第28話 エーベリュックの企み 3

 固く握りしめたナイフの根元まで己の首に突き立てた環は、強く目をつむり、歯を食いしばって力任せに横に引き裂いた。

 環の頭にあるのは利用される前に確実に命を絶つことだけで、怖いなどと迷っている余裕はなかった。


「っ!! ……?」


 深く刺さった手応えも、身体の中をナイフが抉った感覚もあったのに、想像した痛みが襲ってこなくて、環はぎゅっと閉じた目を開いた。首に手を当てると切れてはいる。ぬるついた手触りがした。その手を見ると、べったりと静脈血よりも赤黒い血が付いていた。


「どうして……?」


 環は呆然と呟く。


(動脈まで届かなかった? どうして痛みがないの?)


「異界の女よ。おぬしの覚悟が本物であることはわかった。失敗したがな」


 冷静な声がかかり、信じられない思いで環は顔を上げた。エーベリュックが薄く笑う。


「言い忘れておったが、魔物となったおぬしの体は通常の武器で死ぬことは困難だ」

「そんな……」

「人の命は血に宿る。しかし、おぬしは既に魔物になっていることを忘れたか? 魔物は闇の月の魔力で動く。殺すにはその核を破壊すれば良いのだが……核を破壊するには魔術か魔剣、あるいは魔道具が必要だ。さらに言うと、死体となっても儀式には利用できる。成功率が下がるのでやりたくはないが。

 さて、儀式を始めよう……タントルーヴェ」


 ずっと眉をしかめて環を見ていたタントルーヴェが、薄い唇を引き結んだ。


「どうした。早く押さえ込め」


 エーベリュックが冷たい声でさらに促す。

 タントルーヴェは一度目を閉じると、静かに顔を上げた。表情が消えて、儀式陣に足を踏み入れる。


「タントルーヴェさん……」


 タントルーヴェの肩がピクリと動いた。しかし歩みは止まらない。

 環は背後の岩の裂け目に向かって、じりじりと後ずさる。こうなった以上、残る希望は白の騎士に殺されることだ。なんとかそれまで時間をかせぐ必要があった。


「タントルーヴェさん。やめて下さい。こんなこと間違ってます。そうでしょ?」

「……黙れ」


 タントルーヴェは低い、怖い声を出した。


「タントルーヴェさんだって本当はこんなことやりたくないんですよね?

 あなたは凄く、優しい人だもの。ここに来るまでのあいだ、いいえ、ここに来てからだって私を気遣ってくれて……」

「黙れっ!!」

「あっ!」


――ドンっ!!


 次の瞬間、環は音を立ててステージの上にうつ伏せに押さえられた。一瞬で距離を詰めたタントルーヴェに腕と襟首を取られ、足を払われ、回転するように押し倒された。背中に回った両腕の関節が極められている。

 ショルダーバッグは回転したときに床に転がり、中身がこぼれていた。


「んんっ!」


 魔物化のおかげか痛みはないが身動きが取れない。

 全く反応できなかった。環がまともに道場に通っていたのは遥か昔で、ここ数年は老いた師範に顔を見せる程度でしかない。

 軍隊格闘技を身に付けている職業軍人と思しきタントルーヴェの隙を突くなど、到底不可能だった。


「タマキ、お前は勘違いをしている。俺は優しくなどない。故郷のためなら、どんな残忍なこともできる男だ」

「……タントルーヴェさん」


 淡々としたタントルーヴェの低い声は、環にではなくタントルーヴェ自身に言い聞かせているように聞こえた。


 ポタリと、環の首から血がしたたり落ちた。その血が台座から引かれた儀式陣に触れると、赤い染料がうっすらと光る。


「……まだ血が流れておるのか。さしずめ半人半魔といったところだな。

 ふむ、血を利用できるとはますます都合がいい。タントルーヴェよ、そのまま押さえ込んでおれ。儀式を始める」

「……御意ぎょい


 うつ伏せに押さえられた横目に、エーベリュックが手に持った杖を儀式陣に軽く乗せるのが見えた。


『我は偉大なるタレスギリオンの末裔。約束されし第三の民にして、神秘のおきての番人なり……』


 渋い明朗な声が響き始める。翻訳の指輪をしているのに、何を言っているのか理解ができなかった。


「くっ……、ん……」


 環はなんとか拘束から逃げ出そうと、あらん限りの力と錆びついた技術でもがいた。痛みを気にせず動けるのは不幸中の幸いだ。魔物化の影響で力まで強くなったのか、時おり、膝を使って押さえ込むタントルーヴェを浮かすことができる。

 しかしそのたびに、優位な立場にいるタントルーヴェは力の乗せ方を変えて環を押さえ続けた。


 詠唱を続けるエーベリュックの声は途切れることがない。


 しだいに、目に映る儀式陣の全てが光りはじめた。

 神殿の赤い岩肌も、脈打つように明滅を始める。空気の密度が増して、見たこともない魔力というものが目に見えるような気がした。


(なんとか隙を作らないと)


 環は焦燥に駆られた。


「タ、タントルーヴェさん、痛いです。少し緩めて……」


 環は首を巡らせて、背後のタントルーヴェを見ようとした。


「無駄な抵抗は止めておけ。何を言おうと拘束は解かない」

「…………」


 タントルーヴェの声は平坦だった。完全な拒絶が伝わってきて、環は二の句をためらった。

 そのとき、コンっと杖で床を叩く音がした。環ははっとしてエーベリュックを見る。


「ふうむ、どうにも上手く魔力が流れん……」


 呟いたエーベリュックが近付いてくる。今まで以上に抵抗を試みる環を、タントルーヴェが押さえ込む。エーベリュックが目の前に来て見下ろした。


「護符を外すか。タントルーヴェよ、その左腕を差し出せ」

「はっ」

「ちょっ! やめてください! やめてってば!」


 ひねり上げている左腕を伸ばそうとするタントルーヴェと抵抗する環の力は拮抗した。お互いに腕が震えている。

 エーベリュックが呆れたような声を出した。


「異界の女よ、なぜそんなにあらがう?」

「なん……でって、あ、たり前……」

「おぬしは何よりも死を望んでいただろう。叶えてやるのだ。手間をかけさせるな」

「はっ!? なに、を……」

「六大魔が好むのは、底知れぬ闇を抱えて死を希求している人間だ」

「なん……」


 腕の力が一瞬抜けて、ぐいと伸ばされる。

 エーベリュックが悠然と横に回り込んで腕時計に触れた。環は唖然とエーベリュックを見上げる。


「おぬしは果てのない物が何かわかるか?」

「果てのない物……?」

「恐怖だ。異界の女よ。恐怖には終わりというものが無い。そしてその果てのない恐怖は六大魔のかてとなる」

「恐怖……」


 エーベリュックは腕時計を巻いた環の手首を持ち上げた。


「死を望みながら選べずに、絶望を抱えて生きている人間の魂もまた、同様に六大魔の好物だ。苦しみもがき続ければ続けるほど抱えている闇は深くなり、その魂は六大魔の強大な闇の力さえ受け止められるようになる」

「なに……それ……」


 環の声は弱く、掠れていた。


「家族や恋人、友人など愛する相手が多い者は、深く豊かな愛情を持っている。しかし、その対象を失ったとき、深い愛情はそのまま底知れぬ絶望へと変わる。

 それでも苦しみを分かち合う相手がいる者は、六大魔に魅入られるほどの深い闇を抱え続けることはない。おぬしにはその相手が誰もおらぬのだろう?

 親だけでなく親しい者全てを失っているのではないか?

 分かち合う相手がおらず、癒えることのない深い孤独を抱えたおぬしが六大魔に選ばれ召喚されたのは、必然だったのかもしれぬな」

「…………」


 環は言葉を失って、ただエーベリュックを見上げることしかできなかった。

 エーベリュックが言ったことは全て当たっていた。家族の喪失の辛さを誰にも話すことはしなかった。この悲しみも苦しみも環だけのもので、悲しみから逃れるために、苦しみを忘れるために誰かと分かち合うなんてことは、自分が楽になりたいだけの、家族への裏切り行為にさえ思っていた。

 深く傷つき弱っていることに気づかれないよう、他人の前では笑顔の仮面を被り平気な振りを続けた。どれだけ心が悲鳴を上げようと、ひっそりと押し殺し続けた。


 そうやって悲劇に正面から向き合わずに目を逸らし、乗り越えようとせずに一人孤独に癒えない傷を抱え続けたことが、六大魔に目を付けられた原因だったとは……。


「おぬしは今、その身に異なる二つの呪いを宿している。

 一つは先ほど教えたように、小僧がかけた赤き月、六大魔への贄の呪いだ。贄となったおぬしの体は、闇の月の魔力によって魔物に変容し、その魂は六大魔のしもべとなる。六大魔の望むままに破壊と殺戮さつりくをくり返し、血や恐怖、怨嗟えんさを周囲にまき散らして大地をけがすようになる。

 けがれた大地は強大な魔物が生まれやすく、魔物によってさらにけがれが広がると、六大魔が干渉しやすくなるのだ」


 エーベリュックは腕時計を観察しながら淡々と続ける。 


「もう一つは、我が先祖によって神殿自体に残された呪いだ。

 神殿に宿る六大魔の魔力を利用しようとする者、引いては六大魔の復活に繋がる行為を阻止するために、亡霊騎士が差し向けられる。

 強力な二つの呪いを受けてなお、おぬしが正気を保っていられるのは、六大魔の強大な力を受け止められるほど深い闇を抱えていることと同時に、この護符が、呪いから守っているからだ。

 呪いを退けることは出来ぬとも、その進行を遅らせ、干渉をさまたげ、おぬしが闇に引きずり込まれる寸前で押しとどめておる。素人にしては見事な出来だと言っておこう」

  

 環は言われるがままにエーベリュックが褒めた腕時計を見た。特別高価でもない量産の、本当にごく普通の腕時計でしかない。

 同様に両親とも、ごくごく普通の人間だった。呪いを妨害する護符を作るなんてことが出来るとは思えない。


「……そんな……父も母も、護符を作るなんて……」

「護符は魔術によって作られるものではない」

「え?」

「生命の火が消える間際に、強い思いが残ることがある。大抵は自分の命への未練だが、残された家族の無事を願う思いは、己の命の未練よりも強い。

 親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ち、あるいは兄弟や伴侶を思う気持ち……。その思いは身近な装身具に宿り、わざわいから守る働きをすることがある。それが護符だ」


 エーベリュックは腕時計をしげしげと見つめた。


「魔術ではないから魔力は感じられない。しかし、これには呪いに対抗しうるほどの強い守護がかかっておる。一人や二人の思いでは、ここまで強くなるのは不可能だ。

 おぬしは一族全てを失っているのだろう。その者たちが死に際しておぬしの無事を願ったからこそ、ここまでの強い護符になった」


 環は何の変哲もない腕時計を見つめた。


(……みんなが願った? 私の無事を? 濁流に押し流されていたときに……?)


 環の心に、過去のことが鮮やかによみがえった。

 マイペースだった父、竹を割ったような性格の母、面倒くさがりなのに面倒見の良かった長兄、要領が良く、手を抜くことがうまかった次兄、大雑把で明るかった妹。

 孫をそそのかして一緒に悪さをした祖父、それを見つけて怒る祖母。ご飯をもらっていない振りが得意だった小型犬と、正確な体内時計で散歩の時刻を吠えて報せた散歩命の中型犬。ふらりとやってきてご飯を食べていく近所の飼い猫。


 辛くて直視できなくて、思い出さないようにしていた記憶が、次々にあふれ出てくる。


「おか……あ……さん……?」


(みんなが守ってくれていたの? 今まで、ずっと?)


 あの日、家族を失った日は法事で、本来なら環も実家に帰る予定だったのだが、急遽きゅうきょ、仕事で突発対応が必要になってどうしても帰れなくなった。

 だからか環の胸の内には、自分だけが間違って置いて行かれてしまったという気持ちがある。なぜあの日に帰らなかったのか、くり返し後悔した。一人で残りたくなどなかった。

 深く傷つきながらも生き続けているのは、みずから命を絶ってしまったら、あの世で家族に会えないかもしれないと思ったからだ。そう思うと怖くてできなかった。死んでいないから生きている。ただそれだけの、抜け殻のような人生だった。


 エーベリュックは正しい。環は確かに自分の人生の終わりを願っている。ヴィラードたちが命をかけて守るような価値などない。

 それなのに、そう思い続けていたのに、環が早く会いたいとずっと願い続けた家族は、家族の想いは、常に環と一緒にいた。環が死なないように、異世界の呪いから、ずっと環を守り続けてくれていたというのだ。


(おかあさん、おとうさん、まさにい、なおにい、かおる、おじいちゃん、おばあちゃん、小太郎、モフの助……)


 胸が詰まって泣きたいのに、環の目は乾いたままだった。汗もかかないし、血の色もおかしい。すっかり魔物に変わってしまった。

 涙を流すことさえできないことが、とてもせつなく悲しい。


「おぬしの世界には魔術がないということだが、もしかしたら魔術の才能があったのかもしれんな」


 そう言ったエーベリュックが、腕時計のベルトに手をかけた。


「やめてっ!」


 我に返った環はエーベリュックを振り払おうとした。しかしタントルーヴェに押さえられる。


「皮肉なものだな。家族はおぬしが生き続けることを願い、家族を失って虚無を抱えたおぬしは死を願ったとは」

「やめてっ!!」


 環の悲鳴が儀式の間に響いた。エーベリュックが腕時計を外す。


「あぁっっ!!」


 その瞬間、心臓が大きく鳴った気がした。


「あ……あ…………」


 環は目を見開く。目の前の床に、大きな白い闇の月が重なって見えた。そこに一滴の染みのような赤が混ざり、白い月を早く静かに覆っていく。

 赤く染まった月から環に向かって、恐ろしく大きな力がうねりをもって降り注ぐ。背筋を滑り落ちるように全身に痺れが広がる。心の奥底まで、黒い力が流れ込んでくるのがわかった。


==============


「はっ、はっ……は…………」


 荒い呼吸をしていた環が不意に静かになった。

 取り押さえていた体から力が抜けて、タントルーヴェは慎重に環の様子を窺った。横を向いた環の目は、光を失って見開かれている。


 エーベリュックを確認しようと環から目を離したタントルーヴェは、次の瞬間、後ろ手に押さえていたはずの環の右手が、自分の手首をそっと掴んでいることに気づいた。

 雷が落ちるように悪寒が走り、とっさに体当たりするようにエーベリュックを抱えて、もろともに床を転がる。同時に風を切る速さで振り上げられた環の指先が、飛びすさるタントルーヴェの頬をかすめた。


「っ!!」


 素早く身を起こして、タントルーヴェはエーベリュックを背に庇った。

 環は半身を起こし、足を流してしどけなく座っていた。頭はうな垂れたままで、振り上げた右腕だけが上へ伸ばされていた。


「……閣下、離れてください。危険です」

「ぐ、ぬぬ。ついに魔物になったか……」


 囁くタントルーヴェに、呻き声を出しながらエーベリュックが起き上がる。

 ゆらりと立ち上がった環が、うな垂れていた顔をゆっくりと上げた。


 瞬きをしない瞳に理性の光は残っていない。ぽっかりと空いた虚ろな闇の淵を覗き込んでいる気分になる。


「やはり護符が押しとどめていたか。完全に闇に堕ちたようだな……」


 そう分析するエーベリュックの声が理解できたわけでもないだろうが、六大魔のしもべとなった環が、口を歪めてニタリと笑った。

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中途採用アラサー魔術師 湯豆腐 @yuba_yudoufu

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