暗夜の山に月影さやか

白里りこ

暗夜の山に月影さやか

 この街はどこもかしこも街灯がともっていて、暗いということがない。

 だが山道は別だ。

 私は真っ暗な坂道をひたすらに登っていた。時折、根っこや岩に躓きながら。


 暗闇が欲しかった。

 一人になりたかった。


「生きていることから逃げたいの」

 私が母に苦渋の思いで打ち明けた悩みだ。

「お母さんは私のことを『いるだけでいい』って言ってくれるけど、私は自分が存在することが耐えられないの。無価値で苦しいだけのこんな命なんて……どうやったら投げ出さずに生きていけるんだろう」


 母はただただスマホをいじっていたが、なんの返事もせずに、黙って立ち上がって台所に去っていってしまった。

(……無視された)

 私は胸の中がグサグサに刺されたような気持ちになった。刺された傷口から血が流れるようにして、目からぽろりと涙が溢れ出た。

 私は服の袖で目元を乱暴にぐいぐい拭った。いい大人が、こんなことで泣くなんて情けない。

 ……散歩に出て、一人になって、頭を冷やそう。


 そうして私は闇の中を歩いている。

 頭を冷やそうとは思ったが、何だか帰りたくないような気持ちになっていた。

 街明かりが届かなくなったあたりで、立ち止まった。

 そこはまさに漆黒の影の中だった。自分の手元さえ見えない。目に映るのは黒い黒い闇ばかり。

 ゴウッと風が吹いて、木々の梢を恐ろしげに揺らしていく。


 ふうっと私は嘆息した。

 安心していた。


 孤独は好きだ。

 特にここでは、自分がちっぽけに感じられる。外界の全てが遮断されて、この宇宙でたった一人になったような気持ちになる。少し怖い。その怖さが心地いい。

 

 やがて私はスマホで明かりをつけた。見えなかった山道が照らし出される。私は夜の山の奥へと歩を進めた。

 遠く、深く、迷い込むように。

 更なる暗闇を求めて。


 ところが不意に、木々の隙間から、街明かりでも街灯でもない、大きな光が見えた。

「……?」

 私は目を凝らした。

 蜜色に光るそれは、秋の月だった。

 登ったばかりの月の光が、漏れ出ているのだ。

 今まで、山の斜面が東側にあったから、月があることが分からなかった。山の頂上付近にまで来てようやく見えた光。


「……」


 私は呆けたようにそれを見つめた。

 何故だか、強く惹かれるものがあった。

 おかしなことだった。

 暗いところで一人ぼっちになりたくて、山の奥までやってきたのに。

 いざ奥まで踏み入れた途端、月の明るさに取り憑かれるなんて。


 私は落ち葉を踏み分けて、道を逸れていった。その先には峰があって、東側へと大きく開けた空き地がある。

 その空き地に出ると、月はすっかりその姿を露わにした。

 満月だった。

 静かに佇み、東の空を煌々と照らしている。


 私はスマホの明かりを消した。

 さあっと、月の光が辺りに満ちた。

 街明かりでもない、街灯でもない、ただ純粋な月の光だけが、冴え冴えと辺りを照らし、くっきりと景色を映し出していた。

 まばらに生える木が、後ろに影を伸ばしている。振り返ると私の影もある。地面にある草の一本から落ち葉のひとひらまで、はっきりと見ることができた。


 月光ってこんなに明るいんだ。


 私は転がっていた倒木に腰を掛けた。

 ふうっと再び嘆息した。

 それは感嘆の溜息だった。

 満月の輝きの中では、孤独だとか、存在だとか、苦しさだとか、そんなものはどうでもよくなっていた。

 ただ光を浴びるだけで何かが満たされる気がした。心が洗われる気がした。胸の中の刺し傷が癒えて、心がしんと澄み渡る気がした。

 私はしばらく倒木の上で、ぼうっと東の空を眺めていた。

 さわさわと涼しい風が、優しく吹き抜けていった。


 私は立ち上がった。

 ……帰ろう。

 そろそろ両親が夕ご飯の支度を終える頃だ。

 早く戻って、手伝わなくては。

 みんなで揃ってご飯を食べなくては。


 私はスマホの明かりをもう一度点けて、もときた暗闇を早足で戻っていった。

 急ぐ私の背中を、月明かりが静かに見守っていた。

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