱擁

フランシスカは、アマリアとエウゼビオとオリオンを同室に割り当てた。オリオンは鳩舎の鳩の面倒を見ていて不在だったので、燭台のロウソクの火に照らされるベッドの前で固まっているのはアマリアとエウゼビオのふたりだけだった。やがて慌てた様子でエウゼビオが言った。


「俺はあっちの部屋で寝る。このベッドはおまえとオリオンが使えよ」


背中の長剣を下ろし、旅装の上着を脱ぎつつ、王宮護衛隊のエースは次の間のドアを開ける。テーブルやカウチや暖炉がある部屋だった。


アマリアはベッドの真ん中へ仰向けに倒れ、四肢を伸ばした。昨日の朝から軟禁状態での移動が続き、今日の夕方には盗賊団の襲撃に遭った。恐怖、緊張、不安、怒り、悲しみ、どの感情からどう処理すべきかも分からない。ポルトの患者たちのことも気がかりだ。


疲れ切ってはいたが、アマリアの精神は昂っていた。ここはルイシュの生家。彼が12歳までを過ごし、その家族が暮らしている城だ。そして、もしかしたら、彼が今ここに来ているかもしれない。


居ても立っても居られなくなり、アマリアは飛び起きた。そこへコスタ子爵家の使用人がアマリアたちの旅の荷物を運んできた。


「まもなく夕食のご用意が整いますので、お支度をお手伝いいたします」


そう申し出た女の使用人の手を借り、アマリアは夜会服ボールガウンへ着替えた。一昨日の夜に着た深緑色の夜会服ボールガウンだ。着の身着のままポルトから連れ出されたアマリアの衣類や小物はフランシスカの侍女が用意していた。


整髪や化粧が終わった頃、隣の部屋から正装したエウゼビオが出てきた。


「エウさん、“トライアングロ”でルイシュさんが落ちた底なし沼って、このお城に、本当にあると思う?」


アマリアはエウゼビオに話しかけた。この丸2日、目も合わせてくれなかった妹分から声をかけられたことがよほど嬉しかったのだろう、黒豹は瞳を潤ませて笑った。


「あるんじゃないか? 明日の朝、出発前に探してみるか」


「うん」


アマリアもぎこちなく笑った。エウゼビオに怒っていても仕方がない。彼だって好きでフランシスカに協力しているわけではないのだ。最も穏便に事を済ます方法は、アマリアが大人しくジュネーヴへ行き、女教皇が崩御するまで治療すること。それはアマリアも分かっている。


「支度はできたのか?」


ノックもなくドアが開き、黒い夜会服ボールガウン姿のフランシスカが入ってきた。微笑み合うアマリアとエウゼビオを見て、伯爵夫人は不快そうに顔をしかめた。


「夕食には礼を失さぬ程度に付き合って、なるべく早めに席を立つ。おまえたちも、そのつもりでいろ」


養母の言葉にエウゼビオは皮肉っぽい笑みを顔に浮かべ、小さく肩をすくめた。


「その方が助かります。食べられないご馳走を前に座り続けるのは苦痛ですからね。アマリア、行くぞ」


エウゼビオがアマリアへ片腕を差し出す。ポカンとしていると、フランシスカがアマリアの手を取った。


「こうしてエウゼビオの腕に自分の手を添えるんだ。アマリア、おまえ、マナーはさっぱりか?」


「当たり前です。私は庶民です」


アマリアはフランシスカの呆れ顔をじろりと睨む。エウゼビオはそれを朗らかに励ました。


「大丈夫、みんなの真似をしてれば、どうにかなるもんだ」


孤児院へ来る前、エウゼビオは父親の手配した家庭教師からそれなりの教育を受けていたという。教皇庁の面々と言葉が通じるのも彼に教養があるからだ。


アマリアは「20歳で香試こうしに合格した才媛」と持て囃されたこともあるが、香薬学以外の教養はほとんどない。孤児院の出納管理をしていたので、計算に自信がある程度だった。市井で暮らしていたのだから、当然だ。


アマリアはフランシスカに促されて部屋を出た。エウゼビオと腕を組み、子爵家の使用人の先導で暗く細い通路を歩く。真夏にもかかわらず、湖の中の古城は涼しく、肩や背中の開いた夜会服ボールガウンでは肌寒かった。


「これは、ひとりで歩かない方がいいだろうな。こういった古城には思わぬ仕掛けがあるから」


エウゼビオは低い天井や小さな窓のある壁を見回してつぶやく。敵を惑わせるためなのか、城の中は方向感覚を失うような入り組んだつくりになっていた。


角のとれた滑らかな石の螺旋階段を下りていくと、地上階でルイシュの継母がアマリアたちを出迎えた。無垢ではかなげで、年下であるアマリアでさえ思わず庇護欲をそそられる。年齢はルイシュと同じ三十代半ばくらいに見える。


「どうぞ、こちらへ」


ふんわりとした可憐な微笑みを浮かべ、ルイシュの継母は客人を食堂へ導いた。クロスをかけられた巨大なテーブルには様々な料理が並び、ルイシュの長兄であるコスタ子爵、次兄、三兄、彼らの配偶者が着席していた。客人の顔を見ると彼らは立ち上がった。ルイシュの血縁者とは思えぬほど、誰も彼も穏やかで愛想がいい。でも、みんな胴は長めだ。


ルイシュの歳の離れた弟と妹も加わり、夜宴は不審なほどなごやかに始まった。コスタ子爵とエウゼビオが話題の中心となり、アマリアが話しかけられることはほとんどなかった。


エウゼビオはワイングラスに口をつけたり、皿の上の料理を細かく切り刻んだりして食事している風を装ったが、おそらく子爵家の面々はそれに気がついている。おまけにフランシスカが「では、我々はそろそろ……」と言いかけるたびに、新しい料理や酒が運ばれてきたり、弦楽器を持った音楽家が登場して演奏を始めたりするので、なかなか席を立てなかった。


「エウゼビオさん、アマリアさん、おふたりの門出を祝して、差し上げたいものがあるの。少しいいかしら」


ルイシュの継母がそう言い出したのはアマリアがデザートのアプリコットを頬張っている時だった。アマリアは唇に着いた果汁をナプキンでぬぐい、フランシスカの顔を見た。目が「断れ」と言っていた。


「はい、ぜひ」


アマリアは立ち上がった。ルイシュの継母と話してみたかったのだ。フランシスカは引きつった顔で笑った。


「躾の嫁で申し訳ありません。アマリア、今夜はもう遅い。ご迷惑にならぬよう、こういう時は遠慮をするものですよ」


「まあ、伯爵夫人、迷惑だなんて滅相もございません。遠慮は無用ですわ。さあ、エウゼビオさんも、こちらへどうぞ」


無邪気に微笑み、ルイシュの継母はアマリアとエウゼビオを食堂の外へいざない、明かりの灯った燭台を手に細い螺旋階段を上った。どこへ連れて行かれるのだろう、とふたりが顔を見合わせた時だ。曲がりくねった通路の先に、黄金で美しく装飾された立派なドアが見えた。


「贈りたいものはこの先ですわ。エウゼビオさん、どうぞ開けてみてくださいな」


ルイシュの継母が天使のような声で促し、エウゼビオは訝しげにドアノブへ手を伸ばす。


「重いドアですので、思い切り押し開けてくださいね。……渾身のお力で」


ルイシュの継母がそう言ったのと、エウゼビオが力いっぱいにドアを押し開けたのはほぼ同時だった。ドアの向こうは夜の闇、湿った風の吹く屋外だった。そして、ここは地上階ではない。エウゼビオは悲鳴も上げず落下した。


「エウさん!」


アマリアの声は水しぶきの音にかき消された。下をのぞき込むと、星明りに光る水面が見える。エウゼビオがもがきながら浮かんできた。


「そ、底なし沼!」


“トライアングロ”でルイシュが落ちた沼に違いない。


「なんて、ひどいことなさるんですか!」


ルイシュの継母に抗議すると、彼女は微塵も悪びれず、タンポポの綿毛のようにふわふわとした声で笑った。


「うふふ、大丈夫。底はありますし、沼ではなくて古い堀ですの。彼なら足も着くでしょう。あのお芝居は脚色が過ぎるのですわ」


「私をどうするつもりですか! 12歳のルイシュさんが家出した原因があなただってこと、私、知ってますからね!」


アマリアはルイシュの継母を睨みつけながら、じりじりと後退る。その背中に何かがぶつかった。人だった。


「まあ、それは初耳ですわ。そうなの、ルイシュ?」


その人は背後から覆いかぶさるように、アマリアの身体を抱きしめた。振り返らずとも、アマリアにはそれが誰か分かった。こんな風に彼に抱きしめられるのは、初めて会った日以来だ。アマリアの脳裏に、12歳の時に盗み見た手紙の文面が浮かんだ。


“セルジオ先生、私は、Aにはこの世の誰よりも平穏に暮らしてほしいのです。”


「ルルルルルイシュさんルイシュさんルイシュさん」


この2日間で様々な想いを胸にため込み、世界中から見捨てられたような絶望を感じていた。そのすべてが消滅し、何もかもが報われたような気がした。


「無事でよかった」


ルイシュはアマリアの髪に顔を埋め、深いため息のような声で言った。人の声を聞いて「柔らかくて温かい」と思ったのはこれで二度目だった。


「無事でよかった」


もう死んでもいいかもしれない。女教皇もサルースの杯も、もうどうでもいい。ルイシュがアマリアの身を案じてここまで来てくれた、それだけでよかった。この先どんなことがあっても、きっと耐えられると思った。


「無事でよかった」


ルイシュがひときわ強くアマリアを抱きしめた時、地上からエウゼビオが激しく咳き込む声が聞こえた。ルイシュは我に返ったようにアマリアを解放した。


「よし、エウゼビオは生きてるな」


ルイシュは堀を見下ろしながらドアを閉めた。彼の継母が小首をかしげる。


「彼、王宮護衛隊のエースなのよねえ?」


「黒豹だのエースだのとチヤホヤされていますが、あいつは陰で“1と6しか出ないサイコロ”と呼ばれているんですよ。大抵は“6”が出ますが、たまに“1”が出ると、あのザマです」


「あら、まあ、ルイシュみたいね」


「……そうですね」


母子の会話を聞きながら、アマリアは冷静さを取り戻していた。涙や鼻水をハンカチでぬぐい、風で乱れた髪を整える。


「ルイシュさん、私のことを心配してくださって、ポルトからここまで来てくださって嬉しいです。でも、このままポルトに帰ってください」


アマリアはルイシュに対して聞きたいことも言いたいことも山ほどあったが、まずは最も重要なことを口にした。もし自分のせいでルイシュに危険が及ぶことがあれば、悔やんでも悔やみきれない。


「私はジュネーヴへ行くつもりです。女教皇様と王妃様とマガリャンイス伯爵夫人のご用命です。従わなければ私もルイシュさんも、どうなるか分かりません」


サルースの杯を葬り去ることができればジュネーヴ行きを回避できるかも、と添えるのはやめた。それを成し遂げれば、女教皇や王妃やフランシスカから強い恨みを買うだろう。ルイシュを関わらせたくない。


「女教皇様が亡くなるまでの務めです。いつになるかは分かりませんが、私は必ずポルトに帰ります。だから、ルイシュさん、何かしようとしているなら、今すぐ手を引いてください」


アマリアの訴えにルイシュは目を吊り上げた。


「馬鹿を言え。女教皇猊下が崩御したらポルトへ帰すと、契約書を交わしたわけでもあるまい。次の教皇猊下だって、おまえを利用したがるに決まってる」


ルイシュの危惧していることは一理あるなとアマリアは思った。しかも、「ほんの数年でポルトへ帰れる」という話は、エウゼビオを通して聞いただけだ。


「俺に任せろ。ジュネーヴには行かせない。おまえは余計なことをせず、あいつらに大人しく従うフリをしていろ」


螺旋階段の下からアマリアとエウゼビオを探すオリオンの声がした。ルイシュの継母の表情が曇る。


「時間切れのようですわね。閣下、戻りましょう。ルイシュ、あなたは早く隠れて」


ルイシュは名残惜しそうにアマリアを見つめた。そんな場合ではないのに、アマリアの胸はときめいてしまった。誰が何短と言おうと、アマリアにとってルイシュは世界で一番素敵な男なのだ。


「もう一度、大事なことを言うぞ。余計なことはするな。俺に任せろ。それから、おまえの患者については手を打った。心配はいらない」


ほんの数秒、今度は正面からアマリアを強く抱きしめ、ルイシュは暗い通路の先へ姿を消した。

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